7 君の名は
振り返れば、倒れた自転車に、壊れて散らばったモザイクガラスのランプが目に入った。倒れている人に近づけば、ぎょっとして壊れたランプと交互に見られる。
「あれ……君……なんで???」
「大丈夫ですか?」
ハンカチを出そうとして、荷物は全部店の中だと思い出す。脇からスッと伸びた手は旺汰さんのものだった。
「あらぁ。血が出てるじゃない。こっちにいらっしゃい。手当てしましょう?」
半分裏返った声に、人を食ってきたかのように赤の滲んだ口元。あちこちすりむいてたお兄さんは、ひっと小さく悲鳴を上げて、「結構です!!」と、逃げるように立ち去って行った。
「んまぁ。酷いわねぇ」
ニヤニヤとその背中を見送ってから、旺汰さんはランプの欠片を拾い集め始めた。通行人が遠巻きに視線を投げていく中、私もそれを手伝う。
「いいのよぉ。中にもどっていらっしゃい」
「でも……」
「一緒に戻るより、目立たないデショ」
旺汰さんの――レッテさんの気遣いに、ちょっと泣きたくなる。
結局、私は黙ってその気遣いに従った。
*
店の中に戻れば、明かりがチカチカと瞬いた。
まるで、代わりに「僕はどう?」って主張するように。
理由はどうあれ、私が選ぼうとしたモザイクガラスはどちらも壊れてしまった。次に選んでも、また壊れてしまうかも。そう思うと、綺麗なランプに目を向けるのも悪いような気がした。
「おーまーたーせぇ」
レッテさんはいつも通りで、温かいものを淹れましょうねって引っ込んでいく。
出てきたのはいい香りのほうじ茶だった。
一番聞きたいことは、いきなりは聞けなかった。だから、壊れてしまったランプのことを聞く。
「ゆめちゃん、お金を払ったでしょう? あなたに買われて、身代わりになることで、壊れてもあなたに刻み込まれる。だから、了承してくれたの。良かったわねぇ。忘れないでいてあげてね」
レッテさんは美人なお姉さんの姿で、どうやら化粧も直したらしい。胸元の開いた黒のニットワンピもちゃんと似合っている。じっと見つめれば、くすりと笑われた。
「恥ずかしいって。いやぁねぇ。おっさんが、女子高生みたい」
レッテさんは肩をすくめて、煙草を一本取りだした。
「吸わせてねぇ」
火をつけて、ふっと横に煙を吐き出す仕草まで様になっている。「吸う?」なんて煙草を差し出されたけど、そんな気にはなれなかった。ゆらゆらと指先で火のついた煙草を遊ばせながら、レッテさんは上っていく煙を目で追った。
「おーちゃんはねぇ、おーちゃん『も』って言った方がいいのかしら。うちの商品なのよ。うちの扱う商品がどんなものか、覚えてる?」
『忘れられかけたもの』。思い出して、ちょっと青くなる。
「そんな。人間なのに」
「普通はね、仕入れないのよ。いろいろ、面倒だったりするから。でも、ちょうどワタシも器を探してたし、どうされてもいいなんていう好条件、なかなかないから、ね? 商品は勝手に店から出たりしないでしょう? 契約条件なのよ」
レッテさんは私の鞄を漁って、クレンジングシートを取り出した。ゆっくりと口紅を落としていく。
「でも、外には出てますよね?」
「そのための器だもの。勝手にできないように外ではワタシしか主導権を握れないわ」
頷くレッテさんに私は少しだけ首を傾げる。
「それなら、レッテさんの姿でもいいんじゃないですか?」
んふ、と彼女は楽しそうに笑った。
「ところがねぇ、おーちゃんは商品なのよ。完全に忘れられたら、消えちゃうの。商品に消えられたら、丸損よね? ワタシもまた器を探さなきゃいけなくなる。定期的に強烈に印象付けるの、成功してるでしょう?」
だけど、誰も簡単に手に入れようなんて思わない。
つまり、そういうこと?
旺汰さんは、それでもいいと思ったってこと?
少し角度を変えて、レッテさんは私の瞳を覗き込みながらチークを落としていく。
「気になるかしら。聞く? おーちゃんの、いたかもしれない子供の話」
ぴくりと化粧を落とす手が震えた。その手に意地悪な視線を向けて、レッテさんは笑う。
「ゆめちゃんは、この店で買い物をした。もうおーちゃんの接客は終わった。あの行動は、そういうことでしょ? でも、聞く?」
どの立場で?
覚悟を迫られている気がした。興味本位で聞いていい話ではないんだと。
置いてある荷物を見やって迷う。これを抱えてここから出たら、もう二度と辿り着けなくなるのかもしれない。かといって、私に旺汰さんを買おうという気持ちも、お金も、足りない気がする。そうするにはもっと一緒に話したり、出掛けたり……そういうことが必要だ。やっぱり要りません、って戸棚にしまいっぱなしにできる話じゃない。
迷う私を、レッテさんは楽しそうに待っていた。
「んふふ。どこで迷ってるのかしら。学生さんだもの、金銭的なこと? ゆめちゃんにはお世話になってるから、相談に乗るわよ? わぷ」
クレンジングシートで口を塞いだレッテさんは、ちょっとだけ形のいい眉をしかめて、反対の手で自分の手を退かした。
「相応の対価でもいいわよ? そうね、たとえば……次の、器、とか」
つつ、とレッテさんの細い指が私の頬と唇をなぞった。
「女同士だもの、上手くやれると思わない?」
怪しい微笑みに固まっていると、クレンジングシートを持った手が、ぐしゃぐしゃと顔を拭いた。あっという間におじさんの顔が現れて、ニットワンピはパツパツになる。
「大学の時に恋人だったやつが、妊娠したって言ってきたんだ。じゃあ、籍を入れようかって話が進みかけた時、海外の結婚式に呼ばれた親戚一同が乗った飛行機が落っこちた。その便に乗らなかったのは俺ほか数人。バタバタしてるうちに、彼女はもう一人付き合ってたやつと結婚が決まったからって、あっさり乗り換えられて。呆然とする間もなく大学も辞める羽目になって……気付いたらひとりだった。それだけだ。帰れ女子高生。二度と来るな。同情も要らない。さあ!!」
ビシッと指差される先のドアは開いてない。
同じ旺汰さんの口から、柔らかく意地悪な声が続いた。
「彼女はね、子供には『ゆめ』って名前を付けたいって言ってたのよ」
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