彝(い)

第一諦 (理の未遂不収)

 人は理を以て現實を觀じ、解する、と措定・仮置きされている。

 理は論を以て考概される。論は概念・言語を素材とする、と。

 素材の最小単位である素粒子は、ただ、そうであるからそうだとしか言えないもので、根拠の説明が不可能な、ドクサ・決めつけ・思い込みでしかない。

 理論的にはそういうことになる。だが、そういう展開自体に妥当性の証明がない。

 そもそも、妥当・正当・眞實という諸概念の妥当性・正当性・真実さも未証明で、突き詰めれば、妥当・正当・眞實が何であるかすらもわからない、

 理は躬ら破綻する。理を以て突き詰めれば、我らは無条件・無根拠な措定を礎としていることが露わになる。

 零から理で構築され、零から理で解せ、零から証せられるもの・ことはない。理がそのよう証する。

 理は根拠を晰らかにして証することを求め、拠って躬らを破壊する。

 眞究竟の眞實義を求め、未遂不収に陥る。だが、それはロゴスの戯れでしかない。


第二諦(超越のリアル)

 そのような不可能に陥る根本動機は、生命の持つ根源構造、超越に由来する。

 生命は、無限の超越であり、時間性の根源であり、常に自己を超越し、甦る。躬らを否定・破壊し、脱自して新たに生まれ変わり、進化する。

 自らの頭を踏んで跳躍し、天穹へと上昇する。

 理であるかのように觀ぜられ、構築される現實は、しかしながら、どこか虚しく、仮・架空としか觀ぜられず、リアルがなく、リアルを、刺激を、新鮮を、生々しさを、鮮烈を、ヴィヴィッドを欣求して、飛翔超越したくなる。

 我らにとって實存的に眞の現實は、壓倒的な切實・切迫・迫真を以て、我々に存在を顯示し、非情、かつ、憐憫のない、絶壁のような不動性を以て、他者として、客觀性として、力づくで我らを納得させている。

 理はない。


第三諦(眞の絶空)

 空は空を絶ち、絶空である。絶空は、空というかたちを遂げない。絶空という、かたちにも収まらない。そのような結論にすらも。

 これを非の原理という。非は非であるがゆえに、非に非ず。躬らの尾を噛む原蛇。原蛇は喰らうか喰らわれるか。答はない。

 何ものとも対立しない。どのような対立概念もない。そのような考概にすらも、収まらない。

 全肯定とも言えるし、全否定でもある。全網羅でもあり、又はありとしあらゆる何もかも一切それそのものである。

 ただし、それは全部を許し、全部を是認することではない。罪を赦さず、悪を憎み、理不尽を否定することでもある。

 なぜならば、全肯定とは「全肯定を否定する」ことも肯定する肯定であり、「一部分しか肯定せず、他を否定する」ことをも肯定する肯定であり、「全肯定、かつ、全否定」ではなく、「全否定のみであって、全肯定ではない」であり、又、「一部肯定のみであって、全肯定でも全否定でもない」肯定である。

 全否定・全網羅も同じ構造である。

 それゆえ、現実が何の理もなく、この一つのかたちでしかないのも不可思議ではない。宇宙の唐突な開闢も理不尽ではない。理も経緯もなく、唐突に、現実は、かたちである。

 これを狂裂という。

 これも理に過ぎない。別に構わない。何でもありだ。

 途方もない無際限な自由の極みであり、自由奔裂、狂奔裂ともいう。

 それゆえに、現実はかくあるらん。

 これが絶空である。古来、色即是空といふは、妙言なる哉。

 

第四諦(聖八正道)

 滔々と敷衍するも、いか許りもない。虚し。儚し。甲斐なし。

 畢竟、眞究竟眞實義とは、何か。

 あきらけくきよらすみて、かろらかさやか。それが正しい。

 理由も、根拠も、仕組もわからない。

 只唯存す。只管爾焉(ひたすらこれのみ)。妙義としか言えない。

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