第29話 七月二十二日、午後五時五十二分。

 まるで、まるで、まるで、生きた心地がしないのだ。

 手すりから乗り出していた身体を即座に歩道橋の陰に潜める。息を殺した。音を消した。気配を絶った。そうして一切の気の緩みを律した。これは意識的にではなく、本能に近く、生存のために無意識下での処置だった。……死にたくないと、僕は往来行き交う街道にて、本気でそう思った。

 なんだ、『あれ』。

 なんなのだ、あの『化け物』は。


――――――『化け物』は不可視であった。

 眼前の様子は青年の奇行を除けば、夕日の照りつける街道そのものだった。きっとそれを日常とでも呼び、平穏とでも説くのだろうが、口が裂けても僕がこれを『普通』だとは言えなかった。それが例え不可視でありながらも、見えないながらも、僕は『それ』の存在感を恐怖によって知覚した。

 大きい、大きい、『化け物』がそこに居る。

 それは所謂、『憎悪』のようであった。

 それは所謂、『懊悩』のようであった。

 それは所謂、『嫉妬』のようであった。

 それは所謂、『寂寥』のようであった。

 喉をくだる唾までもが滲み出される害悪に犯されそうになってしまいそうな錯覚を受ける。質量の概念があるのかは定かではないが、震えが止まらなくなるほどの圧迫感は僕の息を詰まらせる。文字通り、気が狂っちまいそうな、そんな感覚が脊髄の奥底を刳る。

 やはり、断言していい。『化け物』が居る。

――――――『化け物』は明確な意思のもと存在している。

 

「……なんで、あれに、誰も気付かないんや?」

 いくら不可視といえども、いくら見えていなくとも、これほど強烈な悪寒を引き連れる『化け物』相手を知覚することさえしないってことがあるのか。真横を通り過ぎて、その体内を抉るように潜って、それになんとも思わないってのがどうしてできるのだろうか。

 あの青年のみが、これと、この化け物と、対峙しているとでもいうのか。

「……いや、あんなもん、……あんなもん、無視で突き通せる訳がない」

 やはり、認識さえ、していないのだ。誰も。僕と青年以外の、誰も。

 まるで不可視という概念がさも不存在に結びつくかのような、そんな偽りの安寧の元に『化け物』を素通りしているのだ。

 ……手足の先まで寒気が襲う。

 ……嗚咽を伴う吐き気を催す。

 ……どうしたって、拭い切れない嫌悪感が増長する。

 叶うのであれば、このまま何もしなくなかった。

 許されるのならば、ここから立ち去りたかった。

「……いや、あの青年、どうなるんや?」

 ふと、同じ境遇の青年の方を、歩道橋の陰った隅から顔を覗かせ見やる。否、同じであるものか。青年の方がずっとずっと窮地であり、絶望的な状況にあるはずだ。ずっとずっと、ずっと恐さに直面しているはずだ。……たった一本の、なけなしの凸凹金属バット、あれで追い払おうとしているのだから。

 暴力的な凸凹スポーツ用具だって、今じゃ枯れ枝とさして違いがないようにさえ見える。

 もはや、あの場において『対峙』だなんて認識ですら生易しい希望論なのかもしれない。

 ……命運を分ける糸に、指を掛けられているのかもしれない。

「……あのままやと、もうきっと永くない」

 あの青年が、彼が、力尽きればどうなるのだろう。

 あのなけなしの金属バットが折られれば。心が砕ければ。両の膝を地面に落としてしまい、命乞いもままならなくなった涙声に言葉を奪われれば。想像するだけで悍ましいけれども、きっと楽とは縁遠い『死』なのではないか。どんな『死』かはわからない。ただ、何かが『殺される』のだろう。

 あの『化け物』は、人間的な感情の凝縮体のような『化け物』は、彼を殺すだろう。

 そして彼は、どれほどの畏怖の感情を一人で抱き抱えたまま死んでしまうのだろう。


「……それを、僕はのうのうと見過ごすんか?」


 ……あぁ、最悪だ。合理的にも、感情的にも、逃げる他ないってのに。

 たった二つ、僕には選択肢がある。実のところ、この絶望的な状況下において、一矢報いだけの『作戦』のようなものがある。思い付いたにしたってお粗末がすぎるその『作戦』ってもんは、それでも現状打破の一手にぐらいはなるだろう。実行における条件はたったの一つ、『僕』がそれを選択するだけなのだ。

 がなり立てる心臓を叩き、僕は『僕』を説得する。

「……選択肢も何も、逃げりゃいいやろ。……逃げりゃええやんけ」

 ……僕には、責任がない。

 ……僕には、義務がない。

 ……僕には、必要がない。

 正直を言えば、心底選んでやりたい選択肢ではあるのだ。なんだったら選ばない理由もない。そこにどうして謗りや非難を恐れる必要があるのか。それが普通の人間の所業で、常識的な行動で、なんだったら僕の行為がより他者に迷惑をかけるかもしれないのだ。僕のせいで誰かが傷つくかもしれないのだ。僕が動くってことに混乱を招くかもしれないのだ。すると僕は非難轟々の嵐に苛まれるだろう。……僕を覆う少女の皮は、僕の恐れる忌避的な視線に溺れるのだろう。

 あの教室で立ち竦む僕が、そこに佇むのだ。

 そんなところに、僕は耐え切れるってのか。

 

「……うるせぇ。……僕がやりてぇと思ったんだ」


 だが、残念なことに、心底残念なことに、それが全てだった。

「……はは、笑えへんな。……ほんま、笑えん」

 ………それに、『作戦』なんてカッコのつくもんじゃない。

 ……この場で大声で叫んでやるだけなのだ。文言は問わず。

 大声で叫ぶってのがミソなのだ。この場で「化け物が、クソくらえ」とでも叫んでみれば事態はきっと一転するだろう。なぜならば、あの『化け物』は曲がりなりにも不可視であるのだ。そんな中に自分を知覚しているぞ、と叫ばれてもみろ。透明人間がなんの脈絡もなく話しかけられれば当然驚くのが道理で、それをしようってんだから、その間は非常に短くとも隙ってもんぐらいはできるのだろう。一瞬でも気を逸らせられればいいのだ。それで十分なはずだ。

 要は、僕はこの場で『囮』になろうってんだ。

 換言してみりゃ、死にに行こうと言ってんだ。

「……だけど、まぁ、死にたいわけないんだよなぁ」

 死に物狂いで隠していた身体を、僕は歩道橋の手すりから乗り出させた。

 依然として、『化け物』ってのは不可視でありながらも不明瞭ではなかった。それは不可視であることが不存在とは結びつかないことのなによりの証左であり、もういやと知らしめられた事実だ。どういうわけか見慣れたような気がする歩道橋からの街道の様子は、日常と非日常のコントラストで出来ている。

 そのくせ僕とは無縁のようにも感じられる世界に、僕は入っていくのだ。

 それはもう変な感慨に違いなのだが、どうしようもなく嬉しくも思った。


「……あー、たぶん、僕は生きてるぞって言いたいだけなんや」

「……ここに僕が存在して、存在する僕がやりてぇっと思って」

「……たったそれだけの、大したことない決心やったりするんや」

「……ホンマを言えば、高架下で泣きっ面を晒す青年のことなんかどうでもええんや。裏切ってしまった彼女のことなんか、いや、それは、どうでもはよくないんやけど。……それはもう自分勝手で、迷惑千万で、罵詈雑言に見舞われる行為やったりするんやろうけど、……でも、まぁ、しょーがないかなって」

「……だって、そうでもせんと、消えてしまいそうやから」


 すーっと、あらん限りに空気を肺に送り込む。

 ……あぁ、もう、難しいことは考えたくない。

 考えれば考えるだけ、『後悔』の二文字が積載してしまいそうだから。こうじゃなかった未来ってのがどれだけあったか、わかってしまうから。僕の取った選択ってもんの責任や損害を思い出してしまうから。きっと考えないってのは罪作りに違いないのだろう。……だけど、今だけは考えたくないのだ。


 そうして僕は、紅に染まった雲の下で、大声を轟かせた。

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