第10話 歪

『青さん? 大丈夫?』

 突然泣き出した私に、剣持さんは電話先で慌てる。その優しい声が、さらに私を泣かせた。泣いて泣いて、一通り泣き終わるまで、剣持さんは何も言わずに待っていてくれた。深く呼吸してから画面を見ると、通話時間は既に十分近い。今度は罪悪感に襲われる。

「あの……ごめんなさい……」

『いいよ。なんかあった?』

 再び込み上げるものを飲み下し、私は答える。

「なんか……辛くなっちゃって」

『そっか』

 剣持さんが短く答える。しばらくどちらも声を発しなかった。電波の向こうで、プルトップを上げる音がした。何を飲んでいるのだろう。ぼんやりと思う。静けさも部屋の薄暗さも、先ほどまでと同じなのに、今は少し心地よかった。

 あのさ、と剣持さんがおもむろに言った。

『話したいなら聞くよ。吐き出した方が楽なら付き合う』

「……いいんですか」

『時間ならあるし、青さんの力になれるなら嬉しい』

「……なんで……」

『ん?』

「なんで、そんなに優しいんですか。病んだ女の話とか聞いても、剣持さんにいいことないでしょ」

『青さん……』

 剣持さんの声に、私ははっとする。どうしてこんなことを言ってしまったのだ。剣持さんには何の悪意もない、むしろ善意だけなのに。剣持さんを傷つける言葉を吐き散らした、自分の口を憎む。

『だいぶ、重症だね』

「え?」

『ご飯食べてる? ちゃんと寝てる? 生活習慣ちゃんとしてないと、どんなに毎日楽しくても情緒不安定になるからね』

「……やっぱり、お母さんみたい」

『お兄ちゃんにしてくれるって言ったじゃん』

「ふふ」

 口の端に笑みが浮かんだ。自虐的な醜い笑みではない。心がふわりと軽くなり、それにつられて頬の筋肉も緩むような、優しい微笑みだった。クリスマス、焼き肉屋でもそうだったように、剣持さんは私を自然に笑わせてくれる。泣きたくて消えたい気持ちを、そっと毛布にくるんで寝かしつけてくれる。

 それから私たちは、他愛のない話をし続けた。職場の同僚の話、最近読んだおすすめの漫画の話、好きなゲームの話、順調に仲良くなっている瀬名ちゃんの話もした。何度か声を上げて笑い、そのたびに少し泣きそうになった。私は幸せ者だ。自由を謳歌して、手を差し伸べてくれる人がいて。

 気づけば、私の中で大騒ぎを繰り広げていた音楽たちは、いつものように穏やかな寝息を立てていた。

「……あの、剣持さん」

『ん?』

「また、電話してもいいですか?」

『もちろん』

 私が尋ねると、剣持さんはどことなく嬉しそうな声で答える。

『そうだ、時々散歩にでも連れ出そうか? ずっと家に籠ってると、心も閉じちゃうでしょ』

「散歩、ですか」

『うん。やっぱ人間も光合成しないといけないらしいよ。精神衛生上』

「そうなんだ……。確かに、雨続きだからっていうのも関係あるのかな」

『そうなんじゃないかな。東京のいろんなところ、連れて行くよ。あんまり観光とかもしてなさそうだし』

「ありがとうございます。楽しみにしてます」

 じゃあ、と電話を切る。数週間ぶりの多幸感が私を包み込む。その裏にはわずかな切なさも潜んでいた。

 東京では、誰も私を否定しない。夢を追うことを笑わない。こんなに幸せなのに結果を出せないことが、きっとここ最近の悩みの根源だった。こんなに幸せでいいのだろうか、そんな不安もあった。しかし、もう故郷は捨てたのだ。ここは東京。他人に怯えて生きる必要はない。誰かに甘え、縋ってもいい。そうやって辛うじて生きて、細々と夢を叶えてやるのだ。

 そう言い聞かせながら、私はギターを構えた。震える指でいくつかのコードを爪弾く。私の中の影たちが、ゆっくりと目を覚ます。優しいメロディーが流れ出る。久しぶりに書いた明るい調べのその曲は、上手く形にならない。所々に悪魔のような音が混じる。不格好な幸せの歌。一晩中、私はギターを鳴らし続けた。

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