第一章 食料戦士の名の下に 2.蛋白源を確保せよ(4)

4.凱歌を上げて

 こうした苦難を乗り越えて操業は続けられ、翌昭和22年(1947)3月中旬に両船団とも切り揚げを迎えた。第一次南氷洋捕鯨の「戦果」は日本水産の橋立丸船団が捕獲頭数シロナガス換算(BWU)(*6)391.5頭、生産量は鯨油3,700t、鯨肉10,557t。大洋漁業の第一日新丸船団が捕獲頭数540.5頭、生産量は鯨油8,560t、鯨肉11,609.8tで、橋立丸船団に捕獲頭数149頭、生産量5,862tの差をつけて明暗が大きく分かれる結果となった。


 大洋の塩蔵工船天洋丸は、満載喫水線を超過するまで鯨肉を積み込み、入港前に搭載している水や燃料を捨てて喫水を調整するという、あまり大きな声では言えない作業を行なっている。一方の日水はというと、入港時に赤旗を立てて荷役拒否をやっている有様だった。


 なぜ両船団でこれほどまでの差が出たのであろうか。実は、橋立丸は母船への改装工事を南氷洋出漁に間に合わせるため、船体中央の船橋楼をそのままに後甲板だけを解剖甲板とし、製油設備もクワナーボイラーを3基設置しただけで急ぎ出漁したため、母船の処理能力が大きく劣っていたのである。

 しかも、例の如く配管からの蒸気漏れがひどく、主缶が1基不調で缶水が常に不足気味であった上に造水機の故障も頻発し、乗組員は不眠不休の修理に明け暮れていたという。このため、日新丸が1日当たりシロナガス鯨12頭程度の処理能力を持っていたのに対し、橋立丸はその半分以下であった。


 日新丸のクワナーボイラーも蒸気漏れは同様であったが、ボイラー自体にある仕掛けが施してあり、その能力に差があった。日新丸のクワナーボイラーは4時間で空になるらしいが、橋立丸のそれはなぜ4時間以上を必要とするのか。橋立丸船団の船団長以下、現場の作業員まで頭をひねって考えたが、原因はさっぱり分からずじまいであった。

 結局、GHQから派遣された監督官が船団幹部を率いて漁場で日新丸を視察し、ようやくその秘密が分かった。ボイラー内部の回転筒に原料を破砕する刃がついており、処理に要する時間が短縮されていたのである。早速橋立丸でも同様の改造が行なわれた。


 何はともあれ、第一次南氷洋捕鯨の結果、南氷洋捕鯨船団が日本にもたらした蛋白質は膨大な量に上った。当時、大量の肉を保存する技術がなく、お世辞にも上等とは言えない品質のものがほとんどであったが、食糧不足にあえぐ当時の日本にとっては非常に貴重なものであった。2月に中積運搬船によって運ばれた初荷は、東京都で都民1人30匁(120g)の配給となって食卓にのぼっている。

 もっとも、粗製濫造の結果、製品の評判はきわめて悪く、戦争中からこの時期にかけての塩蔵肉配給で徹底的な鯨肉嫌いとなった人も相当な数に上るようだ(*7)。戦前は捕鯨基地周辺を除き、ほとんど西日本でしか消費されることのなかった鯨肉が、庶民の食卓に上るようになったのも同じ時期で、終戦前後の食糧危機が戦後日本の鯨肉文化を形成したとも言える。


 この年の南氷洋における各国の鯨の総捕獲頭数はシロナガス換算15,304頭で、日本の2船団を合計しても932頭、わずか6%に過ぎない。1位のノルウェーは7船団で7,320頭を捕獲し50.6%、2位のイギリスは3船団で4,108頭26.8%を占めており、戦後日本の南氷洋捕鯨出漁に協力的であったアメリカの態度を含めて、まさに隔世の感がある。なお、この年は他にソ連、オランダ、南アフリカ連邦がそれぞれ1船団を南氷洋捕鯨に参加させており、以後これら捕鯨国の顔ぶれはほぼ変わらない。

 イギリス、ノルウェーは第二次世界大戦終結直後の昭和20年(1945)から南氷洋捕鯨に出漁しており、目的は不足していた食用油脂の供給であった。程度の差こそあれ、食料不足に悩んでいたのは欧州各国も同様だったのである(*8)。


 なお、第一次南氷洋捕鯨には、太平洋戦争を唯1隻生き抜いたあのさんぢゑご丸も、中積油槽船として参加している。さんぢゑご丸は以後3度の南氷洋航海を経験し、昭和35年に船齢32年で解体されるまで、日本への原油輸送に従事している。




-***-


*6…シロナガス換算(BWU:Blue Whale Unit):鯨の捕獲規制に用いられていた単位。ノルウェーの業者が経験的に定めたもので、シロナガス1頭で110バレルという採油量を基準とし、鯨一頭分から採取できる鯨油の量でシロナガス1=ナガス2=イワシ6などの換算率が定められた。当時、鯨種別の捕獲規制は難しいと考えられていたためこの換算方式で規制が行なわれたが、効率の良い大型の鯨を優先的に捕獲することになり、かえって鯨資源の減少を早めるとして後に鯨種別の頭数規制に変更された。


*7…冷凍技術が発達し、多数の冷凍工船が就役した後も、商業捕鯨末期まで塩蔵肉の生産は続けられた。主に鮮度の低下した品質の悪い鯨肉が塩蔵処理の対象となり、これが学校給食に供給されたため「鯨肉は硬い」「まずい」などの悪評を生んだと推定される。もっとも、これは鯨の竜田揚げを知らない筆者の想像でしかないが。


*8…この時イギリス政府は鯨肉の消費を奨励し、調理方法を記したパンフレットを国民に配布したが、保存技術が稚拙であったこともあってその味覚は受け入れられずに終わった。

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