第43話 七月二十二日、午前十一時五分。+一周。
唐紅の金魚が泳ぐ風鈴が、チリン、チリン、と縁側の庇で夏を奏でている。
「おっとっと、……はーい、どーぞ、麦茶だよ!」
縁側の木目を指先でうっすらとなぞっていると、古風なお盆に載せられたガラス茶器が僕の座っている脇に置かれた。カラン、カラン、と鳴る氷。これもまた夏らしい夏の音だ。何かが始まるわけではないが、何かが始まりそうな予感がする音。ちょっとそれどころではない心持ちでさえなければと惜しまれる。
「……あらあら、これはどうもご丁寧に。……いただきます」
茶器を受け取り、乾涸びてカラカラな喉を一気に潤す。
真夏の暑さが喚き散らす時刻の今にとって、冷えた茶器の麦茶はあまりにも犯罪的が過ぎた。
躊躇いの心を忘れ、思わず一気に飲み干す。その後、つん裂くようなこめかみの痛みに後悔する。
「……あー、くぅー、……でも、おいしいな」
「ねぇ、ねぇ、馬鹿くん。馬鹿くんには趣味とか無いの?」
仮面の少女は、ウキウキで僕に『お話し合い』を求めてくる。
……それにしても、馬鹿くん、かぁ。呼ぶ方も呼ばれる方も偏差値が低そうで僕らしい名前だこと。
「……うーん、特には無いかな。あっても憶えて無いやろし」
強いて言えば、こうしてのんびり茶を啜るってのは風情があって好きかも知れない。
しかし、それは心中の吐露。そんな口にはしない告白など露知らずほへぇとした表情をしていそうな仮面の少女は、そっかー、とちょっと残念そうに俯き、ぼやく。ちょっぴり愁げだったのは気になったが、彼女の僕への質問攻めはしばらく続きそうだったので話を腰を折る行為はやめにした。
「だったらさ、だったらさ、好きな食べ物とか、好きな場所なんかは?」
「……どうやろ、好きな食べ物というと唐揚げ弁当かな。美味しかったし。それに好きな場所と言えば、琵琶湖沿いの夕街道なんかは静かで楽しかったかも」
「……はえー、場所はともかく、食べ物は岸辺さんの好物なのかな?」
そうかもしれない。この身体、チビの癖して意外に食いしん坊だから。
まったく、それにしてもガッツリ系弁当でもむしゃむしゃ貪っちまう身体の割には行き届くはずの栄養素が鳴りを潜めているじゃないか。何故なのか。栄養素のみなさんは恥ずかしがり屋さんなのか。よくわかんないが、決して燃費のいい身体では無いのだからせめて成長を促進してやってくれ。不憫でならない。
「それで、湖畔が好きなんだ。……でも大津市近辺の琵琶湖は臭わない?」
「……まー、そうやね。夏は特にだし、泳ぎたいって気分にはならんね、」
いやね、大学生のカヌー選手なんかはよく見かけるんですけどね。滋賀県在住ながら、よくやるなー、と思うわけですよ。
「……正直、琵琶湖は好きやけど、どうせなら潮風を浴びたいと思うのです」
「はははー、わかる、わかる。海なし県だもんね、滋賀。伊吹山みたいな山々は沢山なのに海がないと来たのですよ」
縁側に足をぶらぶらさせながら、嬉々として滋賀をディスる仮面の少女。
「日本一と言えども、所詮は湖だしね。海には勝てんのですよ。海には!」
流石は滋賀県民、琵琶湖トークは鉄板中の鉄板らしい。もはや遺伝子レベルの話題性だ。
特に琵琶湖大好き滋賀県民の愛故の琵琶湖ディスは他県の追随を許さない。なんせ、滋賀県の面積の六分の一も占領してやがるのだ。六分の一だ。もはや琵琶湖が本体、琵琶湖以外に何もない、と言っても差し支えがない。率直なことを言えば邪魔だったりするのだが、邪魔と言えないのが滋賀県民なのだ。
大津市方面から草津市方面までのルートでさえ面倒なのに。交通の手間も考えて欲しいのだ。
まったく。それでも、滋賀県民は琵琶湖に始まり琵琶湖に終わる。琵琶湖に収束してしまう。
これはもう、愛(アモーレ)、なのだ。
「……とはいえさ、海は海で、遊ぶ人種の性格が出るというか、…………」
…………あれれ、思えば僕、この子の性格を知らない。
「……性格どころか、住所も、経歴も、名前も知らない」
「んー、どうしたのー??」
「……いやーね、僕が『馬鹿くん』なら、君は何と呼べばいいのかなって」
「……あー、そうだった、ほんとだね。……うーん、なんでもいいよー?」
仮面の少女は、まったく興味なさげに僕に命名権を譲ってきた。
「……いや、名前、教えて欲しいんやけど」
「……うーん、そうだよねー、名前、必要だよねー。ずーっと一人だったもんだから、私、名前とか持ってないんだ。戸籍とかも無いし、母さんみたいな人には役立たずだって捨てられたから。……あー、そうだ、馬鹿くん!君に因んでさ、『阿保子』なんてどう?……どう??」
……いや、どう、と仰られても。唐突な告白に僕の理解は追いついていない。
「……名前を持ってないって。……その、君も記憶喪失だったり、じゃないの?」
「あー、馬鹿くん、ダメだよ!阿保子だよー!」
仮面越しにぶくりと頬を膨らませている絵がやすやすと想像できる。
しかし、『阿保子』なんて名前、よそで聞けばいじめじゃないかと疑われそうで嫌なのだが。
「……その、あ、阿保子ちゃんも、記憶が無かったり?」
「記憶はばっちり。でも、ちょっと産まれ方が悪かったの」
遠い目をして、真っ青な空を眺める仮面の少女、もとい、阿保子ちゃん。
「……やめようよ、こんな話。私は馬鹿くんと楽しくお喋りしたいだけなのに、世界一嫌いな人のことなんて思い出したくもないし。……うん、文字通り、時間の無駄使いだよ?……時間はさ、別に有効利用しなくちゃならんってほどの資産じゃないけど、幸福で満ち満ちる努力は怠っちゃならんのですよ?」
そう笑って見せるジェスチャーの阿保子ちゃん。
小粋なジョークのつもりだろうが、笑えない。
彼女の言葉を根掘り葉掘り、委細を聞き出すべきか否かで言えば、断然に聞き出すべきなのが正解だろう。彼女の過去、遍歴は、きっと諸現象に対抗し得るなんらかのヒントになるはずだ。彼女自身、僕の『自己犠牲』について言及もしていたのだから、本当に重要な情報を彼女は握っているのだろう。
……胸に誓った言葉を忘れたわけじゃないだろう、僕。
……これらの異常事態を解決する。僕が必ず解決する。
「……阿保子、うん、ええ名前やと思うで」
「……え、えへへ。実は我ながら、君に引っ張られすぎなネーミングやと思ってたから、恥ずかしかったんだけどね」
「…………」
「……それは、その、どうもありがとうございます」
モジモジと恥ずかしそうにしながらも、恭しく礼を述べる阿保子ちゃん。
(なにをしているのだ、僕。どうして、彼女から情報を聞きださないのだ。)
「……ね、阿保子ちゃん。阿保子ちゃんは何処で寝泊まりしてるん?」
「えーっとね、ここの神社が私の家なんだ。実は仮だけど。いろいろと悪いことをして私のものにしちゃったんだー。寝泊まりに入浴、食事も一式でここで済ませてるよ。……静かだし、綺麗だし、ぼーっとできるし、馬鹿くんも気に入るんじゃないかなー?」
(なにをしている。なにをしている。なにをしている。はやく、聞き出せ。)
「ねー、ねー、せっかくだし泊まってきなよー。私、ずっと暇してるんだよ?」
「……いやー、僕もやることとかあるし。女の子と同じ屋根の下で二人って公序良俗的にちょっとやし」
「えー、どうせ岸辺さんの身体なんだから大丈夫だって。私も襲わないからー」
「……それに、岸辺さんが帰りを待っているだろうから。一人にはさせられんよ」
「ぶー、ぶー、差別だー!岸辺さんが良くって、私がダメな理由を説明をー!」
(ふざけるな。ふざけるなよ、僕。何故聞き出さないのだ。どうして笑う。)
(ここで、『お前』がなにもしなければ、)
(『僕』は、本当に価値のない存在だぞ!)
…………コツン、と額を小突かれた。
「もー、馬鹿くん、ダメだよ。そんなに自分を責めちゃ」
それはおもむろな行為だった。阿保子ちゃんは表情を作っているようにさえ思えてくる温度のありそうな狐の面を僕と触れ合う距離にまで縮め、僕はそれに硬直するのみだった。暖かな吐息が僕の頬を撫で、柔らかい髪が僕の肌に落ちた。
「……君が私から情報を聞き出したくない理由、簡単だよ?」
「…………なんで、それを」
「……それはね、『君』自身の意志だよ。『君』のワガママ」
「…………わが、まま?」
「……ワガママって言い方は良くなかったかな。でも、君は今、自分の意志で君の使命を拒んだの」
「……おめでとう、馬鹿くん。君のやりたがっていた、『僕』の証明だよ」
「……君が、あの歩道橋で苦悩の末に手に入れたかった偽りのない『僕』」
「……これが、君の自我だよ」
その祝辞の言葉は、彼女にとって、一番の温かみを込めた言葉だったのだろう。
膝の上で当惑を隠せずにいる僕の手に手を重ね、座る僕の身体に身体を委ねる。
……いや、その実、僕が委ねているのかもしれない。
……嫌だ。違う。これは僕の意志じゃない。僕じゃ、
「……ふーん、不服なんだ。なら、使命に従順だっていいんじゃない?」
「……使命なんて知らない。僕は、僕はただ、、、」
「ショッピングモール付近に現れる謎の『化け物』でも討伐する?……いいよ、やればいいよ、優等生くん。ここじゃ、時間は解決してくれないもんね」
ぎゅっと、僕の手は握られる。
ぷるぷると震える彼女の手に。
「……でも、でもだよ?……君は、私にだって情報を聞き出せないんだもん。きっと、なんにも出来ないよ。馬鹿くんがあそこに行ったって、なにもせず、なにも出来ずに帰るだけ。……きっと苦しいだけだよ。ただただ、自分が憎たらしくなるだけだよ。……そんなの、やらなきゃいいじゃん」
「……そんなこと、……僕は、」
「だって、あの『化け物』の正体、岸辺さんなんだよ?」
「…………それは、違う。それは、きっと、」
「……わかっているくせに。……この物語は、岸辺さんが悪者の物語なんだよ?」
否定しようと、否定しようと、否定しようと、僕の頭の中は彼女を罵倒する言葉で充満した。口汚く罵る言葉で埋め尽くし、心の底から軽蔑し、世迷言だと嘲って見せようとした。そうじゃないのだ、と。わかっていないのだ、と。なんにも知らないくせに、と。
……しかし、ついぞ、僕の口から彼女への反論はでなかった。出せなかった。
……無味無臭の透明である性質、
……岸辺さんの偶に見せる言動、
……そしてなにより、あの圧迫される存在感。
「……適当なこと、言うなよ。……岸辺さんが、……岸辺さんはッ!!」
「……馬鹿くん、君はもっと、もっと、岸辺さんを知るといいよ」
そっと、僕の身体から離れた彼女は、最後に、こう残しすのだ。
「全てを知った後、残された道を選ぶのは君の唯一の権利だから。
だから、その時、楽な道を選んでくれる君に期待しておくね」
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