第290話 蠱毒2(馬淵サイド)

「手狭でごめんなさいね」


 リビングに案内され、席の1つに腰かけた。テーブルの上には紅葉色もみじいろのカバーで覆った洋書。何と書かれているのか、何を書いた本なのか皆目見当もつかない。部屋は掃除したばかりなのか塵一つ見られず窓から差し込む柔和な太陽の光が平和な日常を象徴しているように感じられた。一軒家に訪れるのは初めてのため海の目には新鮮に映る。


「紅茶?コーヒー?ジュース?」


「紅茶でお願いします」


 海が答えると手慣れた手つきで九竜百葉くりゅうももははテキパキと2人分の紅茶と茶菓子のクッキーを用意したプレートをテーブルに置く。


「ありがとうございます」


 断りを入れてかいはカップを手に取って顔に近づける。柔らかな匂いが鼻腔をくすぐる。


「話に乗ってくれてありがとうね」


 柔らかな微笑を浮かべ、形のいい唇からハスキーボイスが零れる。


 凛とした顔立ちと一目で強い女性と分かる光を宿した黒い目。それから、テーブルの上に乗せられそうなほどに大きな胸。全てが整いながらも熱と冷徹さが同居した居住まいはまるで令嬢と相対している気分だ。自分とはまるで違う次元にいると考えるに十分すぎるほどの魅力がある。同じ女として、同じ人への想いを持つ者として及ぶのか不安になる。


 そもそもとして、自分は人なんて愛したことが無い。家族に愛されたことも、誰かと確かな繋がりを持ったことも。


 何よりも自分の内を巡る血は、人のものではない。


「そう構えなくていいのよ。肩に力、入りすぎてるわよ?」


 紅茶を口に含んだばかりであるのにあっという間に口内の水分が飛んだような感覚に襲われる。これまで遭遇した敵の誰よりも強い圧力に総身が苛まれる。


「いえ、わたしも一度お会いしたかったので」


 負けじとかいも余裕は失っていないと示すように微笑み、身を少しばかり乗り出して答える。


 探り合い。そんな言葉がピッタリなピリピリした空気が2人の間に展開されている。


「弟とは何処で知り合ったの?」


「高校です。同級生で…」


「そうなのね。あの子、ちゃんとやってる?」


「とても頭が良くて。わたし、色々助けてもらってます」


 脳裏を過る記憶は多くはない。だとしても、大切な人との思い出は、一つ残らず煌びやかで忘れられないもの。


 伏し目がちにチビチビ紅茶を飲みながら海は百葉ももはの出方を伺う。


「弟のことはどう思ってるの?」


 ついさっきまで侍同士が斬り合っていたのではないかと錯覚してしまいそうなほどに張り詰めていた空気を醸し出していた人物とは思えないほどに口調は穏やかだった。


「好きです。お姉さんに敵うかどうか分かりませんけど…」


 思いのたけを、短い言葉に込めて口にする。多くを口にしても自らの足を掬うことになるのは前回のことを通じて身をもって知った。


「あの子があんな風に色んな顔を見せたの久々だった気がするわ。貴女のお陰ね」


「いえ、わたしは何も…」


「誰にでも出来ることじゃないのよ。人を笑顔にするって」


 否定の言葉を紡ごうとしたところで百葉ももはは言葉を被せる。


「貴女も色々と抱えてると思うし、これから悩むこともたくさんあると思う。でも、最後まで弟のこと見捨てないであげて」


 請うような、祈るような声はかいの内に浸透してくる。自分にとって触れられたくないはずの場所にまで到達してカチャリと鍵が小さな音を立てて外れた。


「わたし…家族がいないんです。だから、誰かのこと愛せるのかって聞かれると正直…自信はありません。でも、彼のことを想う気持ちだけは誰にも負けてないつもりです」


 緊張で口の中はカラカラに乾いている。自分が訴えた言葉は果たして届くのか、届いたのか。答えが来るまで紅茶を飲むのも忘れた。


「尚のこと安心だわ」


 一瞬だけ、自分の耳が壊れたのではないかと錯覚した。望んだ以上の言葉はすんなりと受け入れるかと思いきや受け入れられなかった。言葉を受け入れられないでいた海の姿を目の当たりにして百葉ももははテーブルに乗せられていた手にを海の手を重ねた。


「痛みを知るのは同じ痛みを知っている人間だけなのよ。私もあの子の苦悩は理解しているつもり。でも、私はあの子とずっと一緒にいてあげることは出来ない。あの子にはあの子の人生がある。自分で選ぶ権利がある。だから、あの子が決めた貴女を信じる」


 切実な言葉は、グサリと胸を突き刺す。何よりも誰かに圧倒されたのは初めての経験だった。前回の仕事で殺した標的などよりも遥かに大きな存在として目の前に在る。


 自分の心臓がギュッと引き締まる感触に息が苦しくなる。コンコンとノックする人ならざる自分のイメージに頭がグワン、グワンと揺れてついさっきまで胸中を占めていた想いが、自信が削られていく。恐れは、口をついて出る。


「わたし、誰のことも愛したことないんです。それでも…」


「誰だって初めてのことはあるのよ。人のことを最初から好きになれる人間なんていない。ちょっとずつ互いのことを理解していけばいいの。1か10で語れるほど人を愛するって単純な話じゃないのよ」


 それでも、人間ではないという事実について何も考えていなかった、想ってさえいればと安直に考えていた海の自信を取り戻すには至らない。


「でも、1つだけ約束して欲しいことがあるわ」


 続けていた言葉を切り、最初に近い面持ちになる。否が応でも揺れていた気持ちが収まって顔が前に向く。


「ちゃんと理解しあって、2人で乗り越えて」


 釘を刺すために言ったであろう言葉は、失って久しかった自信をほんの一欠けらだけ取り戻させる。勿論、未だしこりは残っている。


 数えるほどしか一緒に過ごした時間はない。彼の見せた顔もずっと一緒にいた姉という存在に比べれば一握程度しか知らない。それでも、彼がずっと抱いていた傷、不器用な優しさ。ちゃんと言葉に出来るぐらいには見てきた。


「分かってます。わたしは、彼が優しい人だって知ってます。人が傷つくことを誰よりも嫌いな優しい人だって知っています。誰かの幸せを願える優しい人だって知っています。そんな彼だから、わたしは好きになりました。その思いを、裏切りません」


 息継ぎを忘れ、口にしながら考えるなどという経験は記憶を探しても思い出せないぐらいには覚えがない。それも人生で何度あるか分からない大きな舞台で大見得を切ることなど金輪際ないだろう。


「良かった」


 必死に言葉を探し、顔を紅潮させながら訴えた海の言葉に百葉ももはは立ち上がり、目礼した。お手本と思えるほどに綺麗な姿勢だった。


「弟をよろしくお願いします」


 お互いに思いの丈をぶつけ合いは優に30分を超えていた。

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