第26話 七月二十二日、午後五時四十六分。
あぁ、やっべ、しくじった。かなりの時間を遊びに費やしてしまった。
「……お食事談笑会で一服を置いた後、洋服店に化粧品売り場でお人形さんにされて、カラオケで流行りの曲をバンバン掛け流して、締めに再びスイーツお食事談笑会。わぁー、やっばいよ。思いっきり遊んじゃったよ。……もう、クラスの人たちと眼も合わせられんよ」
「いやー、楽しかったなー!!」
「……いや、楽しかったけれども」
いやー、重い。重いのですよ。僕が持っている手提げ袋。ずーっと重い。
やってしまった感や時間は戻らない感が良心を虫食い状に呵責してくる。
「……もう夕方やのに、まだ買い出し分の手提げ袋持っているのって、、、」
「まー、うん。なんとかなるやろし。大丈夫、大丈夫!!」
どの辺に大丈夫って希望が持てる根拠があるのかはわからんけれども、彼女の言う大丈夫ってのが楽観主義も底が抜けた考え無し主義ってことぐらいは僕にでもわかる。繊細な僕の度胸じゃ、この重圧には耐えられない。……肩が重いんやないんや。心が、重いんや。
もう明日から僕の席、クラスに無いのでは?
そもそも僕の席、何処にあるのか知らんけど。
「……うぅ、どないしよう。言い訳つかんぐらいには遊んでもうた」
「どないにでもなるってー。流石に交友費をくらす費用から落として貰おうなんて思ってないし」
別にお金の話じゃないんだよな。領収証も持ってないし。
……いや、これはそれ以前の話だ。落ちないよ。予算は。
「……まー、そこまでいうなら。……ところで、電話鳴ってない?」
「んー、……あー、ほんまや。誰やろ。…………うげっ」
スマホの画面を見るや否や、蒼白な面持ちになる久遠さん。賭博は好むところではないが、千円ぐらいなら賭けてもいい。どうせクラスの件だ。そういえば、これ、もしかしてクラスへの連絡もなしにゆっくりとしてしまっていたのだろうか。……いやぁ、これ、たぶん事実を見ればゾッとすることだろう。
だから事実が見えてないうちは、全力で見ないふりをしておこうと思う。
「……あんまり聞きたくないんやけど、クラス関連やったり?」
「……あ、あはは。……はは。……うん。電話、出てくるね」
尻すぼみな回答。これはご臨終を祈る他なさそうだ。
「……骨なら、一緒に埋まってあげるから」
「……うぅー。わかった。ここで待ってて」
露骨に肩を下げ、人気の少ない方へ足速に移っていく久遠さん。
ああは言ったが、この事は彼女だけの問題ではない。僕も完全に共犯者なのだから。もしもクラスの諸子が土下座、足舐め、パシリをご所望されるのであれば、僕が率先するぐらいには庇ってやろうと思っている。なぁに、問題ない。どうせ傷付くのは『岸辺織葉』の名だけだ。
……もっとも、人前でそんなことができる根性を振り絞るのは僕であるが。
「……とはいえ、しばらくは暇やな」
結局二本も飲みけれなかったお茶をちびちび飲みつつ、ぼーっと窓の夕日に耽る。
ふと、「外の空気でも吸おうかな」などと脈絡のないことを想起し、ただ何気なく僕はエントランスの自動ドアを潜った。
国道と琵琶湖に挟まれた広場は、ラジオの収録現場を窓越しに見られる田舎ながら洒落た空間である。広くもなく、狭くもない。いい塩梅かと言われれば、国道と琵琶湖のせいで、といった方がしっくりとはくる面積だ。おのれ、琵琶湖め。滋賀県の六分の一も占拠しやがってからに。
どうでもいいが、琵琶湖のせいで大津市民は彦根市まで行くのも一苦労だ。
長浜市や米原市なんて行こうものなら別の県への旅行気分になってしまう。
ほんと、甲賀市を見習ってほしい。琵琶湖関係なくアクセスが悪い甲賀市の信楽帝国はもう別の国である。
「……記憶喪失ながら、よくも滋賀県についてはこうもわかるもんなんやな」
きっと愛するが故なのだ。だから滋賀県ないし琵琶湖への悪口は愛故なのだ。
……それでも甲賀市については忍者と信楽焼ぐらいしかわからんって、どんな秘境なんや。
……だからワンランク落ちてケムマキ止まりなんだよ。いい加減しろ、甲賀市っ!!
「……にしても、こりゃ、明日は雨かな」
湿った暖かい風に、山の稜線が分厚い雲に被さっている。夏の空の雲だ。まだ晴れの空なのだが、明日でにもなれば、ここら一帯が雲にどんどんと覆われてしまうだろう。夏の雨の匂いは嫌いではないのだが、なんだか損をしているような気分になってしまう僕もいる。
いつか聞いた天気予報、どうやらそれは当たりそうだと、そう思った。
――――――たす、けて。
それは、ほんの一瞬、ほんの微かな空気の摩擦を疑う程度の音だった。
しかし、それが妙に気になった。日常に埋め尽くされた雑踏とは別種の、差し迫った緊張感のようなものを感じたためだと思う。音源なんて辿れるほど確かな音ではなかったため、あてずっぽうに周りを見渡してみると、国道を挟んだ向かいの街道、歩道橋で繋がれた奥の往来がざわめいていた。
不健康に血管が詰まっているような街道の様子に悪い予感が塊になって襲う。
「……なんや?……なんか、あったんか?」
僕と同じく、僕の周囲の視線も一点、向かいの街道に向けられる。
――――――くるな、来るな。
そして、ようやっと僕はこれが『声』だとわかった。
向かいの街道を見遣れば、そこにはポッカリ穴が空いたように閑散しているスペースがあった。それは何かを避けるように、または遠巻きに傍観するように、通行人だろう人々は皆一様に困惑する様子が見てとれた。かくゆう僕もその一人だった。僕も、それから目を離せなかった。
それも、そうだ。それは異様な光景だったのだから。
その円の中心地、そこには息の乱れた『青年』がよろよろな足取りで立っているのだ。
風態を言えば、彼は一見して好青年だと判別のつくような好青年である。半袖を着崩した制服姿で、不思議と僕はその制服に強い既視感を覚えた。というのも、おそらく、あれは西大津高等学校の男性用の制服ではないか。学年こそわからんけれども、確かに、そうだと思う。
――――――そんな好青年が、今にもぶっ倒れそうな青い顔をして、
――――――ひたすらに、もうただひたすらに、狂っていたのだ。
「――――――こっちに来んな、化け物っ!!」
はじめて明瞭に聞き取れた単語は、どうしようもなく、物騒なものだった。
あれは、なんだ。ままならない呼吸、血走った眼、尋常ならざる発汗、そして焦燥感。どっからどう見たって只事じゃない。何か、もうそれはどうしようもない何かが、そこにあるかのようだった。
「――――――やめろ、やめろっ!!」
錯乱状態にある青年は、まるで冷静さを取り戻す気配を見せない。
…………ゴンッ。それは、突如、往来に鳴り響いた鈍い衝撃音だった。
音の正体は一発で判明した。雑多を踏み荒らす雑多においても、それはギラリと稲妻の如く存在感を放ち、でこぼこにひしゃげたそれを見て僕は血の気が引いていくように感じた。
……青年は、獲物を引っ提げていた。
……ロゴの歪んだ、暴力的な凸凹金属バットである。
――――――――――――
「……おい、あれ、危ないんやなかいか?」
口の端から出た『危ない』って単語、そこから連想されるは悲惨な結末ばかりであった。ただでさえ人通りの多いこの街道で、アレが縦横無尽に振り回されたならば。……きっと、無事ってことはないだろう。……下手をすれば、血が、流れるかもしれない。
「……け、警察は、……あ、そういえば携帯は、、、」
…………そんなもの、記憶のある範囲で一度も触れたことさえない。
つまり、今、僕がここで警察を呼ぶ術を持ち合わせていない。ここら一帯の地理に詳しい訳でもないし、交番の在処なんてもんも知らない。このような緊急時に対処できる処置なんて方法だって、最低限の冷静さすら欠こうとしている僕があるはずもなかった。
……あれ、すると、なんだ、、、
……僕に出来ることなんて、ないじゃないか。
「……あれ、……なんでそもそも、僕がどないかせんとアカンねや?」
この手には、携帯もなければ、知識もなく、対処する方法だってない。
なんだったら、助けてやる理由や義理なんてもんもないじゃあないか。
「……そもそも、……そもそも、僕は、この現場に居合わせただけの一般人やろうが」
……なんら、関係性のない一般人のはずだ。
……そして、役務やシガラミのない一般人。
……それに、青年の奇行による危害を加えられる位置関係にさえもいない一般人。
思えば、今朝の窓ガラス破損の事件だってそうだった。無知で無責任で無防備な僕が首を突っ込もうものならば、きっと悲惨なとばっちりを喰らうことは必須だっただろう。だから僕は深く事件に介入することを無意識下にでも拒んだのだ。
そんなもんに、わざわざ僕が、危険を犯す必要なんて一切ない、と。
きっと、それは正解なのだろう。馬鹿を見るのは明らかなのだから。
偽善心にも満たない道徳心で行動を起こそうものならば、僕の身一つの問題に留まらないであろう。そもそも、この身体は僕のものではない。それに二次被害の可能性だってある。かえって迷惑をかけるかもしれないし、なんだったらアレが一連の演技だったりするかもしれない。
……あぁ、そうだ。その通りだ。すべて正しい。
「……僕である責任論がない」
「……僕である義務感がない」
「……僕である必要性がない」
僕は、岸辺織葉ではない。僕は、『僕』なんてものもすら知らない。他人を前に、クラスを前に、担当教諭を前に、久遠さんを前に、僕は『僕』ではない誰かを演じてやり過ごしてきた。だったら、巷のスーパーヒーローのような確固たる正義感に基づく自我だってあろうはずもない。
「……だったら、この場における僕の判断基準は、僕がどう思われるかで十分や」
正気ではないような暴れっぷりだったもんだから、ここらの通行人からは否が応でも青年に注目が集まっていく。既にこちら側の街道では野次馬が詰め寄る事態となってしまっていた。すると、この小さな身体だ。あっという間に潰されそうになってしまいそうになった。
誰もが皆、関心ばかりが膨れ上がっているらしい。
しかし、一定の位置からは踏み込もうとはしない。
まるで珍しいテレビ番組でも眺めているかのような、無責任で無秩序な好奇の目線。
……だから、なんだってんだ。僕にこれを嗜める権利があるとでも思っているのか。
「……せめて、ここからさっさと退散しよう」
全部、全部、全部、見なかったことにしよう。
そして、可能な限り自分の存在を希釈しよう。
そうしていつか、こんな出来事もあったことさえ忘却の彼方へ投げやれば、この心に燻るモヤモヤだって消し去れるはずだ。全部、全部、全部、見なかったことにして、そうして一旦の安寧を築ければいい。そうすれば、きっと僕の中からは何も残らなくなる。
もう、それでいい。
もう、うんざりだ。
葛藤も、奮闘も、決断も、僕には体力がない。僕はもう、疲れた。
だから、『僕』なんてもん、このまま消えてなくなれば――――――
――――――がさり。
無機質な物音は、この群衆から抜け出そうとする僕の足を止めた。
その物音の正体は、なんでもない、僕の肩から下げている手提げ袋からだった。
ずっと気付かなかったのだが、この手提げ袋、何処かの大学のロゴマークが入っていた。聞き覚えがある程度には有名な大学のものらしいが、現役大学生がこのようなロゴ入りアイテムを持っているところを少なくともショッピングモール内では見ることはなかった。
こんなセンスの欠片も感じない代物。
よほどの無頓着な輩ぐらいしか使わない。
「……あぁ、らしいな。……そっか、帰れば、彼女もいるんか」
あの姿も見た事がなければ、ちゃんと話したことさえ無い人。
もし、もしも、の話である。彼女であれば、本物の『岸辺織葉』であれば、こんな場面で遭遇したとしてどんな風な反応を示すのだろうか。きっとクレバーな彼女のことだから、解決に乗り出せばすんなりと一件落着となりそうなものだが。
……どっちにしても、僕は岸辺織葉にはなりきれそうにない。
……僕は、岸辺織葉になりきれていない。
……だったら、本当に僕は誰なんだろう。
「……あれ、僕はこれ、どうしたいんやろう」
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