2nd ケッカハブレスユー
授業という集中が必須なものを受けるにもかかわらず、オレの意識はあさっての方向へ向いていた。教師の自己紹介も、授業の流れも、昨年までの教育課程とどう違うかという説明も全く入ってこない。まさに右から左に抜けていくと言う感じだ。
「はーい、それじゃ今日はこれで授業終わりまーす」
教師のその一言で俺の意識はようやく教壇に向いた。しかし、時すでに遅し。睡眠となんら変わらない授業の過ごし方に俺は絶望する。やっちまった……
落胆しているオレの耳元にやけに大きな女の声が響き始める。
「葛さん!元気がないようですが、何かありましたか?」
「い、いや、お前のせいで元気がないんだけど……」
俺から元気を盗んで行った女はキョトンとした……と表現するにはあまりにも整然とした瞳を輝かせながらも、明らかに理解とは程遠い領域に意識を置いている。オレは、キラキラと光る大きめの瞳に複雑な感情を抱いてしまう。
「どうされました?やはり元気が無いご様子。ほらほら、私を殴ってストレスを吹っ飛ばしましょうよ!」
オレは、夏来のあまりにも変わらない調子にストレスではなく先程抱いた複雑な感情が吹っ飛ぶ。本当に、本当に不思議な女だ。
「殴るのは無理だって言っただろ!何度言ったら……」
「あー!そうでした!勝負するんでしたよね!わかりました!それじゃ、なんでしょうね……あ、腕相撲とかいかがでしょうか?」
「腕相撲か、まあ、それなら……」
夏来は夏来自身の敗北を求めている。つまり、俺が勝てばなんの問題もないということだ。しかも、こいつの腕は平均的な女子高生の腕より若干細く、俺の腕は平均的な男子高校生サイズと言って差し支えないほどの太さ。普通にやれば負けないだろう。
「よし、やるか」
「はい!それじゃ、しっかり勝ってくださいね!」
机に互いの右肘を乗せ、互いの右手を握り合う。握ってみて改めて気づいたが、夏来の手は本当に細い。力を入れすぎると折れてしまいそうだ。
「いきますよー!れでぃー……ごー!」
夏来が元気よく宣言する。俺はそれと同時に力を入れる……が、夏来の細い腕をパキッと折ってしまうのでは無いだろうかという恐怖心から上手く力が入らない、というか入れられない。
「どうしたんですかー?負かすんですよね〜?」
夏来がニヤニヤと煽りながら俺が加える力とは真逆の方向に腕を倒そうとする。そうは言っても……!
――流石にこんなに細い腕に力を入れるのは気が引けてくる。
俺は脂汗を流しながら顔をしかめつつ、絶妙な加減で腕を操作する。腕をプルプルと震わせてみたり、歯を食いしばってみたりと演出も欠かさない。我ながらなかなかに器用だ。
「ちょっと!長いですよ!早く倒してください!」
夏来が呼びかける。その声を聞いた次の瞬間だった。俺の持病……と言っていいのかは微妙だが、俺の体はハウスダストアレルギーという忌々しきアレルギーを持っていた。それが、あまりにも最悪なタイミングで発動した。
端的に言えば、くしゃみである。
俺は限りなく、限りなく被害が少ないように小さめにくしゃみをした。しかし、どんなに頑張ったところでその頑張りはほぼ無意味であったようで、俺の右手は、夏来のか細い腕によって倒されてしまった。
しかも、あまりにも咄嗟な出来事ゆえに手で覆う、顔を背けるなどの基本的なエチケットが間に合わず、くしゃみ特有の小さな飛沫が若干二人の腕にかかってしまう。
あまりにも最悪な出来事。負けられない場所であっけない敗戦を喫し、尚且つ慣用句でない意味で唾を付けてしまった。相手が男子ならともかく、相手は今日出会った女子高校生。恥、とかそういう次元ではない、謝罪が必要な案件。
「ご、ごめんなさい!」
咄嗟にでたその謝罪は、あまりに稚拙で……ダサい、という言葉がまさにちょうどいい、そんな感じだった。
夏来は呆然とする。ただ二人の腕を見て笑みとも真一文字に結んでいるともつかない顔をしているだけだ。
「と、とりあえず手、洗いに行こうか……」
「あ〜……はい」
夏来がようやく発した言葉は、かなり簡素なものであった。しかし、それにはそこまでの嫌悪感が含まれていない……ように感じた。
◇ ◇ ◇
蛇口がキュッと閉まる音がして、夏来は自らの手を桃色のハンカチで拭き始める。
「ほ、本当にごめん……」
「いえいえ、良いのですよ。ここまでも会話の中で少し唾はかかっていましたし、唾をかけられるのも蔑ろにされているようで興味深いものでしたし!ほら、唾をつけるって言うでしょう?クズ男は拘束が激しいと相場が決まっていますからね!」
俺はこいつの精神力の強さに若干引きながらも驚愕する。流石にそれはないだろ。
(とは思うが、会話でも唾をかけてしまったの率直に申し訳ないな、とも思った)
「しかし!唾をかけるのはいいとしても、負けるのは頂けません!一度負けてしまったからには、これからの勝負で全敗して下さらないと困ります!」
「――はぁ!?手を抜けってことか!?」
腕相撲を絶妙なバランスで乗り切ろうとした先程の努力が水の泡になることが確定する発言に、オレは思わず驚嘆の声を上げてしまう。
もちろん、あんな幼稚で無意味な努力など消えて当然である、という声には全力で頷こう。とは言え、当時のオレ的にはこの行動も最善策だと思っていたという事にはご理解とご協力をお願いしたい。
まあ、これは言い訳でしかない。
「まあ、そうなりますかね!とにかく、負けてください!そうでないと『ああ、私、ここまで私に一切勝ててない人に殴られてる〜……』というのが出来なくなってしまいますからね!さあ、行きますよ!」
夏来はあまりにも元気な調子で俺の手を引きながらニッと笑う。その笑顔は、俺のバツの悪さをどんどんと加速させていった。
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