第45話 黄昏 ⅱ

 エリスが住む公営アパートは歩いて10分ほどの所にあった。外壁は所々はがれ落ち、エレベーターはギシギシと不気味な音を立てる7階建ての古い建物だった。


 インターフォンのボタンを押すとドアが開いた。


「兄さん、久しぶりね」


 エリスが微笑んだ。50代半ばだというのに兄のユーリイがドキッとするほど艶のある笑みだ。


「ああ、エリスも元気そうで良かった」


 彼女が住んでいた豪邸はイワン名義だったために政府の手によって没収された。それで彼女がどれほど落胆しているだろうと案じていたが、顔色は良かったし、瞳にも力があって安堵した。


「元気なものですか。ヨシフのためにこんなところに住むことになったのよ」


 彼女はカラカラ笑って室内に向かった。リビングと寝室がふたつだけの小さな住居だった。


「彼を責めるな。そもそもイワンが戦争など始めたからだ」


「あのヨシフが首相で良かったの? イワンの狐なのよ」


「狐だからだ。彼はイワンのために、家族もプライドも犠牲にしてきた。だからこそ、イワンの財産も堂々と没収できた。今度は国のために働いてくれるだろう」


 彼女が「ふーん……」と釈然としない返事をした。


 土産のチーズケーキの箱を渡すと、「ここのチーズケーキ、美味しいのよね」と話しながら紅茶を淹れにキッチンに入った。


 ユーリイは勝手にソファーに座る。


「それにしても、なんとも、みすぼらしい住まいになったものだな。もう少し、ましなところはなかったのか?」


 染みの浮いた天井のクロスに目を走らせた。


「兄さんの部屋だって、同じようなものでしょ?」


 キッチンから声がする。


「まあな。こことあまり変わらない広さだ。しかし、この歳だ。今更、欲をかくつもりはない。……しかし、ここよりは手入れが行き届いているかもしれないなぁ」


 再びぐるりと部屋を見回した。


「家賃が高いのでしょ? 隠し財産があるから住めるのよ。私は全部、ヨシフに持っていかれたわ」


「それは悪かったな……」


 ユーリイはテーブルの上のリモコンを取って、テレビのスイッチを入れた。


「閣僚と違って、私の寄付は任意だ。しかし、財産はあった、というのが正しいな」


「まさか、見つかって没収された?」


「私はそれほど間抜けじゃないよ。あの娘に持たせてやった。辛い思いをさせたからな」


 ユーリイは、数日前に見送ったユウケイのジャンヌダルクの顔を思い出した。毒薬をうたれた彼女が痙攣けいれんする姿が頭から消えることはなかった。若い女性の顔を見たり、ユウケイ民主国の名を聞いたりするたびにその様子がフラッシュバックする。それで核のボタンを押そうとするソフィアを撃つこともできなかった。


 毒薬は致死量ではなかったし、解毒薬も打った。彼女が死ぬことはないとわかっていても、気分の良い出来事ではなかった。


「叔父だと名乗ったの?」


 エリスの声がした。


「まさか。私は敵なのだ。できるわけがないだろう」


「それもそうね。でも、私も会っておけばよかった……」


 後悔の滲んだ声がした。


「あの日以来だわ」


 エリスの後悔はすぐに晴れたようだ。キチンから届く声が弾んでいた。


「何がだ?」


「このチーズケーキを頂くのが、ですよ。マリアが買って来てくれたのよ。あの日、イワンはそれを食べずに出て行った……」


 彼女の声が再び後悔の海に沈んでいく。


「……船が沈むとわかっていたら、無理にでも引き止めたのに」


 その声が、――カァー……、と鳴るケトルの音でかき消された。


「ヤダァ、なに、これ?」


 素っ頓狂な声がする。


「どうした?」


「チーズケーキが、ぼろぼろよ。もぅ……、箱までべたべた……」


 4人の若者を思い出す。彼らと戦う間、箱を持った左手は使わないようにしていた。できるだけ揺らさないようにしたつもりだが、中身を守ることはできなかったのだろう。国家の運営もケーキ運びも、思うようにはいかないものだ、と思った。


「すまないな。途中で馬鹿どもに襲われてなぁ」


「兄さん、色々な人に恨まれているでしょうから。ろくな死に方をしないわよ」


 エリスが紅茶とケーキを運んでくる。


「そんないいものじゃない。ただのカツアゲだ」


「そうですか。……戦争の影響で、みんなすさんでいますからね。何か取られたの?」


 目の前に置かれた皿に載っているのは、チーズケーキの残骸とでもいうべき固まりだった。


「取られるようなものは、何も持っていないよ」


 答えながらチーズケーキをスプーンですくって食べた。


「形は崩れても美味いじゃないか」


 その味に満足した。


「味は変わらないでしょうけど、見た目も商品価値の一部です。兄さん、車で来たのではないのね?」


「あれはドミトリーにやった」


 自慢だった愛車のSUVを思い出した。


「誰です?」


「ユウケイの大統領だ。知らないのか?」


「そのくらい知っていますよ。テレビが事実を報道するようになってから、ずいぶんニュースを視るようになりましたから。でも、どうして?」


「個人的なびのつもりだ」


 ――平和条約の道筋がつきました。……国営テレビ局のアナウンサーがニュースを読みあげていた。


 ユウケイ民主国のドミトリーの背後には西部同盟とライス民主共和国があって、ユウケイ民主国の経済的、人的損失に加え、西部同盟諸国とライス民主共和国が提供した兵器に見合う対価の支払いと、核兵器の全廃を要求した。


 交渉にあたるヨシフ首相は、経済的、人的損失の補償を、10年間の分割で実施することで合意した。それには石油および天然ガス、レアメタルを採掘する国営企業が生み出す莫大な利益を当てるという。一方、核兵器の全廃には、ライス民主共和国が保有する核兵器の廃棄を条件に出した。


「どうしても核兵器を捨てられないのね」


 テレビに眼をやり、エリスが言った。それにはヨシフに対する批判の色があった。


「ポーカーなら、ジョーカーのようなカードだからな。持っているだけで他国の反攻を防ぐことができる魔法の兵器だ。今回だってそれを持っていたから、西部同盟もライスも参戦できなかった。もし、核兵器を持っていなかったなら、フチンはあっという間に敗れていただろう。第三次世界大戦に発展することさえなく」


 チーズケーキに眼をやる。これが平和だ、と思う。少しでも乱暴に扱ったら、すぐに壊れてしまうのだ。


「核がなかったら、イワンは侵攻しなかったと思うわ。そうしたら、寿命を縮めることもなかった」


 彼女の言葉は、ユーリイの胸をえぐった。


 ニュースは報じた。ライス民主共和国が核兵器の廃棄に応じることはなく、最終的にフチン共和国側が核兵器を半減することで協議は妥結し、核の抑止力は守り抜かれた、と。


「半分も残ったのね。兵器を守り抜くなんて、本末転倒じゃないのかしら?」


 エリスが口を尖らせた。


 ユーリイはヨシフに同情した。彼は半分の核兵器を残したことで、核無用論者からも、主戦論者からも批判の対象になっている。それらの批判に耐えかねて、カバンの秘密を明かすようなことがなければいいが、と案じた。


「エリスの言う通りだ。人類は核兵器を手に入れて変わった。核を使うどころか、それに支配されている。核の奴隷になったというわけだ。その呪縛から解放されるのは容易ではないだろう」


「イワンは、本来の主人に戻ろうとしたのね?」


「それはどうかな……」


 自分は安全な場所にいながら核兵器を使うなど、卑怯者のすることだ。とても主人などという立派な言葉で呼ぶことはできない。


「……イワンはともかく、ヨシフはよくやっているよ」


 そう教えて、話を変えることにした。


「マリアとサーシャは大丈夫なのか?」


 サーシャは海外に住んでいるエリスの次女だ。彼女たちもイワンの娘ということで辛い思いをしているだろう。


「娘たちなら大丈夫ですよ。元々イワンとは縁遠い暮らしをしていましたから」


 エリスが呑気な口調で応じた。


「本人はそうでも、周囲の目は違うだろう?」


「多少は風当たりも強くなるでしょう。でも、ユーリイに対するそれとは違いますよ」


「エリス。君はどうだ? こんな状況になって辛くないか?」


 ユーリイはくすんだ内装を見回した。


「私なら大丈夫ですよ」


 彼女は澄まし顔でティーカップを口に運んだ。


 テレビのアナウンサーが、10日後に平和条約が締結されると告げた。


「戦争が終わるな」


「エッ、もう終わっているのではないですか?」


「平和条約が結ばれて初めて、戦争は終わるのだよ」


「そんな形式的なこと……。実際は、イワンが死んだときに終わっているのよね?」


「エリスには敵わないな」


 ユーリイには、イワンを失った彼女の気持ちがよく理解できなかった。


「とにかく……」ユーリイは窓の外に眼を向け、一昨日、ドミトリーから届いたメールの話をすることに決めた。「……ユウケイに来ないか、とドミトリーに誘われている」


「あの車をあげたからですか?」


 皮肉たっぷりの口調だった。顔が曇っている。


「こちらで袋叩きになっていることが知られたらしい」


「そうなの?……良かったじゃない。お兄さんは向こうで余生を送ると良いわ」


 不安の混じるかげりのある声だった。


「閉まるドアがあれば、開くドアがあるものだ。東洋では、捨てる神あれば拾う神ありというらしい。もし、君が向こうで暮らしたいというのなら段取るが、どうだ?」


 エリスは力なく首を振った。


「私は止めておくわ。破壊しつくされた故郷は見たくない。兄さんは行けばいいわ。誘われているのは兄さんなのだし」


「どの面下げてユウケイに行けるというのだ……」


 ユーリイは再び窓の外に目を向けた。緑輝く初夏の景色があった。それは懐かしい故郷、遥かユウケイの地まで一続きだ。だからといって、そこを自分のものだというのは、やはり狂気の沙汰なのだ。


 昇る太陽の作る空の色が、黄昏に見えた。


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