第329話 乱舞1(マレーネサイド)

 何かが腹部をまさぐる感覚に意識を覚まさせられた。瞼を開けると九竜くりゅうが抱き着いていた。昨日の出来事が思い出される。苦い、苦い、苦い記憶と一緒に。


 見たかったのは、違う。お互いに顔を赤くしてちょっと気まずい空気の中で朝を迎えることになるんじゃないかと思っていた。その映像は木端微塵に吹き飛んだ。


 胸が、痛んだ。チクリなどではなく、ザックリと抉れて血がドバドバと溢れ出るような映像に恐怖を覚えた。自分がしでかしてしまった罪は絶対に自分を逃がしてくれないということらしい。


「わたし、どうしたら良かったの?」


 生き方、人生、生まれてしまったこと。


 もしも、間違えたとしたら、生まれてしまったことだと自嘲した。存在しなかった方が良かったのだと今日ほど思わずにいられない。


「ねぇ…」問いかけても答えてくれない。


 赤く腫れた目は一体どれだけの涙を流したのか分からない。分かりたくなかった。


 愛してくれると言ってくれた人にこんな顔をさせてしまったことを許せない。例え誰かが許しても、自分が許すことをできないだろう。


 なのに、諦めきれない。諦めたくはない。やっと手に入れた夢は、指先に届くところにまで来ている。


「…助けてよ」


 頬に触れると九竜くりゅうの瞼がピクリと動き、ムクリと起き上がった。布団がめくれて裸体が露になる。顔色は非常に悪くて死人と寝ていたのではと思ってしまうほどに酷い状態だった。


「…おはよう」


 自分でもぎこちない挨拶だ。引きつった顔をしているということは鏡を見なくても分かるほどに九竜の顔は直視することを躊躇ってしまうほど負の情に満ちていた。


 目を背けようとしたところで、九竜が肩に手を当てた。反応は間に合わずそのまま押し倒されて手を拘束される。普段なら特に力を入れずに振り払うことが出来るはずなのにビクともしない。何故と思ったところで理由は分からない。


「もっと遠くに行かないか?」


 あのとき、自分が口にした言葉と同じような意味合い。


 あのとき、答えてくれていたらこんな悲惨な運命を歩むことにならなかっただろうと思わずにいられない。小刻みに震える手は、ガチガチと音を鳴らす歯は綯い交ぜになった感情が数多と漏れ出ていて心底恐ろしかった。


 頭を横に振った。その答えは、もう手にすることは叶わない明日だ。もう指先がタッチすることさえ出来ない世界。


「いっそのことここで暮らさない?気持ちいいことしてれば最高だよ」


 そんなことを口にしたところで実際にはできない相談だ。現実的な話として、金は当然のように消えていくし、未成年がホテルに長いこと留まることなど出来ない話。そんな荒唐無稽なことを口に出していなければ昨日の記憶に呑まれてしまいそうだった。


 今度は九竜が頭を振るう。悲し気な目からは色が消えている。だが、瞳の奥には、少しだけ光があるように思えた。


「歩いていれば、忘れられる。もし、ここに閉じこもっていたら…」


 怖いのは、自分だけではないと分かって安心した。


 1人ではない。1人ではないのだと実感できて本当に通じ合えたような気がする。


 遅い。遅かった。何もかも。


「考えなきゃいいんだよ。そしたら2人で幸せになれるよ」


 茶番だ。どうしようもないぐらいにうすら寒さを覚える猿芝居。見てはいけないモノがそばにあるのに目にしてはいけないと分かっているように。


 本当は、理解している。あの恋焦がれていたあの日に帰ることは叶いはしないのだと。手に入りはしないと。その言葉に九竜くりゅうの瞳に光が宿った。奥に潜めた炎は再び燃ゆる。


 触れるのは、同じ想い。チリチリと散る火花の音が耳障り。


「…そうだな。幸せになれたかもしれないな」


 九竜は立ち上がるとシャツを着て、ズボンをはいた。勿論、マレーネは置き去りだ。部屋を出て行こうとしていることは誰の目から見ても明らかだ。


「わたし、どうすればよかった?どうしたら、君を怒らせなかったかな?」


 向けられた顔は、目は燃えていた。群青の炎が静かに、全てを焼き尽くしてしまうのではと戦慄するほどの勢い。


「お前は悪くなんてない」


 膝を折ると九竜は手を差し出す。


「帰ろう」


 その手を取ることを躊躇った。握ってしまえばこの関係は決定的に変わってしまうと分かっていたから。


 それでも、手を取った。


 死人のように冷たい、生気が感じられない手を。

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