5.楽園

 家出をして困った子供は、楽園へと連れて行ってもらえる。

 しかし、夢のような生活には終わりがあり、数日で家に帰されてしまう。


 だが必ずしもここへ来た子供たちが全員帰されるわけでもない。

 かといって、帰らず残った子供がこの屋敷に居る訳でもないのだ。


 なんでも家に戻った子供が言うには、才能のある子は、この家出屋の運営元である大店の店主の紹介で、別の商家に紹介され仕事を斡旋してもらえるのだそう。


 しかし、家出少年たちの事情もあるので、どこに紹介されたかは秘密だという。


 家出少年たちは自分の才能を見出されるという甘美な言葉に憧れ、鶴松たち大人の歓心を買おうと良い子供であろうとした。


 そのため家出をしてきたとは思えないほど、従順で聞き分けが良かった。


 ましてや機嫌を損ねれば、この楽園から追放されてしまうかもしれない。幼い子供達でもそれくらいは理解していた。

 だから今まで反抗する子供は誰一人としていなかった。


 この楽園の秩序は、そうして保たれていたのだ。



 そして、その調和された世界に入り込んできた異分子。哲太。


 彼は親無し家無しの浮浪児であるから、家出をしてきたわけではない。かといって根無し草の生活に嫌気が差したわけでもない。


 哲太が家出をしたと称してこのお屋敷に来た目的。

 それは、彼がリーダーの浮浪児集団の一人、が哲太と同じように家出を騙り、この屋敷に潜り込んだまま帰ってこないのだ。


 もしかしたら噓がばれて折檻されてしまっているのではと心配になり、自分も家出をしたと嘘をついて潜り込んだのであった。


 噂には聞いていたが、本当にあるとは信じがたかった楽園。今日、哲太はその世界に踏み入れた。



 神田界隈の子供たちには、ある噂が流れている。


 さる大店の裏口に行けば、楽園に行ける。家出をするならそこに行くべきだ。

 行ったらこう告げるのだ。「家出をした。助けてくださいと」


 そうすると奇特な大店の主が私財をはたいて運営している別邸に匿ってくれるのだ。


 過分なほどの衣食住だけではなく、文字や算術まで教えてくれるという致せり尽くせりな待遇。


 普通、家出をすれば、金もなく寝る所もない。橋の下や寺などの軒下で、飢えに苦しみ、不安な夜を過ごす。


 それと比べれば天と地の差。ここに来ないという選択肢が取れる子供などいるはずもない。


 そう。ここは神田の子供たちにこう呼ばれている。家出屋と。



 ※



「番頭さんや。ちと良いかね?」

「話しかけるとは珍しいな。なんだ?」


 哲太を家出屋に連れて行った帰りの舟の上。沈思している鶴松に船頭が声を掛けた。

 日ごろ、船頭から声を掛ける事はない。


 彼は元来、日々を平穏に暮らす事だけを望み、面倒事を好まない性格だった。

 しがない川舟の船頭だったのだが、時折、鶴松が勤める大店の仕事を請け負っていた。

 その縁で、このような仕事も請け負い、小遣いを稼いでいる。


 内容が内容だけに秘密厳守を求められ、必然の昼の仕事より割の良い金を得られるようになった。

 あくせく働かずとも十日に一日ほど、こうして働けば今までの三倍の給金がもらえたのだ。


 当然のように昼の仕事を辞めた。代わりに明るいうちから酒を飲み、女を買う。


 既に夜の仕事で貰う給金が彼の生活を支えていた。鶴松の仕事を手伝うようになり羽振りが良くなったが使う金はそれ以上に増えた。


 そうなれば真面目に働いていた頃より、金に苦労するようになる。

 船頭は次第に金に執着するようになり、我欲を満たす事を我慢できなくなっていった。


「今日届けたガキですがね。どうやら腹に一物抱えているようでして」

「それは俺もわかっている。それだけか?」


「いえ、何を企んでいるのかまでも」

「だからなんだ? 早く言え」


「いやあ、最近酒代が足らなくて酒の事しか考えらんねえんですよ」

「たっぷり給金を払っているだろうが」


 そう言いながら鶴松は懐から財布を出すと小粒銀を幾つか摘まんで渡す。


「ありがとうごぜえやす。さすが鶴松様。出世頭は話が早くて助かります」

「世事は良いから早く話せ」


「そうでした。なんでもあのガキは女を探しに来たようですぜ。つったっけな」


 それを受け鶴松は、記憶を探っているのか小さな声でブツブツと独り言を呟く。


か。そいつはこの間の初鰹だな。なんだってあのガキが? は兄弟は居ねえって言ってたぞ。……気になるな。念のため動向を探るか……。しかし、どこの女郎屋に売ったのかは、引き渡した女衒せげんの泥亀しか知らんからな。今度会った時に聞きだしておくとしよう」


 それはとある大店の近くの岸に着くまで続けられた。船頭は、貰った金の重さを確かめては、ニヤけが止まらず、鶴松の話を気にする様子もない。

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