とも動物病院の日常と加納円の非日常

岡田旬

プロローグ

 その犬は坂の上を目指していた。

 後ろから付き従うホモサピが愚図なせいで、首輪にかかるテンションが少々気になった。

だがその犬は、彼が若輩者であることは良く承知していた。

そこで、ここは大人の器量で大目にみてやることにしたのだった。

 季節は進んで春は北へと去りつつあり、初夏が南から近付きつつあった。

緑が濃くなり始めた台地の斜面を吹きあがって来る南風は、適度に湿っていて良い香りがした。

これを薫風と言うのだろうか。

まともな嗅覚を持たないホモサピは、風薫る五月などと言って嬉しそうにしている。

カニスからしてみればちゃんちゃら可笑しいにも程がある。

そうは言っても、この風が彼らの好きな薫風であるとしたら。

ホモサピが至らぬ生き物だとしても、それなりに的確な表現であることは認めてやらねばなるまい。

 「スキッパー。

もう少しゆっくり歩けない?」

リードを持たせているホモサピが泣きを入れて来た。

呼気にアセトアルデヒドが混入しているし、顔色だっていつも以上に冴えない。

こやつが昨晩、安酒を呑み過ぎたのは明らかだった。

元々運動能力も体力も、ホモサピの底辺を行く男であることは承知している。

とは言え、マスターが大切にしている御愛犬様の散歩も満足にできないとは、沙汰の限りだ。

俺はゆっくり振り返って侮蔑の眼差しを向け、不出来なホモサピのため歩速を落としてやった。

 抜ける様に青い皐月の空の下。


再び坂の上を振り仰ぐと、そこには白く輝く一朶の雲が流れていた。

 

 日本がまだ昭和の代紋を掲げて、世界を相手に肩で風を切って歩いていた時代。

 パソコンはDOSで動き、スマホは遥か未来のガジェットだった。

 令和の世などはるか遠く未来の話。

 平成ですら二つ目の角の向こう側で、静かに出番を待っている。

そんな時代だった。







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