第29話 どっちだ?

 痛い。頭が痛い。視界も霞んでよく見えないが、二人分の足音が近付いてきたのは分かった。


 それに反応して、日野が振り返る。


 赤みがかった髪の子供は、近付いてきた二人を見るとその小さな手で日野のスカートをギュッと掴んだ。


 どうしたのかと日野が子供へ目を向けた時、近付いてきていた足音がピタリと止まった。


 グレンとハルが追いかけて来たのか? また心配をかけて怒られるかもしれない。


 申し訳なさそうに日野が顔を上げると、その頬目掛けて突然拳が飛んできた。


 避け切れず、鈍い音が耳に響く。


 思い切り頬を殴られ、日野はそのまま地面に倒れてしまった。グレンとハルじゃない。


 一体誰だ?


 霞む視界の中で、子供が本を抱えたまま心配そうに近寄ってきたのが分かった。


 逃げなければと思うが、倒れたままの身体を上手く動かせず、日野はそのまま意識を手放した。



「やっと見つけたぞ。さあ、本を渡すんだ」

「ご、ごめんなお嬢ちゃん達。兄貴ったら言い出したら聞かなくって……」

「やだね。読めもしないあんたらに渡してたまるもんか。あんたらは選ばれなかったんだ、諦めな」

「選ばれる? なんの話だ。誰も読めやしない本に価値はない。しかし、その本に付いている装飾と宝石は売れば金になる。俺たちだってまともな服を着て、普通のメシが食いたいんだ。さあ、黙ってそれを寄越しな」


 倒れた日野のそばを離れようとしない子供に、男達の大きな手が迫る。


 渡すまいと子供が本を抱き締め、ギュッと目を瞑った時、チチチっと小さな鳴き声が聞こえた。


 それは目が追いつかない程の速さで壁を駆け上り、一気に兄貴と呼ばれた男の顔へ飛びかかった。


「っぐ、なんだこれ!?」

「ひぃ!? 兄貴、ネズミが顔に……」


 兄貴がグイグイと引っ張るが、ネズミは顔にガッシリとしがみついて離れない。


 もう一人の男はネズミが苦手なのか、兄貴から離れガタガタと震えている。


 すると男達の方へ、いかにも不機嫌そうな声がかけられた。


「そのネズミな、こいつじゃないと剥がせないぞ」

「グレン、ネズミじゃなくてアルって言ってよ」

「名前で言っても通じないだろ」


 こいつ、と言いながらポンポンと深緑色の髪を撫でると、グレンはジロリと二人の男を睨む。


 ハルはパタパタと兄貴へ駆け寄ると、しゃがんで欲しいと伝え、兄貴の顔からアルを引き剥がした。


 ふと、その奥を見ると日野が倒れている。


 その頬は痛々しく腫れていて、日野に寄り添う子供が心配そうに顔を覗き込んでいた。


 そしてその手には、あの日アルバートが持っていた物と同じ本が握られている。


 ハルは赤みがかった髪の子供に駆け寄った。


「……それ、一体どこで。グレン!」

「なんだ」


 男達の間を抜け、グレンがズカズカと歩み寄る。


 倒れた日野の前に膝をつくと、殴られた痕の残るその頬に手を添えた。意識が無い。


 グレンは眉間にシワを寄せ、小さく舌打ちした。


「女の顔に傷つけやがって……」

「グレン、ショウちゃんも心配だけど。その子の持ってる本……」


 ハルの言葉にグレンがちらりと子供を見やる。その小さな手には、例の本が握られていた。


「お前、それどこで……」

「おいおいおい、俺達を無視して話してんじゃねぇよ! さっさと本を渡しな! せっかく金になる物を見つけたんだ、部外者が邪魔するな!」

「わ、渡した方がいいよ。あ、兄貴凄く強いから……」


 話を遮られ、グレンが不機嫌そうに男達の方を振り向く。思い切り睨み付け、立ち上がった。


「……こいつの顔殴ったのどっちだ?」

「それは兄……」


 気弱そうな男が言いかけた瞬間、グレンの拳が兄貴を吹き飛ばした。


 気弱そうな男が兄貴へ駆け寄り、その身体を支え起こす。


「悪いが、喧嘩なら負ける気は無いぞ。それに、人には色々と事情があるかもしれんが、この本は譲れない」

「最初から譲ってもらう気はない、何がなんでも奪うだけだ……おい!」


 兄貴が声をかけると、気弱そうな男もキッとグレンを睨み付け臨戦態勢に入る。


 二人は同時にグレンに飛びかかった。が、グレンはそれを軽やかにかわす。


 兄貴を引っ張り自分の前に出すと、その腹部を蹴り飛ばした。再び吹き飛ばされた兄貴は弾みで頭を地面に打ちつける。


 苦悶の表情を浮かべ、そのまま意識を失った。


 まだやるか? とグレンが声をかけると、気弱そうな男はガタガタと震え始め、すみませんでした! と兄貴を引きずり逃げるように去っていく。


 ボロボロの服に、少し痩せた身体の男達。


 ここは明るく活気のある華やかな街だと思っていたが……グレンは面倒くさそうに頭を掻くと、男の背中に声をかけた。


「おい」

「な、な、なんでしょう」

「病院は?」

「そ、そんな金……僕達は……今日の飯を食うのにも精一杯なのに……」


 そう答えた気弱そうな男の目からは涙が溢れ出しそうになっている。


「アイザック」

「……え?」


「医者の名前だ。この街の医者の屋敷にまだいるはずだ。あの人なら診てくれるだろう。アイザックを探せ」


 グレンがそう言うと、気弱そうな男は頬に伝った涙を拭い頷いて、兄貴を引きずりながら去っていった。


 涙が溢れ出した男の顔を思い出し、ちょっとやりすぎたな……と少し反省すると、グレンは倒れた日野の方へと振り返った。

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