大統領の戦争
明日乃たまご
第1話 アテナ
朝日の中に雪を頂いた山脈が横たわっていた。ダイヤモンドダストが朝の光を受けて煌めいている。山脈の向こうで隣国、フチン共和国の大軍が軍事演習を行っていて、その緊張感が空気中の水分を凍らせているようだった。
「マリア、急いで。おじいちゃんが待っているわよ」
ユウケイ民主国の首都セントバーグの隣町、ミールの古い商店街に住むアテナは、4歳の娘、マリアを
「ママ、待って。キティーちゃんがひとり足りないの」
キティーちゃんは、マリアが大好きな日本製のぬいぐるみだ。彼女は大小合わせて6つのキティーちゃんを持っており、それをリュックに詰めてアテナの両親の家に行くのが日課だった。
「あった!」
声がするとほどなく、自分の身体と同じようなサイズのリュックを引きずったマリアが階段を下りてきた。アテナはそれを背負わせてやると、彼女の手を引いて石畳の通りに出た。
敷石はすり減ってでこぼこしているが行政は直そうとしないし、住民は誰も文句を言わない。それがその街が刻んだ歴史であり、住民の愛とプライドの証だからだ。狭い通りを車がとばす必要もない。通りの両側に並ぶ建物は、ピンク、コバルトブルー、ミルキーホワイトといった、パステルカラーに彩られていて、見る者の気持ちを明るくしてくれた。時刻が早く、開いている商店はない。
アテナは、
「オーイ!」
聞こえたのは小さなパブを経営している父親の声だった。孫を待ちかねて、外に出てきたものらしい。ふたつ向こうの十字路の角、ミント色の肉屋の前で手を振っていた。彼のパブはその隣にある。
「おじいちゃん!」
彼女の息が白く凍った。アテナの手を振りほどき、転げるように駆けていく。そんな姿にアテナの顔もほころんだ。
「転ぶわよ!」
後ろから声をかけても彼女の耳には届かない。もう、ひとつ先の十字路にいた。
「お父さん、頼んだわよ!」
アテナは父親に手を振った。
「任せておけ。でっかいロブスターを5匹、買って来てくれ!」
「了解!」
そう応じ、父親がマリアを抱き上げたのを見てから背中を向けた。
1歩、足を進めた時だった。――グォォォ……、と遠くからジェット機が近づくような音がした。民間機の航路はなく、街の上を飛行機が飛ぶことはない。飛ぶとしたら軍隊のものだった。
隣国のイワン大統領の憎々しい顔が脳裏を過った。フチン共和国は地下資源が豊かで、その富を利用して強大な軍事国家となっていた。その軍事力は、ユウケイ共和国の10倍とも20倍ともいわれる。軍事力が公正に比較できないのは、核兵器の有無の差があるからだ。核兵器を持てば、小さな国でも大国に大きなダメージを与えることができる。
過去数十年、世界の人々は核兵器の削減、廃絶を訴えているが、核保有国は増えるばかりだ。それもこれも、核抑止力という神話のためだ。
核兵器を使うことで小さな国でも世界を終わらせることができる、というのは決して神話ではない。実際にそれを使えば、核攻撃が連鎖して世界が終わる可能性がある。
世界が平和な今、軍事力にどれだけ意味があるのか、とアテナは思うのだが、
空の国境を犯し、イワン大統領は何を望んでいるのだろう?……考えながら2歩進み、青い空に目を向ける。ジェット機の姿はなかった。
「まったく、うるさいわね」
飛翔する見えない物体へ苦情をぶつける。
――ヅォーン――
遠いレーダー基地の辺りで爆発音がした。
「エッ?」
音の方角に顔を向けた刹那、地面が揺れた。
――ドォーン――
間近な場所で爆裂音が鳴った。同時に爆風と砂埃がアテナを襲った。彼女は、ピンク色のクレープ店の前に弾き飛ばされて地面に倒れた。
――ヅザザザザ……。身体の上に大量の板切れやガラス片といった瓦礫が降り注ぐ。一瞬、意識が遠のいた。気絶したわけではない。肉体の痛みも感じない。自分の身に起きたことが理解できず、思考が止まっていた。
身体が動いたのは、何か危険な事態に巻き込まれているのだと気づいてからだった。そうして初めて、身体のあちらこちらに痛みを感じた。擦り傷、打撲傷? 判然としないが、痛むことだけはわかった。
頭を上げると、目の前の壁に肉屋の看板が突き刺さっていて驚いた。クレープ店のピンク色の壁は、舞い散った埃で灰色に変わっていた。見れば、自分の手も衣類も灰色だった。顔も同じなのだろうと思った。
ジェット機が落ちたのだわ。……アテナは考え、痛みをこらえて立ち上がった。周囲を見渡せば、美しいはずの通りは埃でかすみ、見通しが悪かった。石畳の通りはがれきに覆われ、血だらけの怪我人が横たわり、あるいは呆然と立ち尽くして助けを呼んでいる。
「大丈夫?」
彼等に声をかけても、足を止めることはなかった。頭にあるのは可愛い娘のことばかり……。父がマリアを抱き上げていた場所まで夢中で走った。実際は、瓦礫が多くて歩いた。
「マリア! パパ!」
愛娘と父を呼ぶ声は、やがてのどに詰まった。
2ブロック戻って初めて気づいた。ミント色の肉屋は跡形もなく、がれきの山に変貌していた。様々なものが、元の形を失っていた。
「マリア! パパ!」
屋根瓦、レンガ、壊れた家具、肉屋の車のタイヤ……、本来の形をとどめない様々なかけらを素手でかき分けて、2人の姿を探した。
「フリンのバカ野郎……」
瓦礫を移動させながらパン屋のオーナーが泣いていた。あちらこちらで無事だった住民が遺体を捜し、怪我人を助けた。
遠くから緊急車両のサイレンの音が近づいてくる。
消防隊員や商店街の住人の懸命の作業があった。そうしてボロボロになったマリアのリュックが見つかった。キティーちゃんの顔が裂け目からのぞいていた。その顔は無表情に何かを訴えていた。
マリアと父の見るに堪えないひしゃげた遺体……、それが遺体といえるものかどうかは別として、人々の協力を得て、それは昼頃に見つかった。
アテナを襲った悲劇はそれだけではなかった。肉屋同様、父親のパブも吹き飛んでいて、その残骸の中から母親の遺体が発見された。
どうしてこんなことに……。アテナの奥歯がギリギリ鳴った。悲しみと苦しみで涙がともらない。
「まさか、本当に攻撃してくるとはなぁ」「卑怯な連中だ」「誤爆だ」
手助けしてくれた街の人々が口々に言った。
上空を次々とミサイルが飛んでいく。それらは、確実にユウケイ軍の施設に向かっていた。
「運が悪かったんだ」
クレープ屋の主が慰める。
「大統領が言った通り、戦争が始まったんだ」
金物屋の女主人が言った。
未来に通じるあたりまえの日常が、手のひらからサラサラと
その夜、街はずれの教会に10を超える棺桶が並んだ。その内の4つがアテナの家族で、4つが肉屋の家族だった。駆けつけたアテナの夫が顔を怒らし、国防軍に志願すると叫んで飛び出して行った。
棺桶を前にしていると、魂が燃え尽きたのか、いつの間にか恨みと怒りは消えていた。代わりに恐怖が顔を出した。イワン大統領は、感情のある人間なのだろうか?
ふと、父の記憶がよみがえった。噂話や陰口を嫌う彼が、イワン大統領は恐ろしい人だと話していたのだ。彼は政敵を毒殺し、ジャーナリストを撃ち殺す。反対する者なら、親族さえも……、と。それはまるで彼のことを直に知っているような口ぶりだった。その時、詳しく聞かなかったことを後悔した。
教会は、商店街の住人と死者の親族で埋まった。神父が祈りをささげる間も、上空を飛ぶミサイルや戦闘機のエンジン音が絶えることはなかった。
アテナは身寄りのない肉屋の家族の分まで祈った。すると、イワン大統領に対する恐怖が消えた。事態が好転したのではない。宇宙に放り出されたような、頼りない気持ちになっていた。
教会がざわついたのはSNSにドミトリー大統領の演説が公開された時だった。彼は、その日の朝、ユウケイ民主国の3方向を取り囲んだフチン共和国軍から攻撃を受けた、と沈痛な面持ちで語った。国防軍は全力で応戦、敵の侵攻を押しとどめているが137名の国民の命が奪われたという。
「……国民もまた強力な軍隊だ。国防軍は支援を必要としており、軍との連帯は国家の柱です。国民への武器提供を始めました。国家の未来は全ての国民の肩にかかっている。戦闘経験があり、国の防衛に関われる人は参加しなければならない。今がその時なのだ。私は敵をくじくまで、セントバーグを離れない。国防軍と、そして国民と共に、最後の最後まで戦うだろう」
大統領は、強い眼差しを国民ひとりひとりに向けているように見えた。
「俺は行く!」「俺も」「私も」
若者ばかりか、老人や女性までも興奮した表情で声を上げ、あるいは立ち上がり、拳を握った。
「勇敢な神の子たちに、神のご加護を」
神父は静かに祈った。
あの人は生きて帰ってくるだろうか?……その時アテナは、夫の顔や名前が思い出せなかった。
自宅に戻り、ベッドに横になった。身体は鉛のように重いのに、寝付くことができなかった。
キティーちゃんの人形を抱いて娘のことを思い、これからどうやって生きて行こうか、と考えた。それを、上空を飛ぶミサイルの音が
「これから何を頼りに生きて行けばいいのだろう……」夫は娘を失ったために正気を失い飛び出して行った。彼が戻るとすれば、戦いが終わった時だけれど……。国防軍の10倍、20倍ともいわれる敵を退けることなどできるのだろうか?……そうすると誓ったドミトリー大統領の顔を思い出した。
「彼はダメだ……」
就任当初、彼は経済を立て直すと言ったが、国の経済は依然低調なままで、国民の暮らしは良くなっていなかった。政治腐敗をなくすとも言ったが、汚職にまみれた大臣を切り捨てたのも僅か半年前のこと。それまで多くの政治家が、自国よりフチン共和国のイワン大統領におもねる行動をとっていたではないか。だから、舐められ、攻め込まれることになったのではないか……。
鬱々と考え、時折まどろんだ。そうして陽が昇った時アテナは、家族の遺体を神父に委ねて首都セントバーグに向かった。
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