第17話 七月二十一日、午後五時十二分。

 気付けば既に西日が照る時刻であった。

 後にも先にもギシギシと建て付けの悪さばかりがが悪目立ちするアパートへの到着は、それすなわち帰宅である。早退の分際でありながら夕方帰宅とは我ながら図太い性格の持ち主らしいと自画自賛してみたりするが、下手を打てば夜間帰宅もあり得たのだから強靭なマイハートを誇っておこう。

「……あの小悪魔さんめ。しきりに僕を誘惑しやがってからに」

 僕が理性ある獣だったからよかったものの。まったくだぜ。

 そろそろ引き上げる旨を伝えてからもしばらく引き止められていたが、最後の最後には諦めてくれたのだろう、口惜しそうにバイバイと手のひらを見せる久遠さんは「またいつでも邪魔しに来てくれてええんやからなー」と久遠宅の玄関前までお見送りまでさせてしまった。

 本当に、頭が上がらない。

 どないしたもんやろうか、と僕は財布から鍵を取り出し、

 

――――――鍵を、鍵穴に差し込む。


「……情報収集の結果、『岸辺織葉』は随分と内向的で気難しい人物であった、っぽいな。結局久遠さんの話口調から推察するくらいしかできんかったけど。我ながら上手に聞き出せたもんやけど、去年、一昨年と岸辺織葉は文化祭をおサボりしている。まじめ、ってわけでもなかったらしい」

 彼女の生真面目さが、クラスの全体主義的なノリを嫌ったのだろうか。

 言葉で言えば、『同調圧力』、『教室の空気感』ってのが近い気がする。


――――――鍵穴に差し込んだ鍵を、ぐるり、と回す。


「……そんな見えない怪物じみたマジョリティ的なサムシングには争うことなく迎合するってのが、社会的弱者のひ弱な武器なんやろうけど。岩をも砕く川の上流で仁王立ちできてしまう人種が彼女、岸辺織葉って人物なんやろうか。そうなら無敵の人だ。翻せば、孤独な人でもありそうや」

 もっとも、無敵な彼女が孤独なんてもんを恐れるのかは知らんが。

 でも、『岸辺織葉』には美人で面倒見のいい友人もおるんやった。

「……あー、そう思うと同情の余地は皆無やな」

 なーにが孤独じゃ、恥を知れ。恥を。

 

――――――錆を削り、重いドアを開ける。


「……加えて、岸辺織葉の成績は定期試験で総合点上位常連。前回一学期の期末考査に至っては総合学年一位。全国模試の順位も好調で、志望校も当然安定射程範囲。…………なんやこれ、絵に描いたような優等生ではないか。完全無欠、花も己を恥じらう優等生」

 いかにも、人生が楽しそうな戦果じゃなかろうか。

 努力と根性、その成果を手にしているじゃないか。

「……だからこそ、そんな人物の一週間もの失踪事件、だ」

 情報収集不足が顕著なのだろうが、謎が謎を膨らませまくってやがる。


――――――ギギギと、不健康なドアの叫びを横に。

――――――仄暗い廊下が斜陽色を侵食するを背に。

――――――ガチャリと、錆鉄のドアは閉ざされる。


「……とはいえ、まだ一日目や。まだまだこれから『岸辺織葉』の情報収集を続ければ自ずと答え、は…………」

 それは、ふと抱いた、微かな『違和感』のようなものであったように思う。

 ……暗鬱とした、陰鬱とした、一直線の年季の入った廊下。

 ……昭和レトロの、モノクロ映画から引っ張り出した台所。

 ……干涸びた乾草を粗雑に編んだだけの、それっぽい和室。

 ……そして、和室には不恰好なカーテンがゆらりとはためく。

 途端、背骨に迸るは身の毛もよだつ悪寒だった。『違和感』の曖昧さは消失し、看過できない言語化された不安に変貌する。

「…………あ、あれ。…………な、なんでやろう」

 黒い黒い靄を、呑み込んだような、

 臓器が、肺が、澱に犯される感覚。

「…………なんで、カーテンが靡く事があるんや?」

 戸締まりは一層の注意を払ったはずだ。冊子の隙間も許さず、三日月型の締め具も確かにロックしたはずなのだ。慣れていない部屋だからこそ、それこそ気の緩みなく厳格に防犯意識をより働かせざるを得なかった。だから怠ってはない、はずなのだ。

「……………………」

 音という音を殺した。カツカツ高鳴るローファーも玄関に脱ぎ捨てる。

 そして、一歩、また一歩と、禿げた廊下を踏みしめながら。

「…………あ、」

 …………気付いた。気付いてしまった。

 いや、正確に言えば、思い出したのだ。

「……どうして、いや、なんで。……なんで、僕、廊下の奥まで見渡せてるんや?」

 胸中を貪る強烈な『違和感』の正体。それは多分、カーテンなんて些細な問題ではなかったのだ。その『違和感』に気付くには、思い出すには、玄関先で十分だったのだ。一眼見てみれば、決定的に間違っていると、そう言わざるを得ない事象なのだ。


「……あれ、ここ出た時、確か洗面所のドアって開いてたやんな?」


 しかし実際、廊下の中腹のドアは、僕のすぐ横のドアは、閉まっていた。

 ……洗面所のドアは、閉じられている。

 ……ドアの根にある蝶番は、玄関側だ。

 ……つまり、和室の窓の風の影響は受けない。

 喉が乾く。喉が乾く。喉が乾く。されども、喉元を伝うは滲んだ汗ばかりであった。

 可能性、実のところ、そんなもんを一考するならば、玄関ドアの開閉時、またはボロ屋の傾きや振動の影響だってあるのだ。十分に、十二分に、考え得る可能性なのだ。なんだったら、その他の現実味のある可能性だっていくらでも思い浮かべられよう。

 されども、どういう論拠があるのだろうか。

 限りなくゼロに近い可能性の妄想じみた可能性未満の事象ってのを、

 それを、脳裏を焼き焦がさんまでに最大級の危惧をする自分がいる。

 

「…………誰か、そこにおるんか?」


 ……考えたくない。考えたくない。考えたくない。どうか、突飛押しもない杞憂であれ、と。

 しかし、やまぬ冷や汗。破裂寸前の動悸。何者かの『侵入』、いわんや、『滞在』の可能性。

 素足の裏の感触に、言い表しようの無い非力を感じる。ともかく、今、僕はボロ屋の廊下の木板に足がついている気がしないのだ。夕日の赤と、影の黒、その明暗に潜む何者かが巣食う廊下の中心で一歩も動くことなど出来なかった。

 だけれども、それでも、

 息を殺し、

 足音を殺し、

 恐怖心を殺し、

 玄関手前まで後ずさる。

 こんなボロ屋に盗みに入る目的や価値のある金品ってのが思いつかない。これといって物音がする訳でもない。しかし、誰かが、何者かが、そこにいるのだ。ともすれば、もはやこれは、空き巣や強盗の類とは文字通りの別次元の侵入者が廊下の隅に混じり込んでいるように思えてならない。

 手に負えない『何か』が、いる気がしてならない。

「……………………っ」

 自意識過剰であってくれと願いながらも。

 しかし、それでも、さっきからずっと、ずっと、だ。


 ずっと、誰かに見られている気がしてならないのだ。


――――――ガチャ。ガチャ。ガチャ。

――――――開かない。

――――――開かない。開かない。開かない。開かない。開かない。

「…………は?」

 ドアノブを捻る。押す。引く。押す。引く。押す。引く。ガチャガチャガチャガチャ、と。叩く、叩く、叩く、叩く、殴る。しかし、まるでびくともしない。まるでコンクリートの壁だ。どんだけ思い切って力を込めようとも、力が伝導している気配すらない。

 もうこれは、ドアではない。

 開いて、閉じる。そんな概念を消失したかのような。そんな『異常』な何か。

 血の気が引いた。緊張感が、焦燥感が、恐怖心が、ぐちゃぐちゃに混ざり出す。

「…………んで」

 それが、真っ白な、真っ白な、真っ白な、怒りに変わる。

「――――――なんでっ、開かないんだよっ!!」

 吐き出すような苛立ちは拠り所を失い、奔走し、暴走し、発露の如く玄関ドアへの無意味な暴力に至る。

 殴る。殴る。殴る。そして蹴る。指の間からは血流が伝い、玄関タイルには赤い染みを作った。ポタ、ポタ、と。手の甲の痛みが、張り裂けそうに鼓動をする心臓が、夢や幻ではないこの現実が、一挙にして僕を襲う。

「…………ひっ」

 ……あぁ、まずい。マズい。マズイッ。

 やはり今、ここで、僕は見られている。

 何処からと言う訳では無い。誰からと言う訳でもない。ただ、確かな重量と密度を満たした視線が僕を視認しているように思えてならない。それを『存在感』とでも言い表せばいいのか。それが、ただ、間違いなく、そこにいる。

 赤くて、黒い、湿気た木材の匂いのする廊下に、僕以外の何かがそこにいる。

「…………気のせいだ。」

「…………気のせいだ。気のせいだ。気のせいだ。」

「…………ドアが開かないのも。」

「…………廊下が不気味なのも。」

「…………誰かがいる、気が、するのも」

 ぜんぶ、ぜんぶ、ぜんぶ、ぜんぶ、ぜんぶ、ぜんぶ、ぜんぶ、ぜんぶ、ぜんぶ、ぜんぶ、ぜんぶ、ぜんぶ、ぜんぶ、ぜんぶ、ぜんぶ、ぜんぶ、ぜんぶ、ぜんぶ、ぜんぶ、ぜんぶ、ぜんぶ、ぜんぶ、ぜんぶ、ぜんぶ、ぜんぶ、ぜんぶ、ぜんぶ、ぜんぶ、ぜんぶ、ぜんぶ、ぜんぶ、ぜんぶ、ぜんぶ、ぜんぶ、ぜんぶ、ぜんぶ、ぜんぶ、ぜんぶ、ぜんぶ、ぜんぶ、ぜんぶ、ぜんぶ、ぜんぶ、ぜんぶ、ぜんぶ、ぜんぶ、ぜんぶ、ぜんぶ、ぜんぶ、ぜんぶ、

 全部、全部、全部。

「…………気のせいに違いな」


――――――バンッ!!!


 ドアが、玄関ドアが、叩かれた。思いっきり、力強く、叩かれた。

 万が一にも、億が一にも、聞きまごうことなどない殴打音。この時、刹那の思考にて、これは物が落っこちた音だとか、隣の部屋からの騒音だとか、ましてや玄関ドアの向こう側から叩かれたなんて可能性は一切の迷いなく即座に排除できた。

 それは、この音の発生源が僕の耳元すぐ傍であった為である。

 間違いない。誤謬などでもない。

 この音は明らかな作為による音であり、

 この音の発生源は、『内側』からの音である。

「…………あ、ああ」

 意味が、原理が、道理が、全てわからない。

 なぜ、内側から叩かれることなどあるのか。

 玄関ドアに触れているのは僕で、他者は横にも、後ろにも、無論前にも存在しない。介在などし得ない。しかし、それでも今さっき、事実として玄関ドアは内側から叩かれたのだ。ドンっと、勢い任せに。

 そんなもの、世の理の範疇の出来事ではないではないか。

 そんな、そんなもん。もはやバケモノの所業ではないか。

「……おい、誰か、おるんか?」

 ……しかし、待てども返答はない。

「……誰やねん。…………頼むから、返事ぐらい、してくれよ」

 それでもやはり、返答などなかった。

 だけれども、それでも。ここには誰もいない、それだけはどうしたって思えなかった。暗澹とした、暗然とした、ふつふつとした何かは、やはりそこにいる気がしてならないのだ。真夏の蒸れた夕方の香りに紛れてそこにいる。

「…………謝るから。土下座でもなんでもするから。なんでもするから」

 そんな夕暮れ時の蝉時雨に、僕は、とっくに参ってしまったのだろう。

「…………お願いだから、もう、やめてくれ」

 奥行きの見える老化を前に、ただただ、何かへ懇願した。


――――――――――――

 

――――――ころん。

――――――ころん。ころん。


 物音が響いた。跳ねる音。拍動によって荒れる呼吸を落ち着かせ、それでやっと、これは何か軽い物体が落ちている音だとわかった。それが、ころん、ころん、と無機質に続くのだ。ころんころん、ころんころん、と。恐る恐る音の発生源を探ろうとした、ちょうどその時。

――――――ころん、っと。

 それは音ではなく、足の甲に感触として僕は知覚した。

 ひっ、と思わず僕は『それ』を反射的に宙へと蹴飛ばす。足の甲に触れた物体はやはり軽く、それでいて柔らかいように思えた。ころり、ころり、ころり、と廊下を転がる『それ』。見てみれば、『それ』は千切られた消しゴムであった。

「…………なんで、消しゴムが」

 そう、消しゴムである。よく見てみれば消しゴムの欠片は『それ』だけではない。消しゴムの欠片は綿々と、線を書くかのように廊下へ落とされている。玄関から廊下へ、そして廊下から和室へと繋がるように落とされている。落ちている、とはもう考え付かなかった。

「…………やっぱり、本当に誰か、おるんや」

 もはや疑い訝しむ段階はとっくに過ぎているはずだった。

 しかし確信を得ると言うのは疑念とはまるで別物である。

 こうも、こうにも、血の気が引く重いになるものなのか、と。

「……もしかして、こっちに来い、って誘ってるんか?」

 ……いや、誘う、と言うには語弊がある。玄関ドアは開かない。相手の正体も知れない。退路も存在しない。つまり、僕の任意など初めっから求められてなどいない。立ち止まることなど到底許されない。ただ、言われる通りに、この薄気味悪い廊下を進む他に選択肢などありはしないのだ。

 さもなくば、どうなると言うのだろう。

「…………なんで、なんやろ」

 …………どうして、こんな目に遭わんとあかんねやろ。

 ガタガタと鳴りそうな歯を食いしばり、

 ブルブルと震える手を必死に抑えつけ、

 そうして、いよいよ以て決心を固める。

 ゆっくりと、ゆっくりと、僕は消しゴムの道程を辿った。


 消しゴムの欠片の終着点は、和室の中央にある丸机。

 そこには、なんでもない、白紙と鉛筆だけが置かれていた。


 ……逆に言えば、それ以外の何もなかった。

 ……視線の主すらも、そこにはいなかった。

 ……虚な四畳半の空間は、畳と机と紙で出来ていた。

「…………なんで、誰も、いやへんねん」

 弄ばれてでもいたのだろうか。であれば、もう、十分に満足のいく反応はご覧いただけた事だろう。もう、勘弁してくれ。もう、放っておいてくれ。これ以上、僕に何を求めると言うのだ。何を搾取しようってんだ。

 …………もう、うんざりだ。もう、懲り懲りだ。いい加減にしてくれ。

「…………僕が。…………僕が、何をしたってんだ」

 朝目覚めれば女の子になっていて、

 名前も居場所も経歴も記憶になく、

 学校ではずっとビビり散らかして、

 常識ってのもわからないってまま、

 そんで、帰ってみればこの仕打ち。

「……なんで、僕なんだ。なんで、なんで、なんで」

 決壊しかかる理性と本能の狭間にて、ここで泣き言をひけらかす事になんら意味を持たないなんてすぐに理解できていた。ただ、止めどない叙情を、爆発しそうな衝動を、僕は堰き止める術を知り得なかったのだ。

 だからたぶん、これは僕の、僕が生きただけの鬱憤に他ならない。


「――――――ほんっとに、ふざけんじゃねぇ!!!」


 轟く怨嗟の感情は、何の障害もなくボロ屋を突き抜けた。

「――――――僕ばっっっかじゃねぇか、ふざけんな!!!」

「――――――なんだよ、身体が女の子になるってよ!!!」

「――――――そんで、記憶もなければ、常識もない!!!」

「――――――そんな状況下で、え、お前は誰なんだよ、クソが!!!」

 嗚咽に汚れた視界が滲み、爛れ、塞がる。鼻水も大洪水中だ。いわんや大惨事であった。

 発露する感情の連鎖は溜まりに溜まった膿のようなものだった。朝に起き、それから蓄積され続けた膿。非常識で、不合理で、本当にアホらしい馬鹿げたトンデモ展開に追いつけなかった感情が、今にやっと背中を掴んだだけなのだ。

 弱く、脆く、儚い、僕という存在にとって、それは、

 それは、『自我』と呼ぶべきものなのかも知れない。

「…………もう、嫌なんだ」

 全部、全部、全部、嫌だ。

 不可解で意味不明な事ばかりが積もり積もる現状が嫌だ。

 理解出来ない事象をさぞ当然に放置するこの世界が嫌だ。

 そのくせ、理不尽ばかりのどうしようもない事態が嫌だ。

「……文句ばっか。結局、無力で何も叶えられない自分が、いちばん、キモいな」

 …………もう、どうだっていいや。

 夕日も山嶺に沈み、斜光を失いつつある和室に一人、壁に自重を預けて座り込み、僕は膝に顔を埋めた。

 これといって思い当たる未練もありはしな癖に、一丁前に全てを放棄した気になりながら塞ぎ込む。案の定、畳のチクチクしたささくれが妙に気になる半端具合であったが、だが、それでも、僕はやはり俯き、目を閉じた。

 それってのが、たぶん、『諦め』ってやつだったと思う。


――――――――――――

 

――――――ごろろん。


 しばらくして、またも虚無に響くのは落下音であった。

 ただそれは、消しゴムと言うには硬く重い音の感触である。

 塞ぎ込んでからというもの、幾許の時間が過ぎ去ったのだろうか。既に和室は道路の隅の街灯の光が頼りの時刻であった。たった一分や二分ほどの出来事であったようにも思えるし、なんなら数時間おんなじ風にしていたようにも思う。時間を時間として意識することを失った時間だった。

 そんな折の、こんな物音。

 灰色の思考能力では仕方もないだろう。

 特に深慮することもなく僕は目線を上げ音の発生源を見る。

「…………なんや?」

 どこの、なんの、物音だったのだろう。近いように思えたが。

「……もしかして、この鉛筆が転がった音なんか?」

 和室中央の丸机、その上にゴロロンと転がった余韻を見せる鉛筆があった。おそらくコレが丸机の上を転がったのだろうが、しかしなぜ、わざわざひとりでに鉛筆が転がることなんてあるのだろうか。まるで鉛筆が何かを執筆していたかのような…………。

「…………あっ」

 …………おい、おいおい。

 …………何か、何かが、書いてある。


『貴方こそ、誰?』


 瞬間、ゾッとした。背筋が凍りつくとは正しく、だろう。

 ただ、ただ、真っ白だった紙には、濃淡の無い文字列が並べられていた。

 この、どうしようもないまでの人間味のない文字を、僕は知っている。

 この、パソコンの書体の方が幾分人間っぽい文字を、僕は知っている。

 僕は知っている。

 僕は持っている。

 この『文字』に埋没したノートを。


「…………岸辺、織葉?」


 独り言のように、さながらボヤキのように、何気なく呟いた一言。

 刹那、どくり、と跳ね上がる心臓の鼓動。『岸辺織葉』、そいつは、ここ数日間の行方を眩ませ今に至る市立西大津高等学校三年一組の生徒であり、久遠詩織の友人であり、またこの身体の本来の宿主なる存在の名前であるはずだった。

「…………なんで、……いや、だって」

 有り得るはずもない現象とは裏腹に、どこか確信めく自分もいる。

 理屈や道理ではない衝動的な感情が『彼女』を連想してやまない。 

 しかし、この文字は、この文字列は、

 …………間違えようがない、と。

「…………お前。お、お前、岸辺織葉なんか?」

 これは、『岸辺織葉』、その人の文字だった。

 ……いや、待て。待て、待て、待てよ。

 ……だったらコレどうやって書いてんだ。

 ……だったら、今どうやって隠れてんだ。


『岸辺織葉は、私です。』


 途端、白紙の上でひとりでに、鉛筆が、踊った。

 これは断じて比喩表現などではない。例の如く機会ったらしい文字列が、さながら霊の如くゆらゆらと踊ってみせる鉛筆の先端から綴られる。それも、やはり、ひとりでに。どうあったって、どうやったって、鉛筆ってのは能動的に動くわけがないってのに。

 だから、これは、紛れもない『現象』の一つなのだろう。


『貴方は、誰ですか?』

 

 役目を終えた鉛筆は、次にはゴロロリと丸机の端まで力無く転がり、それがコロコロ……、と余韻を残すように微細に動き、止まる。それだけが先程までの霊障の痕跡と言えそうだった。それ以外が、ただただ、静かだった。

 本当に、

 何も、

 見えなかった。

 それは書き手であるはずの『岸辺織葉』さえも例外ではないのだ。

 まるで碌な働きを見せない僕の脳みそでもただ一つ、たった一つ、


 また、呑み込めない窮地のような現実を前に立たされている事実だけを認識していた。

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