第二章
一、
次の日も、僕はあの猫に会いに行った。灰色の野良猫は、僕を見るなり嬉しそうに駆け寄ってくる。僕はこの猫にとって必要な人なんだと勝手に思い込んで、毎日のように猫を撫で回した。
いつしか僕はその野良猫をテンと名付けて可愛がるようになった。しかし、部屋の中での生活は今までと全く変わらない。変わったことといえば、ゴミを捨てるようになったこと、洗濯を毎日するようになったことぐらいだ。
それでも、大家さんは「大きな進歩ですね」と皮肉を言うような顔で鼻を鳴らしたのだった。
「テン」
名前を呼ぶと、ぱっと明るい笑顔でこちらに走ってくる。それを僕はしゃがんで待つ。
にゃーあ。
鳴いてすり寄ってくるテンを撫でながら、僕は温かいミルクティーを啜った。
テンを見ていると、あの人を思い出す。妹とは違った明るさを持った人。朝日のような爽やかな笑顔をした人。綺麗な瞳で、少し触っただけで壊れてしまいそうなほど美しい人。
僕の恋人は、そんな人だった。
いつも優しくて、可愛くて、彼女といるだけで僕は幸せだった。その幸せも、今はもうない。僕の朝日は遠くへ行ってしまった。彼女を最後に見たあのむすっとした顔が脳内にこびりついて剥がれない。
にゃあ!
びくっとして右手を引っ込める。テンに甘噛みされた。
私という女を差し置いて、他の女のことを考えてるなんてっ!
──そう言われているみたいだった。
テンがメスかオスかは分からない。でも、僕はやはりメスだと思い込んでしまう。そして僕はテンの品種すらも知らなかった。
テンをゆっくり撫でながら、残りのミルクティーを飲み干す。ペットボトルから温もりが消え、それを持つ手先はすっかり冷え切ってしまった。まだまだ冷え込む季節だ。
あれからもう三週間も経ったのに、まだこの公園は工事が始められていない。間違えてしまったのか、忘れられているのか、もしかしたら工事はしないのかもしれないという希望すらも抱いてしまう。
ずっとこのまま、変わらずにいてほしい。
そう願わずにはいられなかった。
テンの喉の声を聞きながら、ふう、と息を吐いた。
薄い白い息が空気となって消える。そして、空気を大きく吸い込む。つんとする感覚と同時に、冬の匂いが体内に入り込んだ。空をちらりと見ると、澄んだ青空がどこまでも広がっている。雲は一つもなくて、ただ真っ青な色だけがそこに在る。
予報によると今夜は雪らしい。
この青空も、しばらくすれば分厚い雲に覆われてしまうのだろうか。
「なあテン。お前はずっとここにいてくれるよな?」
そう言いながらテンを膝の上に抱えた。はてなを浮かべたテンは僕をエメラルドの瞳で見上げる。
人は変わる。
環境も変わる。
じゃあ、動物は……?
僕の気持ちを汲み取ってか、テンは僕の手の甲に頬をすりすりと擦った。柔らかい毛と、少し濡れた鼻が温かくて冷たい。
僕はテンを地面に優しく降ろし、立ち上がった。もうそろそろ帰らなくては。名残惜しくテンを撫で、公園をあとにする。
家に帰ったら大家さんがいる。大家さんは毎日ではなく一週間に一度の頻度で来るようになった。その時は僕も一緒に掃除したり料理したりしている。そのおかげで、僕の家事力はぐんと上がった。
大家さんは今日も顔をしかめたままで、でもその奥には優しい笑顔が隠れている。カーテンは閉まったままでも、部屋は清潔で明るくなっている。
これでいい。このままで、ずっと。
──人間って、馬鹿な生き物だよなあ……。
つくづく思う。
永遠などないのに、“ずっと”なんて。
そりゃ人間も変わるし、環境も変わる。それに、動物だって──……
そこまで考えて、ふっと息を漏らした。白い息がふわりと舞う。
これは仕方のないこと。割り切ってしまおう。
そう思い込もうとしても、叶うはずのない願いが頭から消えてくれるはずがなかった。
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