第32話 悪魔の所業

「ドミトリー、フチンから大統領宛の外交伝です」


 オリガの声でドミトリーは仮眠から目覚めた。


「ああ、今行く」


 時計は午前7時を示していた。重い頭で1時間は寝たのか、と考えた。


 本部にいたのはハンナとオリガの他、わずかなスタッフだけだった。朝方までの作業で疲れた多くのスタッフは、まだ夢の中にいる。


「ハンナ、開いてくれ」


「了解」


 彼女がイワンからのメールを開いた。


 それは、温情で3日だけ攻撃を中断してやる、といった恩着せがましい文言で始まっていた。その3日間で熟慮し、降伏を決意しろ、というのが用件らしい。


「相変わらずですね」


 ハンナが苦笑した。


「ハンナ、添付ファイルがあります。開く前にウイルスチェックを」


 オリガが指摘した。


「ほんとだ。嫌な予感しかしないわね」


 彼女はウイルス駆除ソフトを走らせ、問題がないことを確認して動画ファイルを開いた。


『……愚かなドミトリー、そしてユウケイの国民たちよ。お前たちが女神と仰いだアテナは、お前たちの頑固な抵抗によって死ぬのだ。……降伏、お前たちに残っているのは、その道だけだ』


 そう話すイワンの後ろには、生放送の時と違って十字架の高い位置に縛り付けられたアテナの姿があった。イワンの言葉をさえぎらないように、猿轡をされていた。


「アテナ……」


 ドミトリーはそれ以降の言葉を失った。彼女への謝罪の思いと、イワンへの怒りと敵意がそうさせた。


 他のスタッフも同じだった。ただ呆然と、動画に目を凝らした。


『……降伏しなければ、お前が見るのはジャンヌダルクの最後の姿だ。己の命惜しさに彼女を人身御供に差し出したユウケイ政府の人権侵害は、永遠に世界中から非難されることになるだろう。そしていずれ、ユウケイ国民は皆、彼女の後を追うことになる……』


 イワンは、ユウケイ民主国がフチン共和国の一部であると延々と語り、『大フチンに祝福あれ』と締めくくっていた。


「昨日、フチン国民に向かって話したことは、やっぱり噓だったのね。特使の処刑なんて国際法上ありえない。……何が人権侵害だ。アテナの人権はどうなっているのよ……」


 オリガが涙ながらに話した。


「生まれながらの嘘つきなのよ。それで勝利が得られるなら、噓も国際法違反も正義だと考えているのだわ。野蛮人のやることよ。ドミトリー、どうします?」


 ハンナに問われ、ドミトリーは天を仰いだ。どうもこうも、降伏という選択肢はない。……自分の命と引き換えなら、彼女は解放されるかもしれない。そんな考えが頭を過ったが、そうしたところで、イワンはそれを逆手に取り、アテナも自分も殺されてしまう気がする。……この世に神は存在しないのか?……そんなことしか考えられない自分が情けなかった。


 視線を降ろし、国防大臣のデニスに向いた。


「エアルポリスの避難は始まっているのだろう? フチン軍からの妨害はないのか?」


「今のところ、妨害を受けたという報告はない」


 デニスが応じた。


「そうか……。とにかく、3日ある。アテナを救いだす方法を考えよう」


 そう言ってみたものの、その場しのぎの感は否めない。唯一の希望は、3日間の平和があれば、避難民が移動できるのと同様に、軍の配置転換や兵器弾薬の補充も可能ということだった。


「そうですね。私も協力的な各国首脳にこの動画を送り、協力を仰いでみます」


 ハンナが応じた。


「頼む」


 睡眠不足の頭で言った。


 全国民の避難支援で忙しい指令本部の時はあっという間に過ぎた。その夜にはイワンへの返事をしなければならない夕食の席で、ハンナが閣僚たちに報告した。


「5か国の首脳がイワンと直接電話会談を開き、アテナの処刑中止を要請してくれました……」


 彼女は、各国の首脳の要請に対してイワンは、戦時交渉の駆け引きに他国が口をはさむものではないと冷笑した、と悔しそうに話した。


「……ライスのジャン大統領もイワンの真意がわからないと困惑していました。処刑の件は、イワンのいつもの虚言ではないかと慰められましたが、私は、彼の行動はただの冗談とは思えません」


 具の少ないシチューを前に、彼女はスプーンを握った手を震わせた。


「ドミトリー、アテナとフチン人捕虜の交換を提案してみよう」


 デニスがアイディアを出した。


「それだ! 彼女のためなら5人でも10人でも捕虜を出そう」


 ドミトリーは手を打った。こんな簡単なことにどうして気づかなかったのかと思う。それも疲労のためか……。


 捕虜交換のアイディアに、オリガの反応は鈍かった。


「イワンは、アテナを人質にしてドミトリーに降伏を迫ってきた。アテナにそれだけの価値があると考えているからです。ジャンヌダルクだもの。それに比べたら捕虜の兵隊は、彼にとってはただの駒です。とてもアテナと捕虜の交換が成立するとは思えないわ」


「捕虜で足りないなら、私の命もつけてやる。それならイワンも交換をのむだろう」


 思わず覚悟を言った。


「ドミトリー、無茶は言わないで。今、あなたがいなくなったらユウケイはバラバラになってしまう」


「そんなことはない。ここまでやれたのだ。君でもハンナでも、私と同じようにやれるはずだ」


 やれやれ、とでもいうようにオリガが首を振った。


「とにかく、食事が済んだらアンドレ外務大臣に捕虜の交換を打診してみるわ」


「頼んだよ。戦力で劣る我々に唯一勝機があるとすれば、国を守りたいという使命感と不屈の精神だけだ。彼女はその象徴なのだ」


「象徴はドミトリーも同じですよ」


 オリガがパンの欠片かけらを口に放り込むと時間を惜しんで席を立った。


「それにしても、この3日間は戦争の転機になるだろう。西部同盟からの武器の移送が驚くほど速かった」


 デニスがリストを示した。地対空ミサイル、地対艦ミサイル、戦闘ヘリ、攻撃型ドローン、戦車、装甲車、長距離りゅう弾砲……。提供した国ごとに兵器や弾薬がまとめられたリストだ。


「これでひと月は戦えるな」


 本来軍人ではないドミトリーに、リストの兵器がどれだけの戦力になるのかはよくわからない。ただ、これまでデニスやアントロフの要望を聞き、ライス民主共和国や西部同盟に武器の提供を要求してきた。その経験から、リストにあるものだけでも、過去のユウケイ軍の装備を上まっていることは理解できた。


「ドミトリー、これだけあれば、フチン軍を国境まで押し返すことができるさ」


 珍しくアントロフが声を発した。そのリストに、よほど勇気を得たのだろう。


「そうか。君の参謀としての力が発揮できそうだな。できることなら、一気に戦争を終わらせてほしいものだ」


 ドミトリーは、ユウケイ軍が侵略者を押し返す様子を想像して、アテナへの思いをひと時忘れた。


「窮地に陥ったイワンは、核兵器を使うかもしれませんよ」


 不安を口にするハンナの顔を見て苦笑した。核兵器の使用を阻止するために自分たちにできるのは、ユウケイ民主国が敗北することしかないからだ。このまま対等な戦いが継続できたとしても、しびれを切らしたイワンが核兵器の使用に踏み切る可能性はゼロではない。それを黙って受け入れろというのか……。いや、それはユウケイ国民を指導する者として、決してできない。


「今のままの戦いを続けていたら、イワンが核を使おうが使うまいが、ユウケイ国民に訪れるのは悲惨な最期だ。だから……」


 たとえ世界が核戦争で滅びようとも、今は勝つしかないのだ。その上で核兵器が使われるかどうかは、イワンの胸ひとつだ。


 そう話そうとした時、仕事熱心なオリガが、思ったより早く戻ってきた。その顔色と虚ろな瞳を見れば、折衝が上手くいっていないことがよくわかる。彼女が責任に押しつぶされなければいいが、と思った。


「オリガ、無理を頼んですまないな。今度は私が、メッセージビデオを送って見よう。私の口から述べた方が、効果があるかもしれない」


「違うのです。……アテナが……」


「アテナがどうした?」


 ドミトリーは立った。


「アテナが……」


 繰り返すオリガの瞳に涙があふれた。


「……殺されました」


「エッ……」「何だって?」ハンナが言葉を失い、デニスが眼をむいた。


「どういうことだ?」


 ドミトリーはオリガの肩をつかんで、説明を求めた。


「こ、交渉を打診したら、……ど、動画が届きました……」


 彼女の話が終わるより早く、ドミトリーは指令室に向かって走った。


 オリガのパソコンの前にスタッフが集まっていた。ある者は立ちつくし、ある者は膝を折って泣いている。リディアもそうだった。彼女は顔を両手でおおい、嗚咽おえつしていた。


「見せてくれ」


 ドミトリーの声に気づいたスタッフたちがパソコンの前を開けた。ドミトリーはオリガの椅子に腰を下ろしてマウスを操作した。


 それは閑散とした灰色の部屋が映る音声のない動画だった。部屋には、手足を固定するバンドがついた頑丈そうな椅子と小さなテーブルだけがあった。そのテーブルには金属製の長方形の皿があって、注射器が置かれている。


 注射器に入っているのは死刑執行用の毒薬だろう。ドミトリーにはわかっていた。が、それは考えないようにした。


 画像の手前から車イスを押す男性の背中が現れる。彼は車イスを頑丈そうな椅子の隣に止めた。彼の顔はぼかし加工がされていた。彼が復讐の対象にされないよう考慮してのことだろう。


 車イスに乗っているのは黒い袋を頭に被せられた軍服姿の女性だった。それが本当にアテナなのか、疑いながら見守った。


 顔にぼかし加工された男性が女性に顔を寄せた。それから彼女の手を取って立たせると、隣の頑丈そうな椅子に座らせて手足を固定した。


 このまま死刑が執行されるのなら、アテナが死んだとは限らない。そんな風に考えたドミトリーの微かな希望を映像は裏切った。女性の手足を固定した男性が顔を隠していた袋を取ったのだ。


「アテナ……」


 背後からハンナとボロゾフの声がした。


 カメラがズームアップする。映像は部屋全体のものから、アテナの上半身のものに変わった。彼女の顔には疲れが張り付いていたが、その瞳は生き生きしていた。


 これから何が行われようとしているのか、知らないはずがないのに……。ドミトリーの胸に熱いものが込み上げた。


 アテナの唇が動いていた。が、音は入っていない。


 ドミトリーの頭の中に、イワンは核兵器を使う、という彼女の声が聞こえた。


 彼女の唇は続きを言った。


「アテナは、何を話している?」


 デニスが疑問を口にした。


「みんな、ありがとう。私は家族のもとに行く……」


 アテナの唇の動きを、ドミトリーは声にした。


 アテナは力強く、そして優しく微笑み、「ユウケイに栄光あれ」と3度繰り返した。3度目を言っている時、再び黒い袋が被せられた。


 カメラがズームバックし、再びアテナの全身の映像に変わった。


 顔にぼかしの入った男性がアテナの左側に屈み、軍服の腕を肘までまくり上げる。そこに白衣の女性が現れた。医師なのだろう。その顔もまたぼかし加工がされていた。


 女性は机の上の注射器を手に取ると、アテナの前腕に指を添えた。どうやら血管を探しているらしい。彼女の指が止ったかと思うと、そこに注射針が深く突き刺された。


「キャッ……」ハンナが悲鳴をのみこんだ。


 まさか……。ドミトリーが考えたのは、アテナの死のことではなかった。他人の死刑執行現場を見せられたことに対しての驚きだった。これほど残虐な行為があるだろうか……。ドミトリーの全身に満ちたのは、イワンという人間に対する恐怖だった。彼には勝てないかもしれない。……心底そう思い、震えた。


 ディスプレーの中のアテナは痙攣けいれんを起こしていた。背筋を反り返すようにして……。その時、彼女は絶叫していたのかもしれない。音声がないのはそのためか?……イワンを恐れた自分と別の自分が思考していた。


「何てことだ……」「ひどいな」「見ていられん」


 ボロゾフ、アントロフ、デニスらの声や、オリガとリディアの嗚咽が意味のない音としてドミトリーの鼓膜こまくを通過して行った。


 ほどなくアテナの痙攣が治まり、ぐったりと頭をうなだれた。


 顔をぼかし加工された男性が黒い袋を取る。中から現れたアテナの顔は下を向いていて明瞭には見えなかった。彼女の死に顔がどうあれ、痙攣の状態をみれば、死に際の苦痛が尋常じんじょうでないことは想像できた。


「どうして彼女が死ななければならないの」


 ハンナが呻いた。


「悪魔め……」


 ドミトリーは無意識のうちに机を拳で打っていた。憎しみが恐怖に勝っていた。同時に、解放感を覚えていた。アテナの死によってイワンの降伏勧告から解き放たれた安堵だ。


「こうなること、……わかっていたのではありませんか?」


 耳元でカテリーナのささやく声がし、ドミトリーはぎくりとした。立ち上がり、彼女をねめつける。政治は冷酷なものだ、と胸の内で言った。


「アテナの死は、100万の市民を救った英雄の行為として、ユウケイの歴史に永遠に刻まれるだろう」


 ドミトリーの声に、アテナの死をいたみ悲しむスタッフたちが大きくうなずいた。


「しかし、私たちはここに留まっているわけにはいかない。イワンが動画を送ってきたのは、アテナの死に我々が恐れおののき、悲しみのあまりに身をすくませる。そうさせるためだ。アテナの亡霊に縛られていてはイワンの思うつぼだ。国民ひとりひとり、全身全霊を持って戦い、ユウケイの国土を1ミリたりともフチンに渡さないことが必要だ。それがアテナの死に応えることであり復讐だ。明日、我々は反転攻勢にいどむ。……ユウケイ民主国に栄光あれ!」


 ドミトリーは拳を突き上げ、悲しみに沈む指令本部からアテナの亡霊を消し去った。その胸の内には、世界を核戦争の渦に巻き込む覚悟が、赤い火の玉と化していた。


「アントロフ!」


 彼を呼び、停戦終了時の反転攻勢作戦の遂行を厳に命じた。

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