11.脱出

「あの男、神田の花月屋で見かけた人ですね。急いでここに来たって事は……ここに顔を出した事からも私が目的と考えるのが妥当でしょう。あの男が直接見に来る必要がある事……」


 彼女の推理は続く。


「思いつくのは、奴が神田の顔役で私がどこの商家の娘なのか確認する面通し。もしくは、女性を遊郭に売り払う女衒せげんか。あの目つきは、女を品定めしているみたいでしたし……どちらにせよ、ここに残っても良い事はありませんね。ちゃんがいない事もはっきりしましたから」


 サッと立ち上がると、座敷から出ていく日向。

 あれほど熱心に見ていた菓子の山に目もくれず、縁側からつっかけ草履を履き、庭を散策する体を装い、歩き回る。


 全体をぐるりと歩き回ると、玄関に戻り、自分の塗下駄を手にする。


「この着物じゃ動きにくいんだけどな……よっと」


 そのまま何気ない様子で光の当たらない塀の隅に行くと、三角飛びで塀の軒瓦に手をかけると、駆け上がった勢いのまま外へと飛び降りた。



 ※



 そしてその日の夜。

 鶴松は、花月屋に戻っていた。

 今日の獲物である日向について店主の金衛門きんえもんに報告するため、店主の私室を訪ねる。


「鰹がきました!」

「おお!来たか。初物か?」


「少し歳がいってるのではっきりとしません。見たところ商家の箱入り娘のようです」

「初物に拘らずとも良いですかね。まあ鰹ならどう調理しても買い手は付きましょう」


「どうします?捌きますか?それともそのまま寝かせておきますか?」

「寝かせておけば大きく育つ可能性もありますが、時間がかかります。さっさと捌いてしまいなさい」


「承知しました。女衒せげんの泥亀に心当たりを当たらせましょう」

「おや、仕事が早いですね」


「待ちに待った鰹の到来ですから。すでに泥亀は向こうに行っていて値踏みを兼ねて、見張らせています」

「そうでしたか。いっその事、仲介ではなく買い取らせますか?」


「いや、当初の計画通り仲介として使いましょう。あいつに金はないですし、信用もできません。踏み倒されるのがオチですよ」

「良いでしょう。ではお任せしますよ」


「かしこまりました。あとは祝儀をたんと弾んでくださいよ」

「気が早いですねぇ。捌いた後に考えますよ」


 この二人は金でつながっているだけのだろうか。

 二人の話し合いはいつもケンカ腰で終わる。

 表向きは店主と使用人に過ぎないのだが、言い合う様は共犯者そのもの。


 しかし、この表向きの関係が二人を険悪な仲にしているようにも思える。


 鶴松は挨拶もせず、店主の部屋を出ると自室へと戻った。

 番頭となった時に与えられた個室だ。


金衛門きんえもんの野郎。俺のおかげで甘い汁が吸えてるっていうのにケチ臭いことばかり言いやがって。いつか思い知らせてやるぜ」


 そう言うと、鶴松は文机に向かった。



 ※



 そろり、そろりと一人の男が、家出屋の別邸屋敷の一部屋から出てきた。


「やべえな。どこにもいねえ。逃げられたか。はっきりと女衒せげんだとは気が付かれていないだろうが、あの小娘が有る事無い事言い出したら面倒だ」


 夜這いをかけようとしたのか定かではないが、子供たちが寝静まった深夜に泥亀は手燭を持ち、屋敷の中を徘徊していた。獲物の箱入り娘を探しているらしい。


 しかし、どの部屋を探しても、日向が見当たらないので焦っているようだ。


「いつものように型に嵌めてから顔を出すべきだったか。ついつい金の匂いに釣られて、ノコノコ来てみれば、このザマだ。深川の親分に力を借りるか……いや、それはいけねえ。そんな弱みでも見せた日には、俺がしゃぶり尽くされちまう」


 手燭の灯りが吐息で揺れる。


「どうすりゃ良い。俺は顔も見られてるし、何かあっても花月屋が守ってくれるとも思えねえ。それに、鶴松の野郎が前にも小僧が潜り込んできたと言っていたが、そろそろこの商売も綻びが出始めてんじゃねえのか……。そうなりゃ俺が取るべき道は……トンズラするしかねえな。上方にでも行ってほとぼりを冷ますとするか。よし。そうと決まれば、軍資金持ってさっさと出立しちまおう。それが良い」


 考えがまとまったようで、泥亀は貯めこんでいた金を取りに足早に移動し始めたのだった。

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