時空超常奇譚2其ノ六. 妖怪時ノ輪が行くⅠ/想出リフレイン

銀河自衛隊《ヒロカワマモル》

時空超常奇譚2其ノ六. 妖怪時乃輪が行くⅠ/想出リフレイン

妖怪時乃輪ときのわが行くⅠ/想出おもいでリフレイン


「あれ、こんなところに喫茶店なんかあったかしら?」

 女は、仕事帰りの途中に古びた小さな看板を見付けた。腐り掛けた木枠に取りつけられた錆びついた鉄板に「喫茶タイムトラベル」なる文字と矢印が描かれている。

 蒲田駅東口の路地裏には古いビルに雑多な店が犇めいている。ほんの少し奥に離れただけで駅前のざわついた雰囲気は瞬時に消え、高級住宅街ではないがそれなりの戸建住宅が並ぶエリアへと姿を変える。その中に喫茶店があっても不思議ではない、何故ならそこが蒲田だからだ。

 とは言え、そのビルはかなり古そうな感じがする。朽ち掛けの看板もネーミングも時代を感じる。矢印は更に路地裏を示している。

 女は、古い飲食店の類が極端に苦手だ。趣があると言えば聞こえは良いが、そこにあるのは大抵カビ臭く汚れた雑多な薄暗い空間だ。例え短時間であっても、そんな空間に身を置くだけで体調が見る間に崩れていく、何度経験しただろうか。

 おそらくはそのせいで、その手の場所に著しく苦手意識が強い。だがらと言って、今更自身を変えようなどとは決して思わないが。

 その看板も何となく気になっただけで、初めから入るつもりなど毛頭なく、いつものようにどんなものかと興味本位で店の前まで行って「あぁやっぱりね」と納得したかっただけだった。


 裏路地をちょっと入った一角にその喫茶店はあった。昔ながらの入り口の濃い紫色のガラス扉に白い文字で『純喫茶』と描いてある。古びた看板の喫茶店はきっとここに違いない。

 入るとなると多少の勇気を必要とするその佇まいから察するに、きっとそこは古臭いカビの生えた汚いお化け屋敷で、ゴキブリとネズミの温床のような店に違いない。「隠しても無駄だ、私にはそんな事など100パーセント、全部まるっとお見通しだ」と、どこかで聞いたような女の呟きが聞こえた。

 そもそも女は他人より慎重な性格で、石橋を叩いて渡るどころか叩いても渡らない事が良くある。そうやって堅実に人生を歩んできた。随分と損をしたような気もするが、性格なので仕方がないと納得している。尤も、そこそこ歳を積み重ねるとそんな自分が嫌いではないし、それこそが自分なのだと達観している自分が可愛く思えたりもする。

 高校生の頃だったか、そんな自分が嫌で堪らない時期があった。今更あの頃には戻りたくない気もするし、戻ってやり直してみたい気もする。どちらにしても、遠く過ぎ去った思い出に過ぎない。

 女の名は田尻玲子たじりれいこ58歳。子育ても終わり、もう既に定年を迎えたダンナと二人で、これからの長い老後を生きていく事にしている。世間で良く聞く「ダンナと二人でなんて、考える度に憂鬱になる」とは思っていない、それが自身の人生なのだ。


 玲子は店に入った。何故その日に限ってそんな小汚ない、いや古びた趣のある店に入ったのか、理由は良くわからない。忘れ物をしたような、どうしても入らなければならないような義務感に襲われ、純喫茶のガラス扉を開けたのだ。

 店内は薄暗く、ところどころに置いてある蝋燭とテーブルに置かれた暖色のランプ灯が、辛うじて店員の顔を浮かび上がらせている。


「いらっしゃいませ」

「あっ、アメリカンを一つ」

 暫くして、若い女店員が珈琲を運んで来た。芳醇な香りがその場をまろやかな癒し空間に変えていく。待たせる事もなく、程良いタイミングで珈琲が出てくる。古臭いカビの生えた小汚い店かと思ったが、珈琲は熱くもなく温くもない中々良い味を出しているし、カビ臭いどころか珈琲だけではない心地よい香りが頬を撫でる。これは薔薇か。

 周りを見渡すと、至るところに植物が置いてある。店内も、無造作に観葉植物をそこら中に置いて結局ジャングルになってしまっているような、そんなセンスの欠片もない店とはちょっと違う。それに何より店員の若い女の子が可愛い。顔が小さく全体的に華奢な感じで、芸能人かモデルのようなオーラがある。名前は忘れたが、昔憧れた芸能人に似ているような気もする。エプロン姿の女店員はさり気なく言った。

「当店の珈琲は、如何でございますか?」

「凄く美味しいわ。ところで、この店はいつ頃からやっているの?私、この街に引っ越してから30年になるのだけれど、全然気付かなかったわ」

「当店は開店して、かれこれ300年程経ちます」

 若い女店員は真顔で微笑んだ。彼女流のジョークなのだろうか、悪びれない人懐っこい笑顔が愛らしい。

「300年、面白い冗談ね」

「いえ、本当なんですよ」

 女店員はさらりと真顔で返した。親しみの持てる可憐な物言いに、玲子は思わず話に乗ってしまった。

「という事は、アナタは320歳くらいかしら?」

「はい、やっと350歳になりました。500歳で一人前なので、まだまだです」

「へぇ、そうなんだ、じゃあ私より年上ね」

「そうなりますね」

 会話の内容は無茶苦茶なのだが、他愛のない遣り取りに心が和む。

「このお店の名前、えっとタイムトラベルでしたっけ、どうして付けたの?」

 女店員が微笑みながら言う。

「内緒の話なんですけど、実はここは単なる喫茶店ではなくて時を行き来出来る空間なんですよ。だから、タイムトラベルなんです。ワタシも人間ではなく、時乃輪ときのわという名の妖怪です」

 そう来たか。時空だ妖怪だと多少陳腐な感はあるが風変わりでちょっと面白い。田尻玲子は昔遊び半分で劇団にいた事がある。この若い女との会話は、素人の戯れ話とは言え、まるで芝居小屋にでも迷い込んだようだ。客と一体化する新手の小劇場と言ったところか。

「お客様は、未来に翔んだり過去に戻ったりしたいと思った事はありませんか?」

「未来に翔ぶ、過去に戻る?」

 女店員は、いきなり田尻玲子に奇妙な問い掛けをした。

「選んでどうするの?」

「時を翔ぶ事が出来ます」

「へぇ、そんな特典があるんだ」

「いえ、これは特典ではなく営業でございます」

「営業?」

「はい、お代はいただきますので」

「有料なんだ?」

 首を傾げる田尻玲子の意思を置いたまま、話は一方的に先へ進んでいく。女店員の台詞が続いた。

「お客様が希望されるなら、残りの寿命内でお望みの未来に翔ぶか、または過去を一度だけリフレインする事が出来ます。勿論「そんなものは必要ない」という方には無理にお勧めはしませんので、このお話はなかった事にしてくださって結構です」

「面白い話だわね」

 シナリオの設定としてのB級感は否めないものの、掴みとしては中々面白いところを突いているように感じる。

「選ぶとしたら、どちらが宜しいですか?未来でも過去でも残寿命内であればどの時点への願いも必ず叶います。ここは時を駆ける喫茶店ですから」

「それって、タイムマシンって事なの?」

「ちょっと違います。過去に行くというよりも特定された時空間へ翔ぶという感じです。ですから、過去に戻っても自分が二人存在する事はありませんし、パラドックスが生じる事もありません。時空間の流れを変える事は出来ませんから、歴史も変化しません」

「そうなの。もし戻れるなら、私はあの時かな」

「いつですか?」

「25歳の時に、今のダンナともう一人から、同時にプロポーズされたのよ」

「それを後悔しているのですか?」

「別にダンナと結婚した事を後悔してはいないわ。まぁ、違う人生があったかも知れないとは思うけどね」

 田尻玲子は、心地よい女店員の話に合わせている。

「未来を覗くっていうのもいいわね」

「未来か過去かと申し上げておいてなんですが、未来はお勧めしません」

「どうして?」

「簡単に言うと、コスパが悪いと言うか意味がないと言うか、そもそも未来の歴史を変える事が出来ないので、皆さんが考えるものとは根本的に違うのです」

「そうなんだ」

「はい。私共は、誠実をモットーとしておりますので、出来れば過去のリフレインをお薦め致します。歴史を変える事は出来ませんけど」

「何だか言っている意味が良くわからないわね。でもいいわ、未来には大して興味はないから」

 未来に翔んだからと言って歴史を変える事が出来ないのならば、必然的に未来を知る事に意味はない事になる。

「これからのダンナと二人の老後を見ても仕方ないし、どうせ選ぶんだったら断然過去よね。今58歳だから、もし40年前に行けるなら18歳の高校生に戻るって事よね。もしそれが可能なら夢みたいだわ。私の残寿命ってどれくらいあるのかしら?」

「残りの寿命を今お教えする事は出来ませんが、40年前に翔ぶ事は可能です」

「18歳の女子高生かぁ。本当にその頃に戻れるなら凄いわよね」

 田尻玲子は想像した。これから先の未来という老後をダンナと一緒に暮らし、40年以内か或いはそれ以上のいつの日かダンナが死んで、そして自分も死んでいくのだろう。それが自分の未来だ。例えば、その予想に少しばかり違う未来の要素が加わったとしても、そう大した変化はない。

 それに比べて、仮に40年前に戻る事ができるなら、リフレインが出来たならどんな事が起こるのだろうか。歴史を変える事は出来ないらしいが、考えただけで不思議な感覚が湧き上がってくる。

 田尻玲子は決して積極的な性格ではない、慎重、或いは深謀遠慮、堅実と言えば聞こえは良いが、全てにおいて目立たない。他人の噂話の対象になった覚えもない。異性に関して言うなら、要は奥手なだけだ。そのせいで随分と損をしたような気がする。もっと積極的だったなら、今とは違う人生がきっとあった筈なのだ。きっとそうに違いない。

 そんな事を考えながら、田尻玲子は真剣にそんな夢のような作り話に乗って想像している自分に吹き出しそうになった。そんな事など現実にはありはしないのに。

「お客様、如何致しますか?」

「もし出来るなら、過去でお願いするわ」

「では、40年前の過去という事で確定致します。宜しいですか?」

「それはいいのだけれど、さっき有料って言わなかったかしら?」

「はい、有料です」

「幾らなの、今お金を払うの?」

「いえ、お代は後払いとなっておりますし、金銭を頂戴する事もありません」

「じゃぁ何を・」

 女店員は、田尻玲子の疑問を遮るように話を進める。

「但し、三つの注意点があります。まず一つ目に申し上げておきますが、現在持っている記憶や知識などはそのまま継続されます」

「じゃぁ、姿は40年前の18歳、頭は58歳って事?」

「はい、全ては40年前に戻ります。戻らないのはお客様の意識、記憶のみでございます」

 理想的だ。妄想するだけでワクワクする。

「二つ目に申し上げるのは、原則として歴史を変える事は出来ません。勿論、今の記憶はそのままなので過程としての出来事を変化させる事は可能ですが、結果が変わる事はありません」

 田尻玲子は再び話に前のめりになっている。話の設定がかなり細かく中々の面白さがある。何度も練り直したものなのだろう。

「三つ目は、これは夢ではなく時空間を遡るという現実ですので、怪我をする事もあります。十分にお気を付けください」

「それで、過去に戻れる代金は何で払うの?」

 女店員は口籠った。

「さっき妖怪って言ったわよね。という事は、このお話は「最後に魂を取られて後悔して終わり」ってオチかしら?」

 田尻玲子のネタバレの推測に女店員はちょっと不機嫌な口調で言い返した。

「いえ、そんな安っぽいクソつまらない安直なオチは存在しません。それに魂なんていただいても、私共にメリットはありません。そもそも、後悔するかしないかはお客様次第です」

「なる程。それは、そうよね」


 喫茶店で過去に遡るという設定は、何かどこかで聞いた事のある映画か小説のような話で、かなりチープな素人芝居だ。それをいい歳をした大人が二人で演じている。一応、相手は人間ではなく妖怪という設定なのだが。

「それでは、早速ご出発くださいませ」女店員は急かすように言った。話の流れが結構速い。相手のペースに嵌ったのか、田尻玲子は何だか本当に何かが起こる気がしている。それだけ女店員の芝居が上手いという事なのか。

「ではお客様、行ってらっしゃいませ」

 女店員が声高に言うと、辺りが暗くなった。芸が細かい。薄暗い店内の灯りが全て消え、顔が判別出来ない。きっと、これで芝居は終わりとなるだろう。灯りが点いて終演。「お芝居にお付き合い有難うございます」と言われるのだ。

 どう予想しても、それ以上にこのストーリーを続けようがない。そう思った瞬間、急激に睡魔に襲われた。意識が朦朧とし、目を閉じた。


◇ 

 辺りが明るくなり、同時に何だか懐かしい雑踏が耳に飛び込んで来た。小雨が降っている。見たような街並みと沢山の人の波。電柱に映画の広告や立て看板が見える。


「玲子、玲子ってば」

 名前を呼ぶ声がした。

「やだぁ。玲子ってばぁ、何をぼぅっとしてるのよ?」

「そうだよ」

 女子高生二人が親しげに田尻玲子に話し掛けて来る。二人とも見覚えのある顔だ。夏のセーラー服を着て学生カバンを持ち、池袋駅東口の三越の前を女子高生が歩いている。ショーウィンドウのガラスには、三人の女子高生の姿が映っている。

 女子高生の内の一人は今でも付き合いのある舞岡美加子、二人目は澤口圭子だ。そして三人目は田尻玲子自身、旧姓田村玲子。58歳のコスプレではない、正真正銘ピチピチの女子高生だ。自分自身で言うのも何だけれど、中々に可愛い。

 学校は東池袋にある私立池袋商業高校、三年C組で出席番号は確か13番だったと思う。このシチュエーションは学校帰りか、三人で意味もなく学校帰りにあちこちふらふらと遊びに行った記憶がある。制服が夏服だから、季節は夏真っ盛りの7月といったところか。


 それにしてもこれはどういう事だろう、本当にタイムスリップしたとでも言うのだろうか?三越池袋店は2009年、平成21年5月6日に惜しまれつつ閉店し、その跡地はヤマダ電機の旗艦店になった。三越が51年の歴史に幕を閉じて池袋から消えるのは当時かなりの衝撃があったのを覚えている。その三越池袋店が駅東口に堂々と威厳を見せているのは、どうにも不思議な感覚になる。


「今年って西暦何年?」

 田村玲子は二人に訊いた。

「何言ってんの、1980年じゃない」

「そうよ。いくらウチ等がバカでも、それくらいわかるじゃん」

「そうだよ」

 二人の笑いが止まらない、箸が転がっだけで笑える年頃だ。

 1980年は昭和55年。あのバブル景気が始まる6、7年程前。何よりも有名なのは、その年の12月にジョン・レノンが暗殺される事になるのだ。

 俄かには信じられないが、やはりタイムスリップしたのだろうか。そんな都市伝説のような事があるのだろうか。いやあり得ない、ではこれは夢なのか。そうだ、きっと現実のようなリアルな明晰夢に違いない。いやいや、そうだと言い切れる確証もない……。まぁ何であれ、取りあえずこの状況に身を任せる以外に方法はない。


「これからどうする?」

「ディスコ行こうよ」

「こんな時間にやってる訳ないじゃん」

「じゃあさ、代々木公園の竹の子族見に行こうよ」

「あ、それいい、行こうよ」

「竹の子族?」

「カッコいい男の子がいっぱいいるらしいよ」

「あの沖田浩之って竹の子族だったんでしょ?」

「竹の子族って……」

「え、やだ、玲子知らないの?」

「うそ、遅れてるぅ」

 竹の子族を知らない訳ではないが、随分昔の話なので虚覚えだ。原宿の代々木公園が歩行者天国で、そこに独特の衣装で踊る男女グループがいた。興味半分で見に行った事があった。

 やはりここは昭和55年なのか。そう思って見ると、池袋駅前の街並みも歩く女性の髪型や化粧、道路を走る自動車も一昔、いや二昔以上前の感じがする。何よりも、コンビニらしきものが一軒も見当たらない。確か、大学の流通経済論の講義で聞いたセブンイレブンの国内店舗がやっと1000店になったのが、1980年だったというのを覚えている。

 池袋駅で切符を買った。suicaになり切符を買わなくなって久しい、改札で切符を切る音が耳に懐かしく響く。レトロ感満載だ。


 山の手線に乗って原宿駅で降り、代々木公園に着いた。人影は疎らだ。

「あれ?竹の子族いないよ」

「変だね」

 二人の女子高生が首を傾げる。

「あれはさ、ホコ天でなけりゃいないんじゃない?ホコ天は日曜日限定だったと思うよ」 

「ホコ天って何?」

「歩行者天国の事だよ」

「変な呼び方ぁ」

「やってないのかぁ」

 舞岡美加子が膨れ面で言った。女子高生の仏頂面は可愛い。

「じゃあさ、銀座のマクドナルドに行こうよ」

「それがいい、行こう行こう」

「銀座まで行く?」

 マクドナルド1号店は、昭和47年銀座に開店した。それから8年後のこの年の原宿にマックがあるのかどうかはわからないが、探せばきっと渋谷辺りにはありそうだが。

「渋谷なら……」

「行こう、行こう」

「銀座に行こう」

 軽いノリで銀座行きが決定した。という事は、原宿から高々マックの為に銀座まで行く事になるのか、田村玲子は嘆息した。令和の時代では考えも付かない事だ。仕方なく田村玲子は二人の後に付いて銀座に行った。四丁目交差点、三越の一階にある外売りマックに行列が見える。


「あっそうだ」と田村玲子はその事件を思い出した。そうだ、そうなのだ。三人で銀座に行ったその時、この交差点で駆け出した澤口圭子が車に接触しそうになったのだ。車は街灯に激突して大破、数人が巻き添えになるとんでもない大事件だった。

 澤口圭子は先頭を歩いている。田村玲子は並んで歩く舞岡美加子に耳打ちした。

「美加、圭子が走り出したら止めて。車が走って来て轢かれそうになるから。その車、街灯にぶつかって怪我人が出る」

「?」

 いきなり「私が一番」と言いながら急に駆け出したそのタイミングで、澤口圭子の右手を田村玲子と舞岡美加子が引っ張った。

 同時に、世の中がひっくり返りそうな程の大音量のクラクションが鳴り、交差点を信号無視の小型トラックが猛スピードでその横を掠めて走り、街灯に激突した。耳をつんざく轟音に、腰を抜かして泣き出した澤口圭子を宥める舞岡美加子が、感嘆した顔で田村玲子に訊いた。

「玲子、凄い。何でわかったの?」

「何となく」

 田村玲子は「未来を知っているから」とは言えず、不思議そうな顔で見つめる舞岡美加子に気づかないフリをするしかない。


 落ち着いた澤口圭子と二人の女子高生が、銀座の街を歩きながらハンバーガーを頬張っている。

 1980年の銀座四丁目の交差点にはブランドビルはまだ存在していない。三越と松屋デパートと和光の時計塔が存在感を示し、三愛ビルのRICOHの看板が目に止まる。平日の午後なのに大勢の着飾った中年女性達が楽しそうに行き交い、日本語ではない言語が喧しく乱雑に飛び交う事はない。

 ハンバーガーなど随分暫く食べていない。昔は、オモチャ目当ての二人の子供を連れて、家族で良く行ったものだ。

「本当は、照り焼きバーガーにチキンナゲットとアイスティーがいいんだけど、まだ発売されていないんだよね」

「テリヤキ?」

「チキンナ.・ゲ?」

 仕方がなく、二人と同じモノにした。

「ハンバーガー美味しいね」

「マックシェイクも」

 マックシェイクのバナナがちょっとしたブームになるのは、もう少し後だったか。本物のバナナよりもバナナっぽくて、当時としては結構話題になった。値段はうろ覚えだが200円ぐらいだったか、当然の事ながらチキンマックナゲットはまだない。

 ハンバーガーの味が40年後と大きな差はない事に驚いた。流石は世界的チェーン店だけの事はある。マックシェイクは、個人的にはお世辞にも美味しいとは言い難い。何と言っても、中のアイスが吸えないのだ。本来ハンバーガーと一緒に飲みたい水物なのに極端な吸引力を必要とする。懐かしいと言えば相当に懐かしいのだが、純粋にドリンクがほしい。未来人となった田村玲子のぼやきが止まらない。


 40年前ヘのタイムスリップらしき状況は、幾つかの整合が必要だったものの特に大きな問題なく適合出来た。尤も、他人になった訳ではなく、単に忘却のベールが掛かっただけで、自身の過去の経験と記憶を手繰り寄せるのだから、適合は当然と言えば当然だった。

 それに、何よりも心躍るのは姿が58歳ではなく18歳の自分という存在だ。意味もなく只管嬉しくなる。しかも、頭の中は人生経験を極めた大人の58歳のまま。知識も記憶も、今この世界に生きている誰よりも長い歴史を詰め込んでいるという夢のような状況だ。

 それが何を意味するか。即ち、田村玲子は『未来を知っている超能力スーパー女子高生になった』という事だ。込み上げて来る下心に笑いが止まらない。

 未来を知っているからと言って、その替わりに何かを失っている訳ではない。単純に過去に遡っただけで、自身にマイナスなど何もないのだ。ワクワク感が膨れ上がり、世の中の全てがキラキラと輝いている。そこから田村玲子としての二度目の人生がスタートするのだ。

「これは、やっぱり夢なの?」

 いや、この現実感が夢であろう筈はない。そしてそれは、田村玲子の二度目の人生に途轍もなく素晴らしい状況を齎してくれるだろう事を意味している。


 昭和55年……さてと、この年に何があっただろうと考えた。輝く新たな人生の為に、自身の力を総動員して記憶を辿った。持ち得る記憶が限りなく莫大な資産を生む可能性があるのだ。

 次の瞬間、田村玲子は思わず「あ、あれ、あれれ?」とすぼんだ声を出した。何も思い出せない。

 街には証券会社の株価を示すボードがあちこちにあり、赤や緑の豆灯が点滅している。昭和55年に日経平均株価は上がったのだったか……わからない。

 電気屋のデモ用TVからアナウンサーらしき男が興奮気味に言う。

「来週はいよいよ宝塚記念です。テルテンリュウ、カネミカサどちらか制するか、楽しみですね」

 競馬などさっぱりわからない。スマホさえあればウィキペディアで検索出来るのに。もう少し新聞を読んでおけば良かった。

 街には松田聖子の甘ったるい声が流れている。これはわかる、渚のバルコニーも青い珊瑚礁も裸足の季節も。赤いスイートピーは特に好きだった。

「この松田聖子ってね、凄く有名になるんだよ」

「何言ってんの、あんなぶってるなんか嫌よ」

「ぶってる?」

「そうよ、あんなカワイコぶってる娘なんて、大嫌いだわ」

 なる程。『ぶりっ子』なる言葉は、確か松田聖子がもう少し後に言われてから、一般的になったような気がする。

「やっぱりトシちゃんよね」

「そりゃそうよ。でも私はマッチかな」

 そう言えば、この頃たのきんトリオの一人でローラースケートを履いて歌う田原俊彦が異常な人気を博していたのを思い出した。あぁ駄目だ、他には何も出て来ない。過去、いや未来を知っている筈の神の如き知識が、役に立つ知識が……何一つとしてない。田村玲子の大いなる後悔が止まらない。


「じゃあ、また明日ね」

「まったねぇ」

「バァッハハーイ」

 家に帰ると、母が待っていた。当然なのだが若い。思わずじっと見つめると、母は怪訝な顔をした。酔っ払って帰ってきた父の顔もじっくり見た、やはり若かった。

「母さん、玲子どうしたんだ?」

「さあ?」

 夜、突然に舞岡美加子から電話があった。

「玲子、美加ちゃんから電話、何か変よ」

「もしもし」

「玲子?大変、大変なの……お祖母ちゃんが……お祖母ちゃんが……」

 何やら取り乱した舞岡美加子からの電話。田村玲子は咄嗟に思い出した。そうだ、そんな事があった。確か85歳のお祖母ちゃんが急に倒れて、意識不明になったんじゃなかったか。そうだ、思い出した。

「美加、良く聞いて。お祖母ちゃんは明日の朝には意識が戻って元気になる、心配だろうけど大丈夫だから」

 そう言って電話を切った。昔、舞岡美加子から同じ電話があった。翌朝にはお祖母ちゃんは意識を取り戻し、105歳まで元気だった筈だ。

 それにしても、黒電話は懐かしい。受話器ってこんなに重かったかなと思いながらじっと見ていると、母がまた訝しげな顔をして言った。

「玲子、アンタ何だか変よ。玲子じゃないみたい」

 田尻玲子58歳、でも今は田村玲子18歳。母親の洞察力とは何とも鋭いものだと改めて感心した。

 

 翌日、クラスでは大変な騒ぎが起こっていた。

「そうなの、玲子が言った通りになったのよ」

「その前も銀座で予言が当たったのよ」

 舞岡美加子と澤口圭子の二人によって、田村玲子は「大予言者」に仕立て上げられている。折しも前年に発刊された「ノストラダムスの大予言2」が日本中に一大予言ブームを巻き起こし、誰もが未来予言を本気で信じていた。

 その日の内に噂は広まり、学校中が予言者田村玲子に注目した。他人に注目される経験など初めてだ。

 それも思い出した。確かにその昔に予言者ゴッコが流行り、田村玲子はその落ち着いた見た目から予言者役を演じた事があった。その時はカッコだけで何かを喋った記憶はない。

 放課後、教室に集められた大勢の生徒達の前で大予言大会が開かれた。神妙に腕を組む田村玲子に、澤口圭子が言った。

「玲子先生、予言をお願いします」

 田村玲子は、固唾を呑んで聞く生徒達に向かって、厳かに予言を語った。

「近々大変な事件が起こります。導く者の中にとぐろを巻く邪悪な想念が白日の下に晒され、そして邪念とともに嵐は去るでしょう」

 数日後、教師の一人が小学生に猥褻行為をし巡回中の警察官に逮捕される事件が発生し、新聞沙汰になった。

「また当たった」と女生徒達は一様に驚嘆し、予言者田村玲子に羨望の眼差しを投げた。田村玲子の予言のタネは簡単だ、この事件は40年前に既に起こっていたから、当たるのは当然なのだ。

 田村玲子は生まれてこの方他人から脚光を浴びたという経験が思い当たらない。このリフレインでは多少立ち位置が違うようだ。芸能人気取りでちょっと舞い上がりそうになる。この程度にして自制しよう、こんな事で想定外の事象でも起きたら、タイムスリップした意味がない。

「あれ、タイムスリップした……んだったっけ?」

 意識の中で、このリフレインがタイムスリップなのかどうか、確信が持てなくなっている。本当にこれは過去へ時を遡ったのか、或いは夢の中で脳が見せている幻なのか、夢にしては随分長い間続いている。

 既に虚覚えな喫茶店にいた誰かの時を遡る話は本当だったのか、誰が言った?女、男、あれ、覚い出せない。

 田村玲子は、そもそも今の状況が何だったのか、日を追うごとにわからなくなっている。とは言え、それ自体に不都合がある訳ではないから、この事象全てを現実と認識するのに何ら問題も躊躇いもない。いや、あれこれ悩むよりもこれ等全てを現実と認識する方がすっきりする。これが現実であろうとなかろうと、どちらでも良い事のような気がする。


 もう一つ思い出した事がある。この予言者ゴッコの日だったと思う。生まれて始めて、思いを寄せる先輩にラブレターを書いた事があった。バスケ部の先輩だった。凄い人気があったのだけを覚えている。顔は……忘れた。

 それは舞岡美加子と澤口圭子の二人にけしかけられたのだったと思う。ラブレターを出した事自体、若気の至り、気の迷い、忘れたい黒歴史としか言いようがない。しかも、場所と日時を指定した本人が余りの恥ずかしさにその場所に行かなかったいうオマケ付きの経験だ。あの時あの場所ヘ行っていたら、違う何かが起こっていただろうか。

 ふと、その過去を変えてみたくなった。いつかどこかで若い女に「結果を変える事は出来ません」と言われたような気がする。だから、今更何をどうしようと結果的に何も変わらないのかも知れない。それでも自身がその場所に行くとなれば、それは既に変えた事になる。これらが変えられない結果ではなく、変えられる過程なのだとしたら、きっと違う結果がある筈だ。仮にその場所で仮にフラれるような事になったとしても、それはそれで興味深いではないか。このシチュエーションとちょっとした緊張感は、58歳にとっては堪らなく懐かしく、表現しようのない不思議な感覚が溢れ出て来る。

 田村玲子は遠い記憶を絞り出した。確か指定した日時と場所は今日4時に体育館裏だった、今は3時55分。田村玲子は、ゆっくりと当時を振り返るようにその場所ヘと向かった。

 約束の場所に着いたのは3時58分、誰もいない。おっと、これはフラれるパターンか。そう思った時、緊張気味に男子生徒がひょっこりと顔を出した。

「遅刻しちゃった、ゴメンね。待った?」

 時間は4時00分、遅刻はしていない。

「いえ、今来たところです」

 上出来だ、うぶな18歳の乙女を完璧に演じている。田村玲子18歳、本当は58歳。

「あれ?」と田村玲子は不思議に感じた。18歳の男子とは、こんなにも初々ういういしい存在、いや脆くひ弱で頼りないものだったか。まるで近所の幼い子供か、はたまた動物園の小動物にしか見えない。当時は2つ上の先輩がちょっと大人に見えて憧れの存在だったのに。

「玲子ちゃん、手紙ありがとね。ボクを好きになるなんていい趣味してるよ」

 違和感が身体中を駆け巡る。田村玲子は目の前の小動物を見つめたままだ。

「キミってさ、中々可愛い顔してるからボクの彼女にしてあげるよ、但し他にも12人彼女がいるから嫉妬しないでね」

 田村玲子18歳、本当は58歳は、少年の話の浅薄せんぱくさに呆然として言葉を失いつつ、改めて目の前の生物を凝視した。

「どうしたの、あんまり嬉し過ぎて喋れなくなったのかな、それともボクのカッコ良さに見惚れているのかな?可愛いね」

 違和感は洪水のように押し寄せた。何だ、コイツのチャラさは。言っている内容の薄っぺらさに呆れるどころか腹が立ってくる。まぁ、確かにこういう勘違いバカは、どこにも必ず一人はいるものなのだが。

 チャラ男は田村玲子の肩に腕を回し、顔を近付けた。慣れた手付きに更に腹が立つ。田村玲子は当然のようにチャラ男の中指を掴んで思い切り逆側に捻った。中指が鈍い音をともなって見た事もない方向へ曲がると、チャラ男の悲鳴が校舎裏に響いた。

 一つだけ、わかった事がある。田村玲子があの頃好きだったのは、チャラ男ではなく、チャラ男を好きだった田村玲子自身なのだ。

 暫しの小芝居劇に飽きた田村玲子は、全てを納得して意気揚々と満足げに引き揚げた。ワクワクはしたがドキドキはしなかった、きっとそういうものなのだ。そもそも、58歳が18歳にドキドキする事はない、それが出来るのは変態だけだ。


 かつて経験したのとは少し違う楽しい二度目の高校生活は、あっと言う間に過ぎていった。途中、告白されるという過去には体験しなかった出来事もあったし、高校を卒業して合格した短大が以前とは違っていたりはしたが、そんな事は既に記憶の彼方にいる誰かが言っていた「過程の中での変化」であって、田村玲子の人生が大きく変わる事はなかった。


 大学生になっても人生のリフレインは変わらずに続き、その状況を現実であると認識するのに何ら不都合はなかった。

 最近では、以前のような未来の歴史を知っているという後ろめたさは微塵もなく、既に経験した事はデジャヴなのだと思うようになった。歴史を知っているとは言っても自身の事が殆どで、しかも忘れてしまっている事の方が圧倒的に多い。覚えている事は何となく知っているくらいに考えて、日々を上手く乗り切る糧にした。


 社会人になって数年すると、予定通りに世の中はバブル景気に突入し、誰も彼も何もかもが好景気に狂乱した。

 その状況の中で、田村玲子が就職する会社は決まっていた。大きな会社ではなかったが、そこである男性に出会って結婚する事になっているのだ。入社後、社内会議に出席した田村玲子は緊張した。何故なら、その会議で初めて将来夫となる男性に会う事になるのだ。かなり大きな円形のテーブルに数十人もの若い男女が座る。壁には「若手による業務環境向上委員会」なるボードが貼ってある。その会議の場に、田尻聡太というネームプレートを付けたその男性はいた。

 会議が終了すると、田尻聡太は不思議そうな顔で田村玲子に言った。

「田村さん、初めて会った気がしないのは何故かな?」

「当然ですよ、未来は変えられないんだから」

「?」


 社内結婚をして、田村玲子は田尻玲子になった。ごく普通の家庭を築き、二人の子供が生まれた。その後も人生のリフレイン、いやデジャヴが終わる事はなかった。

 必死に子育てする間に、そんな事を考えている余裕はない。それがタイムスリップした長い夢なのか現実なのか、と思い悩む事もない。今でも「昔、同じ事をした気がする」と思う事もあるが、そんなものはデジャヴでさえなく単なる気のせいでしかない。

 二人の子供は有り難い事に元気ですくすくと育ち、大学を卒業し、社会人となって結婚した。孫の顔はまだ見ていない。そうこうしている内に、夫はそこそこ出世し、定年を迎えた。

 田尻玲子58歳、今は夫と二人で老後をどうするかを話したりしている。


 ある日、田尻玲子は行き帰りの途中、古びた小さな看板を見つけた。

「あれ?」

 ふと、遠い昔にこんな日があったような気がする。いや、いつものデジャヴか気のせいに違いない。腐り掛けた木製の看板には「喫茶タイムトラベル」の文字と矢印が描かれている。ネーミングに時代を感じる。

 矢印は路地裏を示していた。入るつもりなど更々なかった。どんなものかと興味本位で店の前まで行って「あぁやっぱりね」とそんな風に納得したかっただけだった。 

 看板から察するに、きっと古臭いカビの生えた遊園地のお化け屋敷のように入るにも勇気を要する、そんな店に違いなかった。 

 女は古い飲食店の類が極端に苦手だ。趣があると言えば聞こえは良いが、そこにあるのは大抵カビ臭く汚れた雑多な薄暗い空間だ。短時間であってもそんな空間に身を置く事で体調が見る間に崩れていった経験が何度かあったせいで、そういう場所に著しい苦手意識がある。

 何故そんな汚ない古びた、趣のある店に入ったのか、理由は本人にも良くわからない。初めて訪れるその店に何か忘れ物をした気がしたのだが、それが何だったのか思い出せない。

 古びたビルのカビ臭い匂いが極端に苦手で、年季の入ったそのビルの1階にあるその喫茶店に入る気はなかった。だが、何故か躊躇する事もなく扉を開けた店内には珈琲の香りと優しい薔薇の香りがした。いつもの気のせいではない懐かしささえ感じる。

 その時、足腰に鈍痛が走った。膝の辺りにも纏い付くような痛みがあり、やっとの事でソファに座った。どうしたのだろうか、打撲?全く思い当たる節はない。

「いらっしゃいませ」

「あっ、えっとあのね、昆布茶ないかしら。ないわよね、ここは喫茶店だものね」

「かしこまりました、ご用意致します」

 暫くして、若い女店員が湯気の立つ昆布茶を運んで来た。独特の芳ばしい匂いがその場を癒しの空間に包み込む。待たせる事もなく、丁度良いタイミングで出てくる昆布茶。

 中々いい味を出しているし、カビの臭いどころか心地よい香りが頬を撫でる。至るところに植物が置いてある。無造作に観葉植物をそこら中に置いて、結局ジャングルになってしまっているようなセンスのない喫茶店とは違う。

 そして、何よりも店員の若い女店員が可愛い。顔が小さく全体的に華奢な感じで、何となく芸能人かモデルのようなオーラがある。それ等全てがかつてどこかで経験した光景のように安穏として心地良い。

「当店の昆布茶は如何でございますか?」

「凄く美味しいですよ。ところで、このお店はいつ頃からやっているのかしら?私はこの街に引っ越してから30年、あれ何年だっけ?まぁいいわ。結構長いのだけれど、全然気づかなかったわ」

「当店は、開店してかれこれ340年程経ちます」

 若い女店員は真顔で微笑んだ。彼女流のジョークなのだろう、悪びれない笑顔が可愛い。

「面白い冗談ね」

「いえ、本当なんですよ」 

 女店員がさらりと返す。

「ていう事は、アナタは320歳くらいかしら?」

「はい、お陰様で先程390歳になりました。500歳で一人前なので、まだまだです」

「へぇそうなんですか、じゃあ私より年上ね」

「そうなりますね」

 内容は無茶苦茶だが他愛のない遣り取り、そしていつだったか思い出せない記憶の深淵に佇むどこかでしたような会話に心が和む。

「私以前にここに来た事があるし、アナタに会った事もある、それに同じ会話をした気がするのだけれど……」

 女店員は答える事もなく、唯満面の笑顔を見せている。

「これも気のせいかしら……」

 一頻り昆布茶を堪能した田尻玲子は、急に思い出した。そうだ、家に帰らねばならない。

「そろそろおいとましますわ。お代は?」

「お約束通りに、先程頂戴しました」

「あら、そうだったかしら。急に物忘れがひどくなっちゃったわ」

 街には小雨が降り始めている。田尻玲子98歳は屈めた腰を擦りながら、雨の中を帰って行った。


 過去は現実に繋がり、現実は未来へと続いていく。現実は過去がつくり出したものであり、未来は現実がつくり出している。

 今は寿命ポイント取得を達成するしかない時乃輪には、寿命という対価を得て客を希望する時空へと翔ばす事にどれ程の意味があるのか良くわからない。おそらくは、その意味を理解出来る妖怪レベルに到達していないからなのだろう。目標を達成した暁にはきっと見えないその意味が見えて来るに違いない。


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