番外編 テレサ・マイナと淫者の意思
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テレサ・マイナは、ネクの元婚約者である。
『常に正しくあれ』
それがマイナ家の家訓だった。
ただし、それはあくまでも『貴族としての正しさ』に過ぎない。
それは、時として一般的な正しさとは大きく乖離することになる。
そして、婚約解消に伴うその乖離した正義が、テレサの身に降りかかっていた。
落ちこぼれのネク・アンダーウッドとの婚約破棄。
その事実は、テレサの政治的価値を著しく低下させた。
政略結婚をさせようとも、落ちこぼれに捨てられた女という肩書が邪魔をする。
それゆえ、マイナ家はテレサを魔法学院に送り込むことにした。
それは、呼び方を変えただけの『追放』だった。
幸い、入学には十分に間に合う時期。
入学金や授業料を支払うための財力もある。
だが、その財力にも限りはある。
ましてや、テレサは政治的価値をほとんど失っている。
それゆえ、テレサに与えられたのは必要最低限の資金。
そして、一人のメイドだった。
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これまで住んでいた館。
その姿を遠くに見ながら、テレサ・マイナは馬車に揺られていた。
魔法学院へ向かうための『集合場所』に向かうためだ。
その表情は暗い。
そんな彼女に、正面に座るメイドが声をかけてきた。
「お嬢様、大丈夫ですか?」
「……ええ、問題ありませんわ」
やはり、弱弱しい声でテレサは答える。
そして、ちらりとメイドに視線を向け――。
「アイリス、貴女には迷惑を掛けます」
突然、謝罪の言葉を告げた。
「はい?」
「私のお付とならなければ、屋敷で働き続けることは出来たでしょう。それなら、命の危険はなかったはずです」
ライプニッツ高等魔法学院。
そこは、命の保証がない危険な学院だ。
本来、そんなことに他人を巻き込むべきではない。
だが、マイナ家からはアイリスを連れていくことを命じられた。
そのことを、テレサは申し訳なく思っていた。
「今の私には、後ろ盾がありません。ですから、貴女を守れるだけの力がないのです」
テレサは、政治的価値を失った。
誰に言われたわけでもない。
ただ、そう理解し、実感してしまっていた。
「あの、お嬢様。お嬢様は追放されたわけではありません。新天地に向かうことになっただけです。新しい別の可能性に向かって進んでいるんですよ」
「ありがとう、アイリス。貴女は優しいのね」
「へ?」
アイリスは顔を赤くした。
その姿を見て、テレサは少しだけ表情を緩くする。
「でもね、アイリス。これから先生きていくためには、現状をしっかりと把握しなければなりません。私は価値を失った。そのことは、使用人たちから向けられる視線でも分かります」
「視線?」
「以前は、使用人たちの視線から畏敬の念を感じることが出来ました。でも、今は違います。今は、使用人たちの視線から哀れみしか感じないのです。私にとって、使用人たちは守るべき対象でした。決して無下に扱ってはならない。それが貴族としての正しさというものでした。そんな守るべき対象から同情される。それは、私にとって耐えがたいことなのです」
「お嬢様……」
アイリスはテレサの手を両手で握る。
そして、断言する。
「それは違います」
「いいえ、違いませんわ。私は使用人たちのことをしっかり見てきたつもりです。彼女たちの変化を間違うはずがありません」
「いえ、ですから、それが違うんです。確かに、マイナ家の使用人はお嬢様に対して同情しています。でも、その理由はお嬢様が魔法学院に送られたからではありません。私はその理由を知っています」
「……そうなのですか?」
テレサは頭を切り替える。
テレサが知らないが、使用人たちが知っている事情。
そんなものが沢山あるということは分かっている。
だけど、この問題に関して、認識を間違うほどの事情があるとは思ってもみなかった。
「アイリス。それを私に教えてくださる?」
「はい。ですが、約束していただきたいことがあります」
「どんなこと?」
「まず、どんなことがあっても私を側においてください。私は、いつでも、いつまでもお嬢様の味方です」
情熱的な目がテレサに向けられる。
それを見たテレサは、涙を流しそうになる。
これほどまでに自分を慕ってくれる者がいるとは思っていなかった。
所詮は仕事上の付き合い。
そう思っていた自分を恥じた。
「分かったわ。ありがとう」
「そして、どんなことがあっても絶望しないでください。お嬢様は今、とても落ち込んでいらっしゃいます。そんなことでは、この先魔法学院でやっていけません」
「分かりました」
「最後に――」
アイリスは立ち上がり、テレサの正面に立つ。
そして、揺れる馬車の中、バランスを取りながらテレサを抱きしめた。
本来であれば、メイドに許されるはずもない行為。
だが――。
「最後に――お嬢様が辛いときは、私にお嬢様を抱きしめさせてください」
「……分かりました。アイリス、ありがとう」
テレサもアイリスの背中に手を回す。
このまま甘えて、考えを放棄したくなってしまう。
だが、それは彼女のプライドが許さない。
「アイリス。私の隣に座って」
「はい」
アイリスは言われた通り、テレサの隣に座る。
抱き合った体勢は崩さない。
「アイリス。貴女が知っている事情を教えて頂戴」
「分かりました。お嬢様はマイナ家の四女。これまでアンダーウッド家との政略結婚の駒という立場に置かれていましたが、今回それはなくなりました」
「ええ、そうですわね」
それは、政治的な価値を失ったということだ。
貴族令嬢である彼女にとって、その意味は大きい。
政治的価値を失った時点で、貴族としての価値がないといっても過言ではない。
だが――。
「ゆえに、私が手を出しても大丈夫と言うことです!」
アイリスは理解しがたいことを言ってのけた。
テレサはその言葉を頭で反芻させるものの、理解には至らなかった。
否――理解は出来ている。
だが、到底納得できるものではなかった。
腑に落ちないどころか、自分の解釈が間違っているとしか思えなかった。
「え、あ、はい? あの、どういうこと?」
「お嬢様。私が嫌々ついてきたとでも思っておいでですか?」
「それはそうでしょう? だって、命の危険があるのよ! 好き好んでついてくる人間なんて、いるわけが――」
「はい、残念! あるんですよ!」
アイリスは明るい声で言った。
先ほどまでの悲壮な雰囲気が馬鹿々々しくなるほどの陽気な声。
能天気でアホのように明るい表情。
ぶち壊しである。
「あの、アイリス。無理をしなくてもいいのよ」
「無理ですか?」
「私に気を使って、そう言ってくれているのですよね? そうだと言って頂戴」
「いえ、ガチです」
「えぇ……」
テレサは未だ半信半疑だった。
マイナ家において、アイリスは物静かな使用人だった。
仕事は確実にこなし、テレサの行動を先読みして色々と手配をしてくれる。
優秀すぎるほどに優秀なメイド。
それがテレサにとっての、アイリスだ。
そのイメージをどうしても覆すことが出来ない。
「信じていただけないようですね。でしたら、お嬢様の好きなところを百個言いましょうか?」
「そんなこと、出来るの?」
「日課ですから」
「日課!?」
「はい。私は毎日、お嬢様の魅力を使用人たちに語り続けています」
「使用人たちに!? 毎日!?」
テレサは思い出した。
使用人たちの同情するような表情。
テレサに向けられたほの暗い視線。
あれは、魔法学院に送られることに対するものではなかったのだ。
この危険人物と二人で過ごすことになることへの同情心。
「ろくでもない謎が解けてしまいましたわ!?」
「なんだか分かりませんが、流石です、お嬢様!」
「貴女が犯人なのよ!」
「お嬢様の心を盗んだ?」
「違いますわよ!」
テレサはアイリスから体を離す。
だが、アイリスは遠慮なくテレサに抱き着く。
「ちょ、離れなさい!」
「お嬢様、今、お辛いですよね?」
「辛いですわよ! 信じていたメイドがこんなだっただなんて――」
「約束を思い出してください。『お嬢様が辛いときは、私にお嬢様を抱きしめさせてください』という私の要求に対し、お嬢様は『分かりました』とお答えになりました。マイナ家の一員たるもの、約束を違えてはいけませんよね!」
「意外と知能犯!?」
「さらに言えば『どんなことがあっても私を側においてください』という要求にも同意してくださいました。これで私とお嬢様は未来永劫離れることはありません!」
「最悪ですわ!?」
こうして、テレサとアイリスの生活は始まった。
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