第16話 遠くの記憶

 一年で一番寒い二月が終わる頃、少女は俺の前から姿を消した。それはまるで、冬の終わりの兆しを嗅ぎ取った渡り鳥のようだった。


 彼女は置き手紙のような洒落た物も残さず。部屋を片付けるような気を利かせる事も無く。ただ俺の前から消え去った。


 俺は以前のように一人で過ごし、いつもの駅前のカフェで一人の時間を使っていた。裏通りでは相変わらず身体を売る女達と、それを買おうとする男達の交渉事が繰り返されていた。


 興奮のせいか、両目が血走っている中年の男が娘ほども年齢が離れている少女に指を二本立てて迫っていた。


 少し前の自分なら、そんな光景に軽蔑の眼差しを向けていた。だが、泊まる家の無い少女の身体を貪った俺にそんな資格は無かった。


 あの中年と俺は同類であり、薄い理性を剥ぎ取れば欲望を垂れ流す獣と大差無いろくでなしだった。


「真面目に考えすぎじゃない? ご飯食べてそれを排泄して交尾する。 それが人間の本質で正体なんじゃないの? 文化だの常識だのはそれを隠そうとする薄っぺらい服よ」


 ······何故だろうか。少女と交わした会話などろくに覚えて無い筈なのに、時々ふと彼女の言葉を鮮明に思い出す事があった。


 少女は時々、年齢に似つかわしくない大人びた事を話す時があった。それは俺にとって不快では無かった。


「お兄さんの人生だから説教するつもりは無いけどさ。もっと外に出てみたら? 人間なんて結局いつか死ぬんだからさ。一度くらい恋をしたら? 恋をして死ぬなんて素敵じゃない」


「······大きなお世話だ」


 午後の終わりから帰宅ラッシュに近づくカフェの最も空く時間帯。俺はカフェオレを飲みながら一人そう呟いた。


「神様が決めた運命なんてクソ喰らえよ。神だろうが仏だろうが、私の決めた人生の目的を邪魔させやしないわ」


 俺は少女の挑発的な発言を思い返しながら、自分にとっての彼女の存在を定義しようとしていた。女の身体を教えてくれた恩人か。


 内に籠もる人生を過ごす自分に、外の空気を運んで来てくれた旅人か。どの答えもぼやけ、俺は独り苦笑した。


 その時、俺は自然とカフェの注文カウンターに足を向けていた。暇そうにしていた店員は、水を得た魚のように機敏に動き笑顔を俺に向けた。


 気付くと俺は、アイスジンジャエールを注文していた。

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