まりちゃんの残り香 2
「人でなしどもめ。
注射器の代わりにビームサーベルをくれ」
僕はマスク越しにつぶやくと、恐る恐る段ボール箱に近づいた。
愛媛みかんの段ボール箱が、なぜか真っ赤なガムテープで封印されていた。
慎重にガムテープを剥がし、そろそろとふたを開ける。
聞こえるのは自分の息使いと、もしかしたら心臓の動悸だけ。
箱の底には、思いの外小さな縞模様をした毛の固まりがうずくまっていた。
毛の塊はやけに目の大きなネットに収まっていた。
大腿に慎重に狙いを定め針先を近付けて刹那。
薬液注入の馴染みの手応えと同時に、ネットの中ではまりちゃんが逆立ちをした。
そのときの一瞬、僕は目をつぶっていたんだと思う。
「ばっ」という音がして、エプロンの表面に緑黄色の液体がかかるまで、一秒の半分も無かったような気がする。
「あれ、何だろ、これ」
頭の中で考えるか考えないかのほんのつかの間の後、記憶に空白が出来た。
ふと気が付くと僕は雑木林いた。
雑木林は運動場の前から緩やかな斜面となって広がるカシとクヌギの混合林だった。
ここまでダッシュしてきたのだろう。
僕は倒木にけつまずいて倒れ伏し、涙を流しながらぜいぜいと喘いでいたのだった。
一部始終を安全な犬舎の中から見物していたともさんとスキッパーだった。
ふたりはそのときの情景を、豊かな表現力で身振り手振りを交えて物語ってくれたものだ。
もちろん痙攣的な笑いで、ひきつけみたいな呼吸困難を起こしながら。
まりちゃんに注射を敢行した直後。
僕はやおら立ち上がるとなにやら大声で罰当たりな悪態を付いたそうな。
それからエプロンを引きちぎるようにかなぐり捨てたという。
続けて、外科帽、マスクをむしり取って運動場のドアを開け放ち、闇雲に走り出したらしい。
僕は走りながら上着とズボンを脱ぎ何かにけつまずいて倒れた。
そのときには、さすがのともさんとスキッパーも息をのんだとのこと。
スカンクが自衛の為に浴びせ掛けてくる生物化学兵器の臭気を説明するのは難しい。
言葉という上品過ぎる表現手段はあまりに役不足だからだ。
世界のどこかには、それを表現する的確な言語と構文が存在するのかもしれない。
少なくとも日本語程度の生温い言葉では、その実像の十分の一。
いや百分の一にだって迫ることは出来やしない。
まさに、言語を絶する。
筆舌に尽くし難い、臭気だった。
スカンクが発射した分泌液が身体に直接付いたわけではない。
網の目を通過して目減りした液体が、ゴム引きエプロンを汚染しただけだった。
だがしかし、石鹸一個まるまる使い切っても身体に染み付いた臭いは落ちなかった。
状況発生の後、二週間以上もの長きにわたり悪臭は残った。
あえて表現すればニンニクと長ネギと玉ねぎの混合物が、日向で腐ったような臭気だろうか。
そいつが全身に染みついたままだったのだ。
臭いの成分は皮革の油分に溶けやすいのか。
身体の悪臭が消えた後も、財布、バンド、革靴など、革製品を中心にして長期にわたり残留した。
ともさんは一時的に廃人同様になった僕を打ち捨てて手術に取り掛かった。
手際良くまりちゃんの臭線を摘出したものの、病院の中にももちろん悪臭は染みついた。
その後一ヶ月以上の間。
戸棚や冷蔵庫を開けるとプーンと残留臭気が漂ったものだ。
あまりに強烈な、それも嗅ぎなれない異臭のせいだろうか。
診療に訪れた飼い主さんには漏れなく臭いの理由を聞かれた。
ともさんはその度に僕が受けた災難をことのほか面白おかしく話して聞かせた。
ともさんはその度に、飼い主さんと一緒に大笑いしては悦に入るのだった。
お蔭様で、クールな加納先生がその後しばらく。
剽軽な道化者として皆さんから存分に笑っていただく役回りに堕ちた。
そのことは、改めて申し上げるまでもあるまい。
我々人間は嗅覚がさほど鋭敏ではないのだろう。
鼻がばかになるのか、時間が立てばスカンク臭にすら慣れてしまう。
不快ではあるものの一週間もすると、集中力が雲散して長文を読むなんて無理。
なんて状態では無くなった。
気の毒なのはスキッパーだった。
向こう数か月間は不機嫌が続いた。
スカンク臭は犬にとっても不快な物らしかった。
なまじ嗅覚が鋭敏なだけに、人間には想像も及ばない効果が続いたのかもしれない。
このひと騒動、結果としてともさんには高く付いた。
異臭は風に乗って病院周辺に漂い、結構広い範囲に拡散した。
交番からお巡りさんがやって来るし。
野次馬は集まるし。
病院の辺りはちょっとした騒ぎになったのだ。
ともさんが手術を終えるまでの間。
引き起こされた騒ぎを放置しておくわけにもいかなかった。
再起動した僕は恐らくは強烈な悪臭を放ちながらだったろう。
血走った目で集まった皆さんに頭を下げ続け、弁解を繰り返してひたすら場を繋いだ。
碇シンジはまだこの世に生まれていなかった。
だが僕の頭の中では『にげちゃだめだ!』。
そんなセリフのリフレインが木霊し続けていた。
翌日、僕は特別ボーナスを有難く頂戴した。
ともさんはと言えば、近所の和菓子屋で山ほどの菓子折を調達した。
ともさんはそれを手に、迷惑をお掛けしたご近所へのお詫び行脚に赴いたのであった。
柄にもなく儲け話に乗っかった挙句、可哀想な代診につらい思いをさせたのだ。
ともさんには罰が当たったんだと思う。
「だけどパイよ。
あれほど笑ったのは何年ぶりだったろう。
じつに愉快愉快」
色々諸々の収支を考えれば赤字だったろうに、ともさんは上機嫌だった。
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