第41話 傷

 目を覚まし、ゆっくりと立ち上がった日野の鋭い爪が、ハル目掛けて力一杯振り下ろされた。


 地面をえぐる大きな音と共に砂埃が舞う。


 ハルは咄嗟に体を捻り回避したが、先程までいた場所には人間の力では出来ないような爪痕がくっきりと残っていた。


「ショウ……ちゃん?」


 呼びかけても返事はない。日野は、ただ愉しそうに笑いながらハルを狙っている。


 すると突然、赤みがかった髪の子供が日野の後ろからその長い黒髪を掴んで思い切り引っ張った。


 ガクンと体勢を崩した日野は膝をつく。その隙に、傍に落ちていた青い本を子供が拾い上げた。


 子供は、もう手離さぬようにと本をギュッと抱き締める。


 すると、俯き垂れた黒髪の間から、金色の瞳がジロリと子供を睨んだ。


「その子は関係ない! 殺すなら、私を殺せ!」


 そう言って子供がキッと睨むと、日野は小さな声でくつくつと笑いながら立ち上がり、子供の胸ぐらを掴んで持ち上げる。


 その光景が、アルバートが刻に引き裂かれた光景と重なり、ハルは唇を噛んだ。


 日野の前に回り込むと、子供を持ち上げるその細い腕に飛びつく。


「なにしてんの!? 私は殺されたいんだ! 邪魔しないでよ!」

「離さない、そんなの許さない! ショウちゃん、ボクのこと分からない!? 手を離して! ショウちゃんは人を襲うような人じゃないでしょ!」


 ハルの叫び声に、日野がピクリと反応する。


 その様子を、グレンが日野の元へ行けぬよう押さえながら眺めていた刻がケラケラと笑った。


「やはり異世界から来ていたのか。面白いことになったな」

「ふざけるな! 手を離しやがれ! 今すぐあいつを元に戻さねぇとブッ殺すぞ!」

「元に戻す方法はない。よほどの精神力がなければ、そのうち自我を失い破壊の限りを尽くす化け物になる」


 そう言って、刻はグレンを押さえていた手をパッと離した。


 その瞬間、グレンの拳が刻の頬を力一杯殴りつけ、グレンは日野とハルの元へ駆けて行った。


 赤くなった頬を撫でながら、刻は日野に掴まれている子供を見つめる。


 何故あの子供は本の文字が読めたのか……本来であれば別世界から移動した者にしか読めない筈だった。


 世界を移動する前は本の文字を読むことが出来ない。異世界への転移後に初めて本の内容が読めるようになる。


 何故だ? 何故あの子供は読むことが出来た?


 考えられる原因は……顎に手を当てながら思考を巡らせ、刻はポツリと呟いた。


「転生したのか……?」






 ドサリと子供が地面に落ちる。


 ハルの声に反応した日野が、胸ぐらを掴んでいた手を緩めていた。


 日野の腕に掴まっていたハルがホッとしたのも束の間、その腕が振り下ろされ、手を離してしまったハルは地面に背中を打ち付けた。


 日野はニッコリと微笑むと、ハルを引き裂こうと爪を立てる。


「ハル!」


 そう叫んだグレンの声と同時に、布や肉が裂ける音が聞こえた。


 ポタリポタリと地面に赤い点が並ぶ。ハルは目を見開き、その大きな目に沢山の涙を溜めていた。


「グレン……なんで……?」

「自分の身は自分で守るんじゃなかったのか?」


 ハルを庇ったグレンの腕からは血が溢れ、裂けた服の間からはパックリと開いた傷口が見えていた。


 その腕の中で、ギュッとグレンの服を握り締め、ごめんね……と言ったハルの涙をそっと拭うと、グレンは目の前で笑う日野を見つめる。


「元に戻す方法が無くても、何とかするしかない。こいつを止めるぞ、ハロルド」


 グレンの言葉に、コクリとハルが頷いた。


 二人を見つめる金色の瞳がゆらゆらと揺らいでいる。日野の身体の中には、無数の感情が雪崩れ込んできていた。


 その全てが、怒り、悲しみ、憎しみといった負のエネルギーを纏っている。


 本には沢山の人の悲しみや苦しみが詰まってる。


 触れてしまったことで、それが身体に雪崩れ込むと破壊衝動が止められなくなる。


 アルバートの言葉通りだった。


 拒絶された、存在を否定された、大切な人を失った、誰かを傷付け命を奪った、認められなかった……自分なんて……いなければ良かったのに……そんな声が、会ったこともない沢山の人々の悲鳴が身体中に鳴り響き、心が耐えられない。


 壊したい。


 何もかも、なくなってしまえ!!!


 負のエネルギーに埋め尽くされ、人や世界を破壊する為だけに身体が動く。


 風に乗って漂う血の匂いが心地よく、とても愉しかった。


 しかし、何故だろう……傷付ける度に悲しいと感じるのは何故だろう。


 どうして……その思いを掻き消すように、日野は再びグレンへ爪を振り下ろした。

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