第42話 雷撃

「他人には聞かれたくないこともあるだろう。……2人だけで話せないか?」


 ドアの前に立ったままのユーリイが、そこにいる大司教や親衛隊員に眼をやった。


「いいだろう。君たち、出ていきなさい。ヨシフも、だ」


 イワンが親衛隊とヨシフに命じた。


 ヨシフは、ユーリイの横を通り過ぎるとき、小さな電子部品を彼に渡した。


「ありがとう」


 彼が小さな声で応じた。


 ヨシフはイワンの視線が気になったが、振り返らずに足を進めた。


「大司教、ソフィアも外へ」


 ユーリイが2人も外に出るように言ったが、イワンが引き留めた。大司教も、「自分とイワン、そして神は三位一体だ」と声を荒げて退室を拒んだ。


「まったく、お前というやつは……」


 そんなユーリイの言葉を聞きながら、ヨシフはドアを閉めた。


 ドアの前には、警備の親衛隊員が4人、中から出てきた3人と合わせて7人が待機することになった。彼らは二カ所に別れて集まり、これから世界はどう変わるのだろう、と想像を巡らせている。


 ヨシフはドアに身体をつけて耳をそばだてた。が、聞こえるのは船の機械音ばかりだった。


 居心地の悪さを覚えながら、ユーリイの話が終わるのを待った。腕時計の針は12時3分を指していた。その後も何度か時刻を確認した。12時6分、12時7分……。確認する間隔が狭まっていた。


 ――カッ、カッ、カッ……。通路の奥から足音が近づいてくる。見れば親衛隊長だった。背後に、3名の部下を連れている。ドアの前で世間話をしていた親衛隊員たちが、背筋を伸ばして1列に並んだ。その時だ。激しく船が揺れた。


 ――ドゴーン――


 鈍い爆発音が艦内を走る。それが2度続いた。


「おっと……」ヨシフは立っていられずに膝をついたが、親衛隊員は壁に手を突き、足を踏ん張って立ちつづけていた。


「何事だ?」


 親衛隊長が無線を使った。


 ヨシフは、ユーリイが爆発物を仕掛けていたのだろうと思った。そのために自分の通話を盗聴し、先に大フチン号に乗り込んでいたのに違いない。


 彼はとうとう裏切ったのだ!


 ところが意外な声を聞いた。


「魚雷だと……」


 親衛隊長の言葉に狼狽えた。ユウケイ民主国の名が頭を貫く。外洋とはいえ、まだ領海内だ。あの国がどうやって攻撃してきたのだろう?


 親衛隊員たちは「ユウケイの潜水艦か?」と色めきたった。


「ユウケイが潜水艦をもっているとは聞いたことがないぞ。すぐ、指揮所に戻る」


 親衛隊長が引き返そうとした時、キャビン内から聞きなれない音がした。


 ――パーン――


 何かが弾けたような音だった。銃声にも似ていたが、ドアに遮られたくぐもった音に確信が持てない。


 ――パン、パン――


 似たような音が続く。


「銃声だ」


 親衛隊員たちが顔を見合わせた。それから機敏に動いた。


 ――ダン――、勢いよく開いたドアは大きな音を立てた。


 拳銃を手にした親衛隊員たちがヨシフを押しのけて突入していく。皆無言だった。


 この船で何が起きているのだ?……ヨシフは動けなかった。全身の筋肉が棒のように硬直し、心臓が痛んだ。その鼓動はガンガンとドラム缶をたたくように五月蠅く脳を刺激した。


「大統領!」親衛隊員のひとりが声をあげた。それに打たれたように、ヨシフの身体が動いた。


 キャビン前方の大きな窓は、攻撃を感知してシャッターが下りていが、照明は普段通りに点灯していた。


 ドアを入ってすぐのところに、たたずむユーリイと親衛隊員たちの姿があった。


 一番近いソファーの近く、ソフィアが床に座り込んで泣いていた。その腕の中でイワンがあえいでいる。右肩から血が流れていた。ソフィアの膝元に落ちているのはイワンの銃のようだった。彼らの左側、アクセスキーと作戦コードが映る機械の前で、拳銃を手にした大司教が大の字になって死んでいる。


 何があったのだ?……ヨシフは状況が呑み込めなかった。


 眼に留まったのは、あのカバンだった。モニターの数字が点滅している。ボタンが押されてからの経過時間だ。誰が誰を撃ったのか、それはわからなかったが、大司教がカバンのボタンを押したのはわかった。


 船が傾斜していた。魚雷攻撃で浸水しているのに違いなかった。


「ユーリイ様、何があったのですか?」


 彼の隣に近づいて尋ねた。そうして初めて気づいた。彼はとても落ち着いた表情をしており、その手に拳銃を握っていた。


「ユ、ユーリイ……」


 イワンが親衛隊員に傷の手当てを受けながら、ゆっくり上半身を起こした。ヨシフは、ユーリイの返事を待たずに駆け寄った。


「大統領、大丈夫ですか?」


 彼が顔を歪めてユーリイを左手で指差した。


「……殺せ」


「エッ?」


 親衛隊員たちの視線がユーリイに集まった。それに臆することなく、ユーリイが口を開いた。


「イワン、私は良き参謀であり、手足であろうと、これまで務めてきた。だが、私が従うのは国家に対してであり、君にではない」


「ふざけたことを……」


 イワンが顔を歪めた。傷が痛むからだけではないだろう。


 若い親衛隊員が3人、ユーリイに銃口を向けた。


「待て!」


 声を上げたのは親衛隊長だった。


 世界の終りの瀬戸際になって初めて、彼は自分の意思で動いている。……ヨシフは察した。


「どうした? なぜだ?……裏切り者だ。殺せ」


 そう息巻くイワンを、ヨシフは抱きかかえるようにしてソファーに座らせた。


 ――ギギギギギ――、ラプソディー・イン・ブルーに混じり、金属がきしむ音がする。船が泣いているようだ。


「イワン、もう終わりにしよう。君に世界を道連れにする権限はない」


 ユーリイが銃を懐に収め、「この船はもたない。全員、退艦を」と親衛隊長に指示した。彼の言う通り、船の傾斜が大きくなっていた。


 ――シャン、シャン――


 テーブルにあったシャンパングラスが落ちてくだけ散る。イワンの銃が床を滑り、時を刻む黒いカバンが床に落ちた。ユーリイがカバンを拾い上げる。


「大統領の命令よ。その男を殺しなさい!」


 頰をマスカラで汚したソフィアが叫んだが、誰も彼女のためには動かなかった。


「総員退艦、急げ」


 親衛隊長が命じ、隊員が走りはじめる。


「大統領、退艦を」


 ヨシフは促したが、イワンは立とうとしなかった。


「イワン、君も男なら諦めろ。人間、引き際が大切だ」


 ユーリイが言った。


「お前こそ、核の放射能に焼かれて死ぬがいい」


 呪う声は、恐ろしく不気味だった。


 ユーリイがアクセスコードを表示するモニターにチラリと眼をやり、出口へ向かう。


 ――グギギギギギ――


 船のきしむ音が増す。まるで地獄への扉が開いたような音だ。


 ヨシフは耐えられなくなってイワンの側を離れた。うようにユーリイを追う。眼の隅に、コードを映す機械へ向かうソフィアの白い太腿が映った。核のボタンを押すつもりなのだと思った。


「無駄だ。止めろ」


 ユーリイの声。彼がソフィアを撃つかと思ったが、声だけで銃声はしなかった。


 ――ウアハハハ――


 笑うのは、イワンか悪魔か……。ヨシフはぞっとした。彼の呪いから逃げるように、ユーリイの後を追ってキャビンを後にした。


 通路をまっすぐ進むと後部のアミューズメントデッキだった。水平線に対して床が20度ほど傾斜していた。太陽に照らされた水平線がギラギラ揺れている。


 傾いた手すりに親衛隊員が集まり、救命胴衣を着けていた。ヨシフも手すりにつかまると眼下を……、見下ろすまでもなく傾斜した手すりの真下に海があった。それはエメラルドグリーンでもコバルトブルーでもない。船が影を落とした黒く深い海だ。水は冷たそうだった。


 船体にあたる波が、白いしぶきを立てている。その周囲に黄色のゴムボートが木の葉のように揺れていた。海が怖いのか、高さが怖いのかわからない。目がくらみそうになって閉じた。


 網膜もうまくに残るゴムボートはとても遠く頼りなく思えた。それに乗れたとして、陸地にたどり着くことができるだろうか?……目を開けてみる。見渡す限り大海原で、陸地の陰はなかった。


 救命胴衣を着けた親衛隊員が我先に、手すりを乗り越えて飛び込んでいく。皆、命が惜しいのだ。危機に瀕しては、階級も文明もない。一個の動物の本性が現れていた。彼らはあっという間に小さくなり、海面に大きな水しぶきを上げた。


「これをつけて」


 声の主に押し付けられたのは救命胴衣だった。


 付け方がわからずまごまごしていると、「こうやるのです」と、声の彼が装着してくれた。その手が血で汚れていたので、彼がイワンの治療にあたっていた親衛隊員だと気づいた。


「ありがとう」


 そう応じると、自分が文明人だと思い出してホッとした。


 眼下では、飛び込んだ親衛隊員がゴムボートに這い上がっていく。


「こうして見ると高いですね」


 自分の声が震えているのがわかる。


「30メートルはないだろう」


 冷静な声が応じた。ユーリイだった。彼は自分の手で救命胴衣を装着していた。驚いたことに、あのカバンを手にしていた。そのカバンは、もう役に立たないというのに……。冷静なようで、彼も動揺しているのだ。そう考えると、心が落ち着いた。


「私たちも行くぞ。遅れると、船が沈む時の渦に巻き込まれる」


 彼が手すりを乗り越えた。まだ、カバンを手にしたままだ。


 ヨシフは、慌てて彼を追った。高いのも怖いが、置き去りにされるのはもっと怖い。


 手すりを乗り越えるのは簡単だったが、黒い海を見おろすと再び身体が棒のように固まった。10メートルの高飛び込みは1トンの衝撃があるという。まして30メートル近い高さがあるのだ……。


「20メートル以上あるのでは、私には無理です」


「足から真っ直ぐ落ちれば大丈夫だ。飛び込め」


 命じられても、手すりから手が離せない。


「若いのに、だらしないぞ。身体を支えているから、その手を離して自分の鼻をつまめ」


 ユーリイに脇を抱えられると安堵を覚え、手すりを握る手の力が緩んだ。その瞬間、彼が船を蹴った。


「ワッ」と声が漏れた。身体が宙に浮いていた。


「鼻をつまめ……」頭の中でユーリイの声がした。全身から血の気が引いて、意識が途切れた。


 気づいたときには海中にいた。彼の言う通りにしたのかどうか、記憶はなかった。視界はなく、ゴボゴボゴボと水が鳴る音だけがした。上下の感覚がなくて慌てた。刹那、腕を引っ張られた。ユーリイに違いない。そう信じて足をばたつかせ、海面を目指した。それは思ったより遠かった。


 ――ブファ――


 頭が海から出ると、空気を吸う音が声になった。それが自分のものか、ユーリイのものか、ヨシフにはわからなかった。

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