第12話 闇夜11(葵サイド)

 ドアをノックすると「どうぞ」とよく通る低い声が聞こえた。扉を開けると入れ違いで若いスーツ姿の男が部屋を辞した。


 緑茶を啜る音が聞こえた。呼び出した羽原出うはらいづるはどら焼きを食みながら机の上に置いてある履歴書に目を通している。


 部屋は窓際に艶のある黒い机と椅子、中央に黒革のソファと艶のあるテーブルが置いてある。壁には『初志貫徹』と書かれた額縁が飾られている。


「掛け給え」


 葵が部屋に入ったのを確認した羽原はソファに座るように勧める。


 羽原出うえはらいづる。白髪交じりの50代前半の男で鍛え上げられた体を灰色のスーツで包んでいる。今でこそ第二支部の戦闘部門の元締めを務める人物であるが、現役時代はやり手の吸血鬼殺しとして名を知られていた。過去の戦いで左腕を失って現在は引退している。


「呼び出された理由は分かっているか?」


 ソファに腰かけるとさっきまで読んでいた書類をテーブルに並べて本題に入る。


「例の提案とあの少年の件で間違いありませんよね?」


 羽原はハンカチで手を拭い少年のプロフィールを葵に手渡す。彼の事は羽原うはらはおろか甘楽かんらたちにも名前を含めた経歴は何も知らないという話は腹の中に仕舞ってある。


「推薦に反対するつもりはない。君の立ち位置を踏まえれば仕方ないからな。しかし、彼の経歴は想像以上だぞ?」


 受け取って確認すると羽原が言うように正常な人生を歩んではいなかった。


 九竜朱仁くりゅうあけひと。年齢は16で現在は高校生。生活態度は大人しく真面目だが、人付き合いは極端に悪いを通り越して最悪だ。


 家族は姉を除いていない。加えて友人らしい友人は影も形もない。小学校の卒業前まではまるで正反対で友人に囲まれている。


 読み込んでいくと卒業前に起きた事故のことが目に入る。


「この事故については?」


「ああ。それについてはこれだ」


 新たにファイルが追加され、受け取るやページを捲った。そこには6年前に起きた列車事故についての記録があった。


 事故の内容は車両同士の接触事故で死者は50人を超え、負傷者は300人を超えている。大規模な鉄道事故だったので葵にも覚えがあった。


「彼はこの事故の当事者だったようですね。しかも、前の車両で事故に遭遇して生還している」


「生きていたのは奇跡と言っても差し支えあるまい」


 事故の写真は非常に凄惨を極めていて九竜が乗っていた車両を含めた前方の車両は大きく破損している。この状況で生きていたのは、言葉通りに奇跡としか言いようがないだろう。


「しかし、奇跡と称しているのは外の人間だ。当事者からしてみれば、ただの地獄かもしれんな」


 先のことは言われずとも葵には理解できた。


 災害や戦争などに遭遇しながら生き残った人間が陥る罪の意識。自身が陥ったわけではなかったが、戦いに巻き込まれた人間が苦しむ様子を目にしてきた。


「かもしれないですね」


 多くの友人に囲まれながら生活をしていた彼が他人を寄せ付けない生活を送るようになったのはこれを踏まえれば少し得心がいく。それだけではない気がするも紙面からは確認できなかった。


「つらかろうな。この年で人生が暗転するのも」


「分かち合う相手がいるだけまだいい方でしょう。本当の地獄は、ずっと1人で抱えていくしかない人生だと私は思いますが」


 羽原は葵の言葉に何も返さなかった。


「ところで、改革案の件ですが…」


 途切れた会話の流れを戻すべく葵はもう1つの話題を投下する。羽原は茶封筒に入ったA4サイズの冊子をテーブルの上に置く。真理経由で渡したものだ。


「委員会はにべもなく蹴ったそうだよ」


 彼が指す存在は羽狩を総括する存在だ。


 13人で構成されるメンバーは学者、研究者、魔術師、錬金術師などによって形成されていて彼らの合議によって方針の大本が決まる。


 しかし、部屋に閉じこもってばかりで現場を知らない人間があたかも現場を知っているかのように振る舞う姿を葵は想像するだけで毎度の如く失笑している。


 こめかみを抑えながら羽原は溜息をついた。委員会の横暴ぶりに腹を立てているのは確実だが、表立って反論は出来ない。下手に楯突くような真似をすれば自分だけではなく葵たちを始めとする現場で動く者たち、職員の家族にも被害が及ぶことを理解している。人生の多くを現場で過ごしてきた羽原にとっては容認できない話だろう。


「蹴ったからには理由らしい理由はあるんですよね?」


「聞いた話によれば見もせずに握り潰したらしい」


 失望と同時にぶつけようのない怒りが零れたように見えた。同時に羽原はその隠蔽に加担していないことが理解できる。


「勝手にさせておきましょう」


「そういうわけにもいかん。君が言うように吸血鬼が大挙して攻めてくるのなら市勢の人々が巻き込まれる。それを止めることが我らの務めだ」


「現場を知らない奴らにどれだけ力説したところで時間の無駄です。そのような議論に時を費やすなら現存の兵力でやれることに知恵を絞るほうが余程有意義でしょう」


 羽原が持つ防人の矜持には葵も理解がある。同時に理想と現実が未だに溶けあわず、必要に迫られても冷徹になることが出来ないことには呆れている。


 それに現時点では何の証拠も掴めてはいないが、中央にはスパイか吸血鬼にシンパシーを感じている連中がいる。事実をはっきりさせようにも中央に入り込む余地がない以上は真偽も何も関係ない話だが。


「我らが待っていたところで吸血鬼は待ちません。今更彼らがどれほど恐ろしいかなど確認する必要はありませんよね?」


 視線を義手を付けた左腕に移す。


「分かっている。だが、彼らの権威は到底無視できんのだよ」


「彼ら自身が力を持っているわけではありません。あくまで借りているだけです」


 委員会が属していると言われる組織であり、羽狩の上層組織にあたる『アニマ』を探ろうとしたものは誰であっても行方知れずになっているという噂もある。それを知っているならば彼らの権威を恐れるのも無理からぬ話だろう。それに吸血鬼と接点を有しているという仮説が正しいのなら、犠牲なしに戦うことは不可能だ。どっちのルートを歩むことになっても血は流れる。


「吸血鬼の前に人間同士でやり合えと?」


「1つの可能性として覚えておいていただければ」


 慄く羽原に葵は淡々とした口調で自分の意思を伝える。そこまで話を聞いて羽原は残っていた茶を一気に飲んだ。


「その話は聞かなかったことにする」


 予想出来ていた羽原の返事を聞いて葵は立ち上がった。


「気が変わったら私はいつでも協力します」


 それだけを言い残して葵は部屋を後にした。

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