第40話 恐怖の源泉
エリスに追い出されたイワンと共に、ヨシフはグリム宮殿に向かった。
「まったく落ち目になったものだ」
車内でイワンは憤りを口にしたが、どこかホッとした様子も見せていた。
「大統領が核兵器を使うと公言されたからです。黙って撃ちこんでしまってもよかったのです……」
それはヨシフの本心ではなかった。そもそも、21世紀にもなって侵略戦争を始めたのが狂気の
「……前線は一進一退と聞いていますが、厳しいのですか?」
ヨシフは、イワンの家族のことからあえて話題をそらした。
「通常兵器では、もって2カ月と言うところか……」
「2カ月後にはどうなるのでしょう?」
「ユウケイ軍に国土を犯される可能性がある」
「そうですか……。それで核を……」
先手必勝、それがイワンの戦術だと心得ている。
「誤算は西部同盟の連中が大量の武器をドミトリーに提供したことだ。本来なら、西部同盟各国とライスの首都に戦略核をぶち込んでやるべきところだが……」
「私ヨシフは、大統領の配慮に感服です」
そう応じながら、イワンの誤算は諜報部の報告を真に受けたことと、自国の軍事力を過大評価したことだと考えていた。
ヨシフは、イワンに提出されるほとんどの書類に目を通している。イワンが独裁色を強めてから、彼に都合の悪いことはあらゆる報告書から消えていた。すべての部署が、自分のように
それは、諜報部がユウケイ民主国の現状を分析した報告書でも、軍が自軍を評価した報告書でもそうだった。ユウケイ人はフチン人を羨んでもドミトリーを嫌ってもいなかったし、軍はライス民主共和国同等の最新兵器を開発しているものの、既存の保有している兵器や車両の半数は第二次世界大戦当時のものだった。
ヨシフの分析では、軍部は軍事費の大半を新兵器の開発と製造に費やしたため、装備の刷新や部隊の訓練費用は不足しており練度が低かった。そうした軍隊は、テロリストに対してなら圧倒的だが、最新兵器を活用する正規軍に対してはそうではない。平時、軍事力を戦車や航空機、兵隊の量で評価していたから敗けるのだと考えていた。
「私にも慈悲はある。何も知らない他国の市民の上に核を落としたくはない」
イワンが無表情に言うのを、ちらりと横目に見た。
鉄面皮め。……胸の内でなじる。そしてそれを言葉にできない自分を
自国をライス民主共和国に劣ると正当に評価しただけで、愛国心がないと言われて収容所に送られかねない。
宮殿に着くと、イワンは「ソフィアと食事をとる」と言って地下に下りた。ヨシフはトイレに入って妻に電話を掛けた。公安当局に盗聴されているとわかっていても、いや、だからこそ、伝えておきたいことがあった。
「予定が変わった。大統領と共に大フチン号に乗る」
『どうしたのです。大統領の居場所がわかるようなことを話すなんて?』
電話の向こうで妻が驚いていた。
「いいのだ。君とレナのためだ。……父親として、レナには何もしてやれなかった。私が手助けしてもらうばかりで……。せめて、君たちの命は守りたい……」
自分の話が、彼女の疑問に対する回答になっていないことはわかっていた。ただ、自分の気持ちを伝えたかった。場合によっては、これが最後の会話になるかもしれないのだ。身体の中心から込み上げる熱いものを、抑えることができなかった。
『私たちなら大丈夫です。大統領が用意してくれたシェルターにいますから』
スマホから聞こえる彼女の声は、明らかに戸惑っていた。夫がおかしくなってしまったのではないかと疑っているようだ。
「ああ、わかっている。健康に気をつけてくれ」
『あなたこそ、大丈夫なのですか。船なんかで?』
「大フチン号は
愛娘の声が聞きたかった。
『止めたのですけど、出かけてしまいました。戦争反対のデモ行進に……』
「困ったやつだな。早く帰るよう、電話を入れなさい」
数日前なら首に鎖をつけてでも家に連れ帰っただろう。警察が徹底的に取り締まっていたからだ。娘が逮捕されたら、その親を、イワンが側に置くこともない。どのような処遇を受けるか、想像に難くない。
しかし今は、警察が滅多なことで逮捕することはない。警察に限らず、公安部門の方針が変わったのは明らかだ。ドルニトリー公安局長の指示なのだろうが、その彼をイワンが容認しているのも不可解だった。以前なら、とっくに収容所送りだ。
『あなたから言ってやってくださいよ』
「私には無理だ……」
レナの恋人がユウケイ軍の捕虜になっている。戦争に反対する娘の気持ちは理解できた。それよりも、自分のために大統領と寝てもらっているのだ。負い目があって、とても強いことは言えなかった。
『あなたったら……。娘が逮捕されたらどうするのです?』
「以前ほど取り締まりは厳しくないよ」
『万が一ということもあります』
「その時は、その時だ。なんとかする」
『あなたったら……』電話の向こうからため息が聞こえる。『……いつ、帰ってくるのですか?』
「……いつもと同じだよ」
そう口にしながら、今回ばかりはいつもと異なる、とわかっていた。声が震えた。
『大統領次第、ですね』
「君は私のことをよく理解しているね。……私に限らず、すべての国民は彼に首根っこを握られている。……しかし、それも今の特別軍事作戦が終わるまでだ。私を信じてくれ」
彼女は何かを訊きたそうだったが、別れを告げて電話を切った。
頰が濡れているのに気づき、洗面所で顔を洗った。
イワンとソフィアが地下の居室から上がってきたのは1時間ほどしてからだった。ヨシフは黒いカバンひとつを持って、彼らと共に大統領専用のヘリコプターに乗った。
操縦士と副操縦士は親衛隊員で、ヨシフは、操縦席の後ろのシートに親衛隊長と並んで座った。毎日のように顔を会わせている相手だが、挨拶をする程度で、にこりともしない兵士だ。彼の厳つい顔にも巨大な体躯にも慣れることなく、常に脅威に感じていた。
背後は壁で仕切られていて、その奥が小さな貴賓室といった空間になっている。そこに大統領とソフィアが2人きりでいる。景色を見ているのか、抱きあっているのか知らないが、いずれにしても豪華な空間で空の旅を楽しんでいるだろう。
「港まで、どのくらいかな?」
操縦士に尋ねると、1時間ほどだと返事があった。
ヨシフは、小さな窓から前方を飛ぶ親衛隊の戦闘ヘリに眼を向ける。前に1機、左右に2機がイワンを守るように飛んでいる。
親衛隊員は全部で40名……。たったそれだけなのに、誰も世界を滅ぼそうという狂気の大統領を排除できない。逆に、政治家から軍人に至るまで、隣人やライバルをおとしいれ、密告し、
イワンが大統領になるとすぐに、いや、その直前、ちょうどチェルク紛争が勃発したころから世の中の空気が変わっていた。疑わしきは排除せよ。先手必勝、やられる前にやれ……。そんな空気が大統領を取り巻く面々を包んだ。ヨシフには、自分もそのひとりだという自覚があった。
信頼と
ところが今は、彼が唯一信頼し、拳銃を与えた妻によって家庭から
いや!……ヨシフは自分の
――本当に怖いものは何か、……誰かではない。何か、それを考えることだ――
スタジアムのアリーナ席で背後からささやかれた言葉を忘れることはなかった。ユーリイは、イワンでも自分でもない何かを恐れろ、と言った。ヨシフは〝神〟だと解釈したが、ユーリイの行動を見ると、彼が神を恐れているようには思えなかった。
ユーリイについては知らないことが多かった。わかるのは、彼はイワンと同じ諜報機関で働いていた時期があり、大フチン帝国崩壊後、
いや、いや、と思い直した。今の帝国はイワンとユーリイの二人三脚、光と影の力の相乗効果によって築かれたものだ、と。
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