第44話 涙の理由
シオンが目覚めたのは、怪我を負ってから二日後の事だった。
その時には既に本邸にいて、側にはメリエルがいて看病してくれていた。
肩の痛みに襲われ、高熱にうなされる日々を過ごし、少しずつ回復し体を起こせるようになったのはそれから一週間程経った後だった。
リュシアンは毎日シオンの部屋の前まで来ていたが、まだ状態が良くないと聞くと無理に会おうとはしなかった。いや、出来なかった。守れず、怪我を負わせてしまった事に合わせる顔がないと思っていたからだ。
そうして一週間後、やっとリュシアンはシオンと対面する事となった。
部屋に入ると、ベッドの背もたれに体を預けて座っているシオンが目に入る。
顔色は芳しくなく、よく見ると医師が言ったようにシオンはかなり痩せているように見えた。こんな事にも気づかなかった自分が、情けなくて腹立たしい。
リュシアンを見るなり、シオンが開口一番言った。
「公爵様は、お怪我はありませんでしたか?」
「……っ!」
その問いかけには流石にリュシアンは面食らってしまう。
シオンの方が酷い怪我を負ったのに、何故自分の心配をするのかと、思わずシオンを凝視してしまう程に驚いたのだ。
ため息を吐くように深く呼吸をして、それから言い聞かすように
「私はなんともない」
と答えた。それを聞いたシオンは嬉しそうにふわりと笑って、
「良かったぁ」
と言ったのだ。何が良かったのか。まだ痛みが続く状態なのに、なぜ人の心配をするのか。リュシアンはシオンがどういうつもりなのか、全く分からなかった。
「私は怪我を負っても、たちまちに治る体質なのだ。心配は必要ない」
「そう、なんですね……」
気づかれてない。良かったと、シオンは安堵した。今回は目の前であの現象が起こったのだから、もしかして悟られたのではと内心ヒヤヒヤしていたのだ。
しかし本来あり得ない事が起こっているのだからバレようがないと、シオンの心は落ち着いたのだった。
「公爵様……この度は申し訳ございません」
「なぜ貴女が謝るんです?」
「わたくしの為に、皆の手を煩わせてしまっています。公爵様も何度もお見舞いに来てくれていたと聞きました。お忙しいのに……」
「貴女は謝る必要などありません。謝るべきは私の方です」
「なぜ公爵様が謝るんですか?」
「貴女は私の妻です。なのに守る事が出来なかった……」
「いいんです。気にしないでください」
「そんな訳には……」
「公爵様が無事なら、それでいいんです」
そう言って微笑むシオンが儚く見える。顔はフィグネリアに似ているが、醸し出す雰囲気はまるで違った。その微笑みは、儚くも慈愛に満ちているように見えてしまうのだ。
やはり自分は何も見えていなかったのかも知れない。そう思うと申し訳無さがリュシアンの胸に溢れてくる。
「聞きたい事があります」
「はい、なんでしょう?」
「もしかして……貴女は母親から、その……虐待、を、受けてきたのではありませんか……?」
「え……」
「貴女の体には古傷があると医師から聞きました。それは虐待の痕跡ではないのですか……?」
「それは……」
「言いづらい事だと分かっています。ですが私は貴女の事が知りたいのです」
「公爵様……」
シオンは嬉しかった。やっと自分を見てくれようとした。でもこれは虐待の痕ではない。これは……
「母に暴力は振るわれていません。これは……違うんです」
「では父親ですか? 貴女は悪女だと言う噂がありますが、それは本当なんですか? 教えてください、本当の事を。……貴女の事を」
不意にシオンの瞳からは涙が溢れ出てきた。
嬉しかった。リュシアンがはじめて自分と向き合おうとしてくれた。そう思うと涙がとめどなく溢れてくる。
突然泣き出したシオンに、リュシアンは酷く戸惑った。何か自分は気に触る事を言ってしまったのだろうか。悲しませるような事を言ったのだろうか。
考えても考えても、自分が何をしでかしたのか分からない。虐待の事を聞かれたくなかったのか。そう思うと、途端にまた申し訳無さがリュシアンの胸に押し寄せてくる。
「あ、その、すまない、わ、私が悪かった……!」
「いえ……そうではないんです……」
「だが……っ」
まだ泣き止まないシオンを慰めようと、リュシアンはシオンに近寄る。
小さい……
線が細く、とても小さくか弱く見える。
こんな人を今まで自分は嫌悪し酷い言葉で傷付けてきたのかと思うと、自分が悪人のようにも思えてくる。
俯くシオンの髪が、窓から入ってくる風にふわりとなびく。光に反射してキラキラ光る銀の髪が、こんな時なのにリュシアンは綺麗だと思った。
その髪に触れようと、そっと手を伸ばす。
もう少しでその髪に手が届く。
その時。
扉が大きな音をたててノックされた。
それに思わずビクッとして手を引っ込め、リュシアンはシオンから一歩遠ざかった。
やって来たのはジョエルだった。
リュシアンがいて、そしてシオンが泣いている状況を見て、ジョエルはキッとリュシアンを睨みつけた。
「お嬢様に何をしたんですか!?」
「……何もしてはいない」
「泣かしてるじゃないですか!」
「違うの、ジョエル……っ!」
「何が違うんです?! また酷い事を言ったんでしょう?!」
「何も言っては……」
いない、とは言えなかった。リュシアンも何故シオンが泣いているのか分からなかったのだ。
敵から守るように、ジョエルはシオンの前に立ちはだかる。
「もうお嬢様を傷付けるのはやめてください! 守る気がないのなら、せめて何もしないでください!」
「そうだな……」
ジョエルの言葉で傷付いたような顔をしたリュシアンは、申し訳無さそうにシオンに頭を下げた。そして部屋から出て行こうとしたが、不意に振り返りジョエルの目を見て
「お前は一つ間違っている。お嬢様ではない。これからは奥様と呼ぶべきだ」
そう告げて部屋から出て行ったのであった。
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