もしも大人になれたなら

久灘 結

第一巻・序章1-1・ささやかな安心が欲しくて

 La Divina Commedia System.

 no.5 Mammon.

 code.practice mode.

 place.World Great Lakes shelter Foundation.

 name.museum pamphlet.

 point.the museum of agriculture, Forestry and Fisheries pavilion.


『写真と広告表現を多用したきらびやかな小冊子。これについて話そう』

『2118年 6月発行』

『出版元。自由連邦世界政府準備委員会。世界平和博物館出版部』

『ヨベル神聖普遍帝国の前身組織と言える』

『表紙には、五大湖世界公共防空施設財団による、目立つロゴタイプ』

『五大湖の上部を覆う巨大な金属板を、仰々しくモチーフにとっている』

『協賛国家として、統一自由連邦合衆国の120を超える独立政府をはじめとして、極東島嶼部などの同盟国を含む、淡水戦争後に台頭した軍事国家や経済国家が名を連ねる』

『しわくちゃになるほど読み込まれており、写真には指紋のあとがある』

『そう、これは彼女のものだ』

『これから、もう一度君に説明しようか、アリス』


《はじめに》

 国際連合世界平和博物館へようこそ!

 当館は五つの主題に基づき、平和委員会所属IDをお持ちの方々、同盟国のみなさまとともに、世界平和と、人類の末永い繁栄について考えてゆく博物館です。


 主題は、次の五つ。五つの博物館施設にまたがる、学際的な主題です。

 一つ目は農学。世界平和のための資源生産と、その管理について。

 二つ目は社会学。国際的共存のための教育と、その実現について。

 三つ目は歴史学。あらゆる国家の相互理解と、倫理の実現について。

 四つ目は科学。あらゆる学術と工場技術の発展に向けた試みについて。

 五つ目は宗教。世界の調和と真の平和のための相互理解について。

 五つの主題に基づいた研究成果を、充実した設備と、お子様方にとっても魅力的なレクリエーションとともに、各パビリオンにて公開しております。


《農学パビリオン案内》

 農学を世界平和のために役立てることを、みなさまと考える場所。

 敷地内西、農林水産博物館で、人類の偉大なる営為の一つについて、みなさんとともに理解を深めましょう。

 平和記念農学産業パビリオンでは、世界の農学と農業技術を集大成し、持続可能な環境の実現と、豊かな自然との末長い共存、新技術に基づいたよりすばらしい農業生産技術の啓蒙をテーマとしています。

 多様な生産形態を持つに至った農業において、日々の生活を支える食料や衣服が、いかに生まれてくるのか。いかに作りだされてゆくのか。

 一流の農学者を初めとして、生物学、生命生態学、人類学、地質学、海洋学や森林学の権威が、最新の映像資料を駆使して解説いたします。

 また、博物館内のレストランでは、パビリオン内の衛生施設で育てられた、数々の農産物を、世界衛生福祉機関の協賛の下に提供しております。委員会ID認識票および世界市民票をお持ちの方は、とてもお安くご利用できます。

 親しい方へのお土産には、昆虫たちが紡いだ高機能繊維による小物や、自由連邦軍も採用している実用的なスポーツ用品、多様な衣類や靴。最先端の技術によって美を描き出す、生物構造由来のアクセサリーなどはいかがでしょうか。

 二時間おきに、各生産施設の見学イベントも実施しております。

 実際に、かわいい生き物たちや、現代技術の手でより美しく、人の役に立つようになった植物たちを見てみましょう。


『最先端の映像設備が所狭しと立ち並ぶ博物館内』

『最新の3D映像投影設備の利用から、個人IDの拡張現実眼鏡の使用までが可能』

『館内には古典的な博物品の展示も行われており、拡張現実で生態観察もできる』

『個人用と家族向けに分けられた、箱型の小屋の中に入って、拡張現実を体験する』

『今の時代では考えられないほど贅沢な食材を使ったレストランもあった』

『博物館の売店は、後の戦時が虚しくなるほどに豊さを誇っている。きわめて高度な技術を用いた生化学的製品が販売されていた』

『写真を見るだけでも、気分がよくなりそうなほどに凝った装丁は、やはり戦前の矜持といえようか』

『値段は本当に安い。かつて行われた淡水戦争の戦勝国は、ID発行体制による管理社会を早くに立て直し、ID票を持つ市民の不公平や不平等もなくなり、福祉社会が実現した』

『もっとも代償として、いずれの政府組織も、麻薬や娯楽に重度の規制をかけた、いわゆる重警察主義国家となったが。かつてのぼくにはむしろ利益となっていたか』

『それにしても、ほかのページを流し読みするだけで、当時をしのぶのに十分楽しめるなんて、素晴らしいと思わないか? やはり、博物館にも娯楽的な広告表現が必要だよ』


 また、当館敷地内は広大な公園施設となっており、併設する動物園や自然公園へ行けば、全世界から集められた天然の生き物たちと共に、地球の美しい自然環境を学ぶことができます。


 自然公園地下には、連邦政府が誇る世界最高峰の研究施設がございます。自然公園内を行き来する地下リニアカーから科学博物館へ行くことができ、体感的な経験を提供する資料館セクターを自由に見学することも可能です。

 

 各資料館には、連邦でも随一の品ぞろえを誇るショッピングモールも併設しております。買い物に疲れてきたら、博物館ごとの主題に基づいた、未来的なレストランを訪れてみませんか?


 いずれのパビリオンにも、豊富な蔵書の図書室がございます。

 利用については、いずれの資料館も図書室も、無料でご入館できます。

 また、介護、介助の必要な方のために、複合義肢の職員が応対します

 障害を乗り越え、機械と電子装置との共存を体現する職員一同、誠意をもって対応いたします。

 

 当博物館周囲の計画都市は、国際連合の指定都市でもあります。

 平和と夢の街。future cityへの移住者を、鋭意募集中です。

 心躍る未来計画都市での快適で安全な生活を保障します。

 まずは、都市内のホテルにて、お手頃なお値段で、自動化された未来志向の手厚いサービスを味わってみませんか?



『以下、写真画像とともに、博物館内をはじめ、多様な施設の説明がある』

『小冊子の端っこは少し破れていて、館内でよほど熱心に見返したのだと思われる』

『良い資料だが、破損のため、データベースからさらなる全文の復元を行う必要があるようだ』

『そうでないと、入力する基礎知識に不安があるかもしれないからね』

『定期報告』

『2251/10/2 12:34 本日は酸性雨。重金属混じりの風がいつものようにひどい』

『気温は零下五度。湿度は98%。外にいるだけで凍えかねないありさまだ』

『なにより、酸の害は語るに及ばず』

『有毒化合物は、空気中にコロイド層を作るほどに施設外に蔓延している』

『放射能を媒介する有害微細機械が、いまも《浄化》のため放射線を散布している』

『連邦政府および、衛星国からは、今日もシェルター通信の反応もなく、国連規格の通信への信号さえも、応答無し』

『かつての敵対国からは粘菌共同体の反応があるが、通信の反応は依然なし』

『地上に歩き回っているものといえば、もはや品位も失われた人間という獣ばかり』

『神に尊厳を認められた死人とて、もはや野生の生物兵器のエサでしかない』

『やはり、安全保障理事会科学参事官〈∞〉の存続は僥倖だった。あれなしでは我々とて生き残れはしない』

『しかし、あの終末戦争のおかげで、結局は〈博物館参事会〉の会員ばかりが残る結果になったか』

『館長どのは、どうせ全部理解していたんだろう。そうでなければ、結果として、行いに基づく預言もできないだろうさ』


『さて』

『お客様には内幕のわからない、ただのおしゃべりはこれくらいに』

『そろそろ、ぼくの計画を本格的に動かさなければならない』

『そう、ぼくが傅く聖母のために、そして〈彼〉の無限の価値を証明するために』

『彼女らの配置を行う』


 code.harvest doll.


 code.ma-i-de-n-1.

 素体記録。

 名称。

 アリス。〈インフィニティサーバから確認したが、家名は省略〉。


 《人種。性別。身長。体重。年齢》

 欧州系。女。138cm。42kg。11歳。


 暗示・希望。

 希望とは、目に見えない現実を信じるための、信仰の一形態である。

 彼女は未来によって救われることはなかった。


 《体毛。皮膚。眼球。身体》

 金色。薄い白。碧眼。身長平均未満だが虚弱あるいは生育不全ではない。


 本・童話。彼女と同じ名前の少女の物語。

 初期の精神的依存関係を構築するための触媒。死人の人間性の基幹部分。

 きっと、不条理な世界における指針の一つとなろう。

 しかしながら、花園に還ることはついぞないだろうか。


 依存・maiden2に対して愛着と強い依存心をもつ。

 それは友情と、幼い愛着心に似ている。


 追憶・絵。遊園地。〇〇。〇〇。

 絵を描くことを好んでおり、また博物館などを訪れることが多かった。

 その絵画のテーマとは、近所の家庭菜園における、ささやかな労働について。


 まだ、観測事項のすべてを開示することはできない。

 ぼくも知らないのだからね。


 素体改造結果。

 基本的な武術および、運用規格に適した棒状武器の扱いを学習。

 農業と葬送には深い関係がある。

 埋め戻し、ほじくり、また耕すことを、彼女の力の指針の一つとして設定する。

 皮肉というものだ。


 粘菌による浸食防止および、頭蓋骨折の補強や修復を期待し、本人随意式の植物体を移植。衛生用途であるが戦術規格なみの炭素繊維筋肉を持つ。しかし、人形の規格では本体の重量不足と思われるため、牽引できる対象と状況には限度がある。


 骨格の補強のため、骨内空洞に棒状の構造強化金属を挿入。

 強化筋肉による骨折を防ぐため、粘菌体と親和性のある金属を用い、骨格を螺旋状ワイヤーによる吊り下げ式に係留。強度の関係で、体外にも鋲の形で露出。

 素体の重度の損傷を治療する際の保護鋼糸を転用。蘇生時の電気治療時の痙攣による骨格の複雑骨折を防ぐための処置。

 結果論であるが、彼女を切り刻むのは骨が折れるだろう。


 傾向。

 内気だが、臆病ではなく、自分の意見をはっきりと述べる性格。

 育ちの良さゆえか、遠慮がないわりに人に配慮することができる。


 人格規格1。諦めない、意地にも似た意志を持つ。本来の依存心を補完する態度。

 人格設計そのものは、規格1に準じた少女的な規範意識に基づいたもの。

 人格規格1はごく平均的な少女性に基づいた規格であり、その献身と従属性は多様な応用が見込める。

 比較的順応的かつ適応的な他の人格規格と異なり、神経ネットワークへの正の干渉能力について卓越しており、EVEアタッチメントとしての用法によって姉妹ユニットの結合を促す。

 正常性は、時に異常者に対するもっとも強い矛になりうる。


 戦術規格1。身体の遠隔操作及び、基礎人体構造粘菌核の再生能力を持つ。

 戦術規格1は、比較的普遍的といえる自己犠牲精神に基づいている。

 精神的に未発達な粘菌ゲシュタルトにおいて、自己犠牲と依存による自己愛は、もっとも基本的な戦術規格になりうる。

 拡張性に優れた、保存児童作動体child adipocere activateの基本規格。

 自己犠牲とは、常に倫理に忠実であるため、兵器として用いやすい。

 より損傷を恐れ、より敵を恐れ、友達のために成長するだろう。

 

 菌体の同一性を利用した遠隔操作を用い、損傷、分断した手足は妨害のために使う。損傷を利用する高リスクな手法であり、極めて古典的な最初期の技法だが、有効性については洗練されている。虚を突けば、死人とて大いによろめく。


 また、時間をかければ他者の余剰菌体再生力にも干渉できる。

 臓器養殖技術を応用した伝染性の治癒能力。

 ただ、あまり複雑な神経構造を再現できず、あくまで詰めた綿を治すだけ。


 わが身可愛さと、友達への誠実さは、あるいは同じものだ。

 Aliceとは、愛を証明するために作り上げた我々の尊い被献体である。

 数々の失敗例が証明するように、己も愛せずに、あるいは己だけを尊重して、誰を愛するというのだろうか? 

 諦めは、ただ悪辣に人をあげつらい、己の未来を損なうだけだろう? 救いを求めるとき、金は肉の楯でしかありえない。かつて古代に人が求めたように、金の内に燃えるのは暖かくも悍ましい闇だ。力は人を蝕む。

 はたして愛とはなにか? 彼女はそれを証明するか?

 理解、育む力、そして勇気は、きっと彼女のように生きることから生まれてくるのだと、信じたい。


 code.ma-i-de-n-2

 素体記録。

 名称。

 ゾーイ


 《人種。性別。身長。体重。年齢》

 靡洲系。女。152cm。50kg。12歳。


 暗示・絶望。

 絶望とは、現実に対する決意の表れであった。

 彼女は絶望し、その望みを託した相手よりも長く生きることは無かった。


 《体毛。皮膚。眼球。身体》

 縮れた黒色。濃い黒。黒い眼。生育状況は上々。

 

 壊れた部品・二つの指輪。

 彼女にとって重要な外部的機能の損壊を示す。

 形見とは、精神を強く支える柱になるだろう。

 兵器として使われない限り、葬式とは敬虔である。


 保護・もともと面倒見の良い性格のためか、maiden1に対して強い保護欲を持つ。

 責任感は、責任を持たれたことに対する返礼だった。


 追憶・スポーツ、水、○○。○○。

 体を動かすことを好んでおり、水泳から武道まで幅広かった。


 素体改造結果。

 基本的な格闘術を学習。〈構造設計の上では関係のない根本的な戦術パッケージ〉

 戦術用途においては、基礎的な軍隊格闘術の習得が行われる。

 これは組み立ての上での構造に関与しない、基礎的な兵の死体記憶技術である。

 これにより、たとえ戦闘経験のないものでも、死後の兵役を確約しうる。


 強化筋骨への平衡性を高めるため、頭部へと生化学工学に基づいた綱状の構造手腕を移植した。本数は外部から見えにくい部分を含め七本。

 人間の腕あたり、二、三本ほどの機能のある作業補助が可能であり、戦闘ルーティンにおいては不意打ちに多用される。

 多数の蛇頭は、死者をも迷わす。


 生体機械式の発声装置で欠損した声帯周囲を再現。

 声帯の再現技術はきわめて高度なもので、これは生体機械部品と神経接続による再現を図った、比較的コストの低く、実用性の担保された技術。

 たとえ声を必要としなくても、会話を求めることは必要なのだった。

 死人に声を与えることが、彼女の目的だった。


 体表に本体の自己組織化に対応した炭素系強化繊維を移植。

 自己増殖も可能な強靭な皮膚組織。

 刃傷や銃弾の一撃をも防ぎうる。クラス4の重装甲アーマーと同じ性能。

 しかしながら、構造的欠陥として、皮膚の断裂による防御力の低下が著しく、防御の回数には制限がある。


 のち、平衡性のさらなる強化が必要と判断。爬虫類系統の強化生物部品を移植。

 臀部周辺の筋骨と連動し、瞬発力を高めている。

 凶器にもちいるには心もとないが、振り子運動と臀部周辺の筋肉増強によって身体能力を高める。なにより、イヴの蛇、ナイトにはふさわしい設計である。


 素体傾向。

 暴力的な面や倫理面の問題は見られないものの、かなり勝気で強気。

 自己主張が強いが、とても親切。面倒見が良い。

 ただ、その我の強さは、心を許した友人以外に軋轢を生みやすいようだ。


 人格規格2。粘菌共同体の不調和をきたしつつも、瞬時の活性を可能にする。

 ホルモンの反作用で人格のフラクタル構造に歪みが出る危険があるが、瞬発的な対応における作業精度について驚異的かつ正確な反応性を実現する。


 人格規格2の基本は神経インパルスの過剰と不安定さを補填するためのシステム構築。これにより、自己主張の強い少女性を制御する。


 戦術規格3。身体部品のすべてに強靭な自己再生力がある。

 特異な点として、固有の細胞組織や機械部品および、金属を含む生体粘菌工学製品の再生能力を持つ。終末期戦争における自己完結性の担保は、重度の汚染および無駄ばかりの資源散布によるもの。これら多様な化合物を時間をかけて肉体に取り込む働きは、粘菌細胞によるほぼ不随意的な現象である。


 また、当人の分泌する発光性たんぱく質の結晶化作用により、格闘戦における四肢や頭部の威力は通常より強化されている。ほかにも応用が可能だろう。

 この結晶の劈開された縁は非常に鋭く、硬度も相まって切断性に優れる。


 戦術規格3は動物が持つ貪食性に根差した非常に攻撃的な設計。歩行死者に対する有効な捕食者となりうる規格。


 正しい食とは、彼らにとってかつて勇者たる証だった。

 彼女の設計は、まだまだ、獣性の拡張性の高い段階にある。


 人間性において、勇猛果敢であることは、また名誉であり、また犠牲者になるべく選ばれる、歴史上の被害者だった。

 かの性質は、自ら進んで生きようと、希望を持とうとする者に、寄り添うためであろうか。

 肩を貸すことには、強い勇気が必要だ。

 理想と夢を支えるには、相棒の細い足で十分だが、彼女はけして夢を取り落とさないために、その助けになることを望んだ。

 ゆえに二人は、いずれも奴隷になることはないだろう。

 彼女は狩人であるために、一時の自由を得るだろうから。


『さあ、起きて』

『家に帰る時間だろう?』

『もう、閉館時間だよ』

『ちゃんと、頑張れるように作ってあげたんだから』

『ボクに、きちんと理解できるように、しかとよく見せておくれ』

『君たちがいかに優れた存在か、そう、そうとも、じっくりとね』

『君たちの物語が、かの残忍なるモレクの祭儀を完成させるのだから』


〈reboot.an intake gate tower.housing for plumber workers〉


 ・code awaken


 とても、とても嫌な夢を見たあとのように、逃げるように飛び起きた。

 とたんにおでこを固いものにぶつけて、おもわず目を瞬いた。

 変だった。体中の感覚のなにもかもが。

 肌が妙にざらついたような感覚で、調子だってとてもおかしい。

 まるで自分の体ではないような、それでいてとても馴染んだ違和感。

 いつか、転んで腕の骨を折ってしまったことがあるけれど、そんなふうに、なかなか治らない傷がずっと疼くような感覚。

 それがほとんど全身に、体中にひどい違和感がある感じだった。

 なのに、痛みは無く、かつて味わった不愉快な鈍痛だけが思い出されるような、そんな感覚。

 そんなわけで、どうしようもなく体がだるくて、目を開けるのもなんだかおっくうなほど眠たかった。

 それでも、せっつくような痛みに似た危機感に支えられて、瞼をなんとか開けると、壁越しのむこう、だいぶ遠くの方から声が聞こえてきた。

「ただいま、午後8時です」

「Oh Jesus? abysmal pledge.maidens」

「一般来訪者のみなさま、当博物館の閉館時間は、間近です」

「Oh Jesus? abysmal pledge.maidens」

「本日は、世界平和記念農学産業パビリオンに来訪していただき、まことにありがとうございます」

「Oh Jesus? abysmal pledge.maidens」

「ご家族、あるいは個人の方は、お忘れ物がないようによろしくお願いします」

「Oh Jesus? abysmal pledge.maidens」「Oh Jesus? abysmal pledge.maidens」

「Oh Jesus? abysmal pledge.maidens」「Oh Jesus? abysmal pledge.maidens」

「and don't you forget it!」「and don't you forget it!」

「and don't you forget it!」「and don't you forget it!」

「当館での学びが、世界市民のみなさまに幸福をもたらしますように」

 虫が飛ぶようなキリキリとした音が混じる、きれいな女性の声。

 放送の合間に聞こえるノイズが、なぜか早口の人の声のようにも聞こえる。

 うまく動けずに、女性の声を聴いていると、なんだかまた眠くなってきた。

 そういえば、この博物館の音声は全部が機械音だったことを思い出した。なにもかもが機械で作られていて、この音声も、もっとも心地よく聞こえる声を、博物館の中の観測機を使って整えていると聞いていた。博物館の中で交わされるお客さんの談笑を聞き取って、日々異なる声になる。

 そのときは、毎日違う、本物そっくりの声を作れることに驚いたっけ。

「はい。忘れられた方には、管理人員が対応します」

「当館の警備体制は万全です」

「水道管理棟、職員宿舎。コンパニオン。一名そちらへまいります」

「どうぞ、そのままにしていてください。ご安心ください」

 館内放送を聞いている間、ぼんやりとした気持ちになって、しばらくはなにもできなかった。そのことにも、強い違和感を感じた。

 まるで、このまま眠って欲しいと、強く指で突いて指図されているような。

「帰らないと」

 ぼそっとつぶやいてみると、なぜか自分の声のように聞こえなかった。

 早く帰らないと。

 博物館は楽しかったけれど、帰り道には車の中で見たい番組もあるし、家で読みたい本もあるから。

 それで、何でここはこんなに暗いの?

 午後の8時なら、博物館の周りは照明で照らされて、とても明るいのに。

 それとも車の中かどこかで、おとうさん、おかあさんのどちらかを待っているんだったっけ。

 仰向けに両手を伸ばすと、伸ばしきれないうちに硬いものに手が触れた。掌で軽く叩いてみると、薄い金属の感触がした。

 戸惑った。何度か叩いてから、彼女は悟った。自分は金属で出来ている箱か何かに閉じ込められている!

「えっ? これ、なに? ねえちょっと! だれかいる? ねえだれか、わたしはどこにいるの!? ねえ!」

 取り乱して、なんども、なんども、金属の薄っぺらい壁を叩いた。

 この空間はとても狭く、しかも斜めに傾いていることにも気づいた。

 とたんに、急に反対へがたりと揺れ、衝撃と共に傾いたせいで、足が上がってから下がり際におでこをしたたかにぶつけた。

 とっさに腕を引っ込めて、どこかに落ちないか、滑り落ちないかを心配して、縮こまった。それから、おそるおそる箱の中を手探りで調べた。

 車のトランクじゃない。閉じ込められた時のための開閉器がない。背中側に小さな隙間が縦に一筋あって、ほんのうっすらとした光が見える。そんな、金属の箱。

 必死になって壁を叩いて、彼女は叫んだ。

「だして! ここからだして! だれもいないの? 返事してよ!」

 そのとき、外側から何かに、がつんと叩かれた。

 鈍い音が壁に触れた手のひらまで響いて、思わず手を引っ込める。体を縮めた拍子に、背中が壁の金属板にぶつかって、鈍い音を立てた。

 なぜか、しばらく何かに驚いているような気まずい沈黙があった。壁越しにもわかる、きまり悪そうな雰囲気。確かめるために乱暴に叩いたのだろうか?

「おい! 中に誰かいるのか? おい返事しろって!」

 ややあって、外から声が聞こえた。

 気を取り直したような、どこかほっとしたような。そう、女の子の声。

 まるで少年のようなかすれ声だった。

 その返事に縋るように彼女は叫んだ。

「開けて! 暗いよ、ねえ! 息ができなくなったら!」

 最後まで言い終えないうちに、せっかちそうな声が返事をした。

「心配すんならわめくな! くそ、扉が表にねぇぞ、ひっくり返ってんのか。おい! 今からコイツをひっくり返すぞ! 掴まるなりなんなりしろ!」

 遠慮もなにもなかった。体を縮ませたとたんに、ぐいと持ち上げられたかと思うと、180度きっかりひっくり返った。

 ムリヤリ叩きつけたわけではないものの、荒っぽいひっくり返し方だったので、そのせいでうつぶせに額を壁にぶつけた。

「あいてて、もっとゆっくりやってよ!」

 またおでこや体を軽くぶつけただけですんだようなので、なんとか肘で体を支えた。外でぼやくような声が聞こえる。

「あ、悪い。加減しにくいな、なんだか」

 外ではまだ声がしゃべっていた。親しみのある声だった。

「よし、扉があるな。いいな? 開けるぞ」

 体の向きを変えようとしたら、錆び臭い金属の粉が落ちてきたので、あわててうずくまった。横目にぼんやりと光が差し込んできたことは、とても有難かった。

 扉は完全には開き切らず、半分も動かないうちにひっかかった。いら立つような舌打ち。開かなかった時のことを考えて、すこし怖くて、心臓が縮むようにすくんだ。

「ああ? ひしゃげてやがるな。指とか引っ込めとけ、あぶねえぞ!」

 中を確認するような身じろぎを感じたかと思うと、ぎゅっとうずくまった途端に鋭い打撃音がした。

 錆びた金属の粉が、勢いよくバラバラ、ぱらぱらと落ちてくる。

「よっし。蹴りでいけたか。バリをつかまねえように、と」

 金属が割れるようなすごい音がして、蝶番ごと扉が剥がされた。

 開いたはいいものの、通風孔の風がとても寒くて、お尻がなんだか冷たい。

 誰が開けたのかわからず、自分に不利な姿勢のせいで怖い。

「布? いや、こいつはケツか。失礼」

 引っ張り出そうとしてか、力の強い、でも小さな両手のひらが腰をつかんだ。

「ひゃっ」

 思い切り腰をつかまれたせいで、壁につっぱって抵抗してしまった。

「あ、悪い。自分でやりてぇよな」

 これと言ってこだわらず、相手はすぐにやめてくれた。お尻側が上向きになった状態で、誰かわからない状態で応対することが、どうしようもなく恥ずかしい。

「ごめん。起き上がっていい?」

 両手をついて起き上がろうとすると、正面から手が伸びてきた。ちかちかする照明がかなりまぶしく感じるせいで、その手が白いことしかわからなかった。

「ああ、手を貸してやる。戸枠に気を付けろ、触るとあぶねえぞ」

 その手に肘をつかんでもらって、引っ張り出して立たせてもらうと、自分を助けてくれた存在がちゃんと目に入った。

 パチパチと明かりが点滅する蛍光灯に照らし出されているのは、女の子だった。

 その女の子のことでまず驚いたのは、おかしな姿をしていることだった。

 服装は女の子らしいツー・ピースで、白と青色を基調にした清楚な服。

 可愛らしい感じで、勝気そうな雰囲気の女の子なのに似合ってる。

 服は似合っているけど、違和感として髪型のことが気になった。

 もじゃもじゃの黒髪の中に、腕くらいに太いものが、四本も、おどけた蛇のように動いてる。

 おもちゃの帽子の飾りにしてはずいぶんよく動いている。

 こういう帽子があったっけ? そもそも、この子は帽子もかぶっているようには見えないのに。

 女の子は怪我が無いかを確かめるためか、あちこち屈んで眺めまわしている。

 彼女が立ち上がると、真っ青な目が、自分のおでこより上から眺めていた。晴れやかで元気そうな目。

 ぱちくり、と時間をとって瞬きすると、相手はじっとこちらを見ていた。返事を待っているようだった。

「ええと、その、ありがとう」

 口が回らない調子のせいで、あまり礼儀正しい返事じゃないと、自分では思った。

 相手は別に気にもしていないように、彼女の手を引き寄せて何かを確認していた。

 やっぱり、怪我でも調べているのだろうか。自分の黒い手と相手の白い手が重なって、ちょっとこそばゆい。

 安心してぼんやりしていたけど、その次に驚いたのが、あれだけ強い力だったのに、普通の女の子だったことだ。

 お父さんに抱っこされたときのように力が強かったのに。

「怪我しなかったか? 思いのほか乱暴にやっちまったから」

 ニヤっと笑うと、口元から犬歯にしてはずいぶん大きな歯がのぞく。

 それでも、なんだか親密な言い回しにつりこまれて、はにかんだ。

「うん。平気だよ。だって、どこも怪我してないもの」

 自分の体を確認した。パンツルックに厚手のシャツ姿で、あまり自分の着ないようなタイプの服装だと、何となく思った。

 そのあいだも、相手は手早くもじっくりと服や肌を確認して、おおむね異常なしとしたようだった。

「よし、怪我はないな。あ、ああ? 服に錆がついちまってるぞ、あー、これ落ちねえんだよな」

 そういって、白い手で払う。その手つきは優しく、デニムのズボンについた錆は、シミを作ることなくあっさりと落ちた。

「ええと、ねえ、その。あなたは誰?」

 相手に対して、なぜだか親密に従ったことに少し気恥ずかしさを感じて、ほんのちょっと距離を取ってから、その少女に聞いた。

「オレか? それがオレにもわからねえんだ。なあ、おまえは何か覚えているか?」

 その返事はなんだか変だった。そう。あたりまえのことを覚えていないことが。

「覚えてって? ええっと、博物館に来た時のこととか、なのかな?」

 きっと相手も博物館に来たのだと思ったけれど、返事はなにやら違う感じだった。

「ん、博物館? ああ来たよな。いや。なんというか。あー、うまく言えねえ」

 もどかしそうに頭を掻くと、熱帯の蛇みたいに太い何かが指に絡みつく。

 間近で見ると、甲羅のないエビのはさみのような、ゾウの鼻のような、うねうねとした二本指の腕だった。色は真っ黒で、蛇の鱗みたいな光沢がある。

「あの。それって? なんかクネクネしてるけど」

「これ? さあ? もともとこういうもんが生えてたんじゃないか? お前も、なんか頭に生えてんぞ」

 無造作にそれにさわられて、とってもむずがゆかった。

 自分の金髪に混ざって、なにやら紐のようなものが生えている。

「キノコっぽいな。なんかのツタのようにも見えるけど」

「えっ? そんなはずないよ。髪の毛じゃないの?」

「いや、何か生えてる。ああ、そうか。鏡があればいいんだな。たしかこっちのロッカーには鏡があった」

 ゾーイが部屋の中のロッカーの一つを、力を込めて引き起こした。

 軽々とやっているのが、どうも違和感を感じる。

「ほら。見てみろって」

 鏡の中の自分を見た時、他のことが気にならないほどに、強い違和感を覚えた。

 この顔は自分のものなのに、まるでなにもかも自分ではないような。

 真っ黒い肌。黒い目。金色の眉毛。そしてさらさらの金髪。

 我ながらのんきそうなお人よしな顔つきだけが、不安げに陰っている。

 頭から生えている奇妙な植物。ヤドリギみたいな小さい葉がついていて、キノコに似た花が咲いている。意識すると望んだように動く。

 そして、肘や膝の先からわずかに突き出る、鋲みたいな金属の塊。

 自分の体をぼんやりと眺めてから、自分の肘を組んで支えてくれている女の子の姿も見つめた。

 縮れた黒髪。透き通ったみたいに真っ白い肌。真っ黒でおっきい太眉。そして、晴れやかな蒼い瞳。

 ひょうきんな顔つきのまま、唇を面白げに尖らし、アリスの髪の毛をいじってごみを取っている。今のところ、自分の姿に興味がないようだ。

 頭から生えている頑丈そうなうねうね。

 スカートの裾から覗く、短くて太い。トカゲみたいなしっぽ。

 そして、喉を覆っている金属の部品みたいな何か。

 そんな自分たちを見た時、ハロウィンの仮装みたいで笑ってしまった。

 そうでもしないと、その事実が胸をついて、とても苦しいような気がする。

「おっ、オレもいつも通り美人だな。おまえもそうだろ?」

 うなずいた。なんだか足元が崩れるような、変な感じがする。

「なんだろ。頭痛い。すごくぼんやりする」

 思い出したくない。思い出したらきっとおかしくなる。

「それな。オレも同じだ。むかしのこととか、オレがどうしてこんなことになってんのかとか。そういうことがさっぱり思いだせねえんだ」

 気づけば、ぐっと脇腹から体を持ち上げてもらって、すとんと何かに座らせてもらった。金属と合成革の椅子は、座ってみると意外と楽だった。

「倒れると危ないぞ。オレも少し気が遠くなった。なんか変な感じがしてさ」

 さっきまで快活そうだったのに、今は彼女も不安そうにしていた。

 自分もすごく不安だった。何かひどいことが起きたような気がする。

 なのに、なんでこんなことになっているのか思い出せない。

 でも、目の前の女の子と居ると、なんだかとても安心できるような気もする。

 そうだ。きっとこの子も一人だけで不安だったんだ。

 それなのに自分だけが慰めてもらうなんてできない。だったら、もっと自分もしっかりしないと。

 たとえ知り合いじゃなくても、同年代の女の子相手にしっかりしていないと、パパやママに笑われちゃう。

 彼女の顔を見上げながら、はにかむように微笑んだ。

「ありがと。名前くらいだけど、自己紹介しないとね。ええと、わたしは、アリスっていうの。よろしくね」

 彼女は転がしたロッカーのへこんだ壁に腰かけて、ニヤっと笑った。

「ゾーイだ。イカす名前だろ? よろしく」

「よろしく」

 アリスはうなずいた。よかった、ちゃんとやっていけそう。

 ゾーイは扉のないロッカーの穴に踵をぶらぶらと蹴りこんで、こういった。

「とりあえず、どうする? ここがどこかもわかんねえけど」

「その。家に帰った方がいいよね? パパもママも、大丈夫かな。迷子なんかになったら心配するよ」

 足を壊れた蝶番に引っかけたまま、ゾーイはわずかにうつむいた。さみしそうだ。

「だろうな。オレも、たぶんオヤジたちが心配する。親戚を担ぎ出して探し回ったりしかねないな。でもさ、オレたち、なんでこんなトコにいるんだ?」

 そう、それが一番の疑問で、謎だった。

 自分たちは何でこんな場所に? 

 パパやママはいったいどこに?

 そのためには、勇気を出して、ここを調べないといけないような気がする。

「帰るために、自分たちでがんばってみようよ。この部屋を調べよっか。わたしたちにできることをしよ?」

「よっし。お前あんがい威勢もいいな。そういうの、オレは好きだぜ」

 二人は手分けして部屋の中を探し回った。

 といっても、椅子の他は、部屋の中にはロッカーが三つ、ごろんと転がっていただけで、殺風景な場所だった。ロッカーの一つはひどく損壊しており、すっかりさび付いている。扉の鏡だけが、傷つかずに残っていた。

 鏡だけが変わらないのに、長い年月がそのロッカーだけに通り過ぎたような。

 鏡のついていない、アリスが出てきたものと別のロッカーは、扉がとんでもない形にひしゃげて、転がっている。

 ゾーイが内側から壊して開けたんだろう。

 こんなにすごい力ってあるんだろうか?

 部屋を歩き回ると、蛍光灯がちかちかと点滅して、いまにも消えそうだった。

 四角い部屋は案外狭くて、見るべきところもあまりない。

 足元はモルタル仕立ての粗い床で、青色の塗料が分厚く塗ってある。はげ落ちた黒いゴムタイルがあちこちに散らばっている。大きめのシャワー室だったのか、シャワーヘッドがつながっていたと思しき錆だらけの水道管が壁にあり、排水溝はなぜかモルタルで中途半端に埋まっている。

 壁もコンクリートそのままに、なにか透明な保護剤が塗ってあるだけ。

 壁には違和感があった。なんだか、壁がすごく新しいような気がする。

「おっ、引っぺがした扉になにかあるぞ。なんだこれ、スコップか?」

 アリスの入っていたロッカーからもぎとられた扉から、ゾーイがでっかいスコップを引っ張り出してきた。背中側だったから、アリスは気づかなかったのだろう。

「掃除用具のとこにひっかかってたな。うーん、他の扉にはなにもねえな」

 ケチ、と言いたげに舌打ちすると、そのスコップをアリスに差し出した。

「持てるか?」

 言われるままに持ってみると、あんがい重くない。軽量合金とかの、いい素材でも使っているんだろうか? それにしては、スコップはごつくて重たい印象があり、折り畳み式じゃない、いわゆる剣型のすごく大きいやつだった。パパがこれと似たものを園芸に使っていた気がする。

「よし。お前も力がありそうだな。お前が持ってろ」

「えっ、でも、ゾーイのほうが力がありそうだけど」

 正直なところ、ずっと持ち歩きたくない。やっぱり重いしなんか怖いし。

「たしかに、まーそんな感じがするけど、オレじゃうまくできないような気がするんだ。ちっとは心強いだろ?」

 持たなきゃいけないことに顔をしかめてしまったのだろう。彼女は笑った。

「重けりゃ持ってやるよ。それくらい安いもんだ」

 二人は部屋の中を改めて見まわした。

 ずっと不吉な予感がしていたが、どうしてもそのことを考えて、なにか行動しないといけなくなった。

「さて、この部屋にはなんもなさそうだな。ほんとなにもねぇ。扉もないじゃねえかよ。いったいオレたちをどうやってここにいれたんだ?」

 この部屋には扉が無かったのだ。壁じゅうがコンクリートに固められている。

「ねえ、この壁、新しくない? わざわざ塗り直したのかな?」

 ゾーイがだしぬけに壁を何度か叩いた。丹念に、ていねいに壁中を手のひらで叩くと、照れたように肩をすくめた。

 壁からは、なにやらこもったような音がしただけだった。

「なんもなさそうだ。くそっ、あったらおもしろかったんだけどな」

 ゾーイの声は震えていた。

 たしかに。どこからも虚ろな音がしなかったように思う。

 それなら、自分たちはこの、扉もない部屋に閉じ込めらたことになる。

 考えたくないほど怖いことだった。

「ねえ、わたしたち、服の中になにか持ってたりしないかな」

 服の中身は良く調べていなかったから、アリスは提案した。

 もちろん、とにかく気を紛らわせたいからでもあった。

「服? ああ、そういや、胸ポケットの中になにかあるぜ。なんだこれ? 本?」

 ゾーイは本を取り出した。読み古されたペーパーバックの書籍で、古風な表表紙には、栗色の髪の毛の女の子が、白いエプロンと青いワンピースの裾を揺らして、ウサギを追いかけて走っている扉絵がある。

「あっ、それわたしの。ごめん。受け取ってもいい?」

「ああ、そりゃ当然だろ」

 受け取って、自分の名前の頭文字が、表表紙の裏に書いてあることを確かめた。

 裏表紙の裏側には、alice in wondelandと、自分の手で真似してみた飾り文字も、しっかり書いてある。

「よかった。わたしの本だ。ゾーイ。これって知ってる?」

「え? ああ、知ってるぜ。でも、オレは映画しか見たことないな」

 あんまり興味なさそうなので、すこしむっとした。

 とりあえず今は読んでいるような余裕はなさそうなので、シャツのボタン付きポケットにしまい込んだ。

「そうなの? 読んでみたらいいのに。面白いよ」

 ゾーイはまるで気にしてないみたいに、肩をすくめて見せた。

「オレはどうも読書ってのが苦手でね。ところで、おまえは何かしら服の中に見つけたのかい?」

 チャック付きのポケットを両方とも探ってみると、両方に一つずつ、輪っかのようなものが入っていた。

「これ、なんだろ? あっ、これ、指輪? わあ、すごく綺麗」

 両方の手のひらに、やさしくそっとのっけて、じっと見た。

 それぞれ色の違う指輪で、ママの結婚指輪みたいに、くすみ一つなくほんのりと輝いている。これ、一部は白金で出来ているんじゃないだろうか。

「へえ、高そうな指輪だな」

 ゾーイも身を乗り出すようにして、アリスの手のひらをのぞきこんだ。

 古風なことに、外ではなく指輪の内側にも文字が彫り込まれている。

 うっすらと赤い指輪の方には、外側に名前。Maria.

 イエローゴールド色の指輪の方にも、同じように名前。Rufus.

 指輪の内側にはこうあった。I'll be with you.

 いずれの指輪にも、おしゃれな文章が刻まれている。

 ゾーイはニヤつきながら指輪を眺めていたが、だんだんと、口元を結んでつらそうな表情になっていった。まるで、すごくイヤなことに気づいたみたいに。

「これ。オレのオヤジと母ちゃんの、名前が書いてある」

「えっ、そうなの? じゃあ、ゾーイに渡さないとね」

 手渡してから、その深刻さに気付いた。

 人の指に少なくとも10年は嵌めている指輪にしては、きれいすぎる。まるで、すっかり綺麗に、専門の機械で洗ったみたいに。

 パパとママは、たまに結婚指輪をきれいにするため、一年おきには宝石店に通っていた。でも、外す必要のある時だって、無造作にどこかにやったりはしない。

「だ、だいじょうぶだよ。その、ええと」

「ああ。でも、でもさ。なんでこんなところに。オヤジが大枚はたいて、見栄を張るために買っちまったんだって、そういって、二人して冗談の種にしてたのによ。しかも、オヤジなんて、もう外せないとかいって、痩せればいいのに馬鹿みたいに嬉しそうにしてさ。もっと、なんか、渋そうな色してたような、気がするんだ」

 ゾーイの手は震えていた。彼女は自分の指にはめようとしたが、父の指輪をつけるには指が細すぎた。

 そのあと、頭に生えている腕のようなものの指に、ぎゅっと押し込むと、すっぽりと二人分がはまった。離れまいと、しっかりとくっついて、あるいはくっつけてもいるみたいに見えた。その腕だけを頭の上に巻き込んで、縮れた髪の毛の奥に隠した。

「き、気にすんなよ。いまは、ここを出よう。それが一番だ」

 二人はおさらいのように部屋中を探し回ったが、しばらくしても、やっぱり何も見つけられなかった。動揺しすぎていて、集中もしづらいように感じる。 

「どうしよう。この部屋。壁ばっかりで、やっぱり扉もないよ」

 天井の隙間の通風孔から、なんだか冷たい風が吹いてくる。その風の臭いはなんだかカビでもつまっているような、生臭くて湿った臭いがする。ずいぶん長い間掃除もしていなさそうだ。

 やっぱり自分たちは危ない目にあっていて、閉じ込められてしまったんだろうか?

 さっきよりも口数が少なくなって、少しの間、黙り込んでしまった。

 後ろ向きに考えてうつむくアリスをみかねてか、自分もしかめ面をしていたのに、無理に元気を出しつつも、ゾーイがこう言った。

「足元はどうだ? そうだ、タイルをはがしてみるか」

 アリスの手からスコップを受け取ると、彼女はゴムタイルをはがし始めた。

 そのあいだ、アリスも壁を叩いて、どこかに、向こうへつながる抜け道が無いかを探した。さっきよりも精いっぱい勇気を出して、手のひらで強く壁を叩く。

 一方、ゾーイがゴムタイルをはがし終え、裏返して確認していると、一つだけ、鍵が張り付けられたタイルがあった。そうやって隠していることに、にじむような悪意を感じて、ぞっとした。

 それでも、前進には違いないし、誘い込まれるにせよ、相手の目論見を一つは終わらせてやった。彼女はにやりと笑うと、アリスに鍵を示しつつ、自分も覗きこむ。

「鍵があるぞ。ずいぶん古めかしい鍵だな」

 タンブラー錠に使う、旧式の鍵だった。

 さび付いていないが、なんだかやたらヌルヌルとしたものがまとわりついて黒ずんでいる。

 ゾーイがきれいそうなゴムタイルで鍵を拭っている間に、アリスも、壁に鍵穴が開いていることに気づいた。たんなる穴かと思ったら、ちゃんと鍵穴の形だ。

 趣味の悪いなぞかけのような感じがして、とても嫌だ。

「ゾーイ。ここに鍵穴があるよ。でも叩いても音はふつうだね」

 ゾーイが壁を叩いて、よく耳を澄ませた。

「いや、まて。ちょっと音が違う。ごまかすためになんか詰め物でもしてるのか? よし、アリス。鍵を使ってくれよ。オレだったら壊しちまいそうだ」

 アリスはうなずいた。自分が鍵を壊してしまわないように気を付けて、鍵を両手で包むように、鍵穴に差し込んでゆっくりと回す。

 手ごたえがあった。ちゃんと回って鍵が外れたみたいな音がしたけど、これといって何も起きない。アリスは鍵をポケットに入れて、その壁をじっと見た。

 よく見ると、壁がなだらかに膨らんでおり、向こう側にちゃんと扉があるように思える。ゾーイも気づいた。

「これ、やっぱ扉だな。よく見ると壁からすこしだけ、ドアノブのてっぺんあたりが浮いてる。よし、鍵が外れたなら力ずくでいけそうだ」

 ゾーイはアリスに、端っこでうずくまっているように言ってから、手首をひねってよく伸ばした。スコップを抱え込んで、ニヤっと笑う。いまにも突っ込みそうだ。

 それでも、アリスがまだ離れたりしないので、ゾーイは怪訝そうに眺めた。

「あれ? 離れてろって。どうしたよ?」

「あっ、ゾーイ。わたし。べつのポケットにハンカチをもっていたよ。これで口を覆って。ほら、二つあるから大丈夫だよ」

 不意を突かれてか、ちょっと恥ずかしそうにして、アリスが差し出した手巾で口元を覆った。青い花柄で白地の手巾が、スコップを担いだ少女とちぐはぐだった。

 アリスが部屋の隅でうずくまったのを確認して、彼女はスコップを振り上げた。

「よし、やるかぁ!」

 後ろを向いたとたん、すごい破壊音がした。指図通りに思わず耳をふさいだ。割れたガラスが吹っ飛ぶような音と、金属が割れるような音。

 あれ? こんなことが、わたしたちってできたっけ?

 土煙がすごい。ハンカチで口元をおさえてないとむせそうだった。

 古ぼけたコンクリートのにおいがする。パパがそういえば、家の前の道が雨でぬかるんでしまったときに、こんな感じにおいの粉を買ってきて、日曜大工がてらに埋めていたような気がする。

「うし。壊したな。窓のある扉か、これ。外も見える」

 アリスはその声を聞いて、心配で彼女に駆け寄った。

 もうもうとした煙たい粉が、窓の奥の闇に吸い込まれていく。空調が動いているような音と共に、より冷たい空気が入り込んできた。

 扉を覆っていたモルタルは薄っぺらで、硬い紙のような詰め物がほとんどだった。素人目にも、壁の音をごまかすくらいできる、ずいぶん特別な紙に見える。

 とはいえ、紙だから、簡単に壊すことができたんだろう。

「大丈夫? 怪我してない?」

「ああ、手のひらも平気だ。こいつも頑丈だぜ、傷一つない」

 たしかに、どこも怪我がなかった。硝子が刺さっていないか確認したけど、そういう問題もなさそうだ。スコップも、少し粉が付いただけで、傷もついてない。

 割れた窓に引っ掛かりそうになったハンカチを、ゾーイはそのまんまポケットにしまいこむ。不思議と、ハンカチ無しでもあまり煙く感じないような気がした。

 それより、あまりハンカチを汚したくなかった。なんだろう、この扉の向こうにある不潔さは、ハンカチを使うべきでないという直感が働いた。

「悪いね。今度気にされるのがオレの番で。これは洗って返すから、心配すんなよ」

「えへへ、どういたしまして」

 おどけるゾーイに笑いかけてから、アリスは彼女を手招きして、窓の外を覗いた。

「なんだろ、すごく暗いね」

 真っ暗な廊下だった。左右にぎりぎり、ぼんやりと赤い光が見える。

 たぶん、火災報知器とか、あとは消火栓の照明だろう。

 アリスの耳元にかぶさるよう、ゾーイは大胆に首を伸ばし、顔は外に出ないようにしつつ、廊下を覗き込んだ。

「病院か工場みたいな、いかつい建築の場所だな。最悪だぜ、薬でも盛られてどこかに閉じ込められたんじゃないだろうかと思うよ」

 そう言いながらも、自信がついたのか、手指をパキパキと鳴らしている。

「怖いなぁ。でも、ゾーイの力だったら、それくらいなんとかなりそう」

 誉め言葉に、彼女は悪戯小僧みたいににやけた。

「単なる火事場の馬鹿力さ。そんなもんだろ。よし、開けるぞ。吸うなよ?」

 彼女に扉から離れさせられると、ゾーイがドアノブに息を吹きかけてごみをとばして、握りこんだ。ドアノブには分厚くテープが貼ってあり、しかもモルタルで固めてあった。

 スコップに鋭く削り落とされて、焦げ臭いような、埃くさいにおいに、アリスは思わずハンカチ越しに鼻を覆った。

 もう片方の手で目を覆ってから、二人は覚悟を決めた。

 彼女がノブを引いてみると、扉はあっけなく開いた。それでも粉が浮き上がるようにもうもうと飛んだ。

 乾いたコンクリートよりも古びたような、なんだかへんに古臭いにおいがする。

 煙い粉がおさまってから、そろそろとアリスが扉に近づこうとすると、ゾーイが手を伸ばして止めた。

「後ろに居ろ。なんかあったら逃げろよ」

 扉の先は真っ暗で、ほんのうっすらと見えるだけだ。

 非常灯のせいか、起き抜けだから夜目がきくのか、割と遠くまで見える。

 二人は部屋から出て、正面の白い塗装の壁と扉の間に立って、左右を見た。

 こもったような空間の中に、食べ物が腐ったような酸っぱい腐臭が漂っている。

 壁の塗装は清潔感のある白いものなのに、よく見ると塗料に縞々の模様があった。

 壁にまで、カビのようなものが生え育っているのだった。塗料がはげ落ちた部分は、モルタルがじくじくと湿って溶けている。

 天井の照明は割れていて、取れてしまったものが床に落ちている。

 アリスは靴を、ゾーイは留め帯付きのサンダルを履いているけれど、踏み出すのが、なんだか怖かった。

 まわりがあまりに息苦しく、ハンカチを思わずとってしまった。なぜか、ハンカチがないほうが良いような気がする。

 なぜ? でも、その直感を優先することに、なぜか逆らえなかった。

 ちゃんと畳んでハンカチをポケットにしまうと、気づけばゾーイは決まり悪そうにハンカチを畳み直していた。適当に突っ込んだのがなんだか恥ずかしくなったのだ。

「さて、どっちに行けばいい? それに、やばいやつが来たらどうすっかな」

 左右に首を回しながら、ゾーイはアリスに問いかけた。

「相手が大したことないなら、スコップを突き出すくらいはするよ」

「そりゃ心強い。そうだ、ちょっとやってみろよ」

 ゾーイからスコップを受けとって、何もない暗闇目指して突いてみた。

 思いのほか、ちゃんと突き出せる。腰を入れる方法が、なんとなくわかる。

 力のこもった突きは、なぜだか、さっきのゾーイ並みに強いような気がした。

「こりゃ頼れそうだね。お姫様と騎士の役目を交換するか?」

 その、冗談交じりの誉め言葉を聞いて、認められたような、なんだかこそばゆいような嬉しさがあった。

「いまどきはお姫さまだって戦うもん。それに、探検はゾーイのほうが得意なんじゃない? なんだかそんな感じ」

「言うね。さて、左は扉が一個しかないな。おっ、右のほうに非常口のランプがあるぜ、電源入ってないけど。あっちはどうだ?」

 扉から向いて右側には扉が四つあって、奥には確かに、非常口のランプがある。

 電気はついてなくて、光はただ、消火栓の上に灯る赤いランプだけだ。その光に、幽かに浮かび上がって、非常灯が闇の奥にあるのが見える。

 ゾーイがアリスの手を無造作に握って歩き出したので、アリスは遅れまいと、スコップを落とすまいと歩きだした。

「ちょ、ちょっと速いよ」

「あ、悪い。出口のせいで嬉しくてね」

 アリスも、べつだん引っ張りまわされたわけでもなく、まんざら嫌でもなかった。

 二人して非常口に駆け寄ると、そこには扉が無かった。

 鍵穴もない。叩いてみても、感触はただの壁。非常灯があるのに扉が、ない。

「なんだこりゃ? くそ、迷路のつもりか? 誰だか知らないが、とんだ迷惑なことしやがって」

「そっちの扉も、なんだか変だね。ペンキで描いたみたい」

 四つの扉に見えたものは、なにかの空洞がモルタルで埋められていて、その表面に扉の絵が描いてあるみたいだった。

 扉の表面には、赤インクの乱暴な殴り書きで〈職員室・a staff room〉と書いてあるけど、部屋があるのかがはっきりしない。

 ただ、古びたプラスチックの表札には〈お手洗い・restroom〉と書いてある。

 ゾーイが身震いして、アリスを引っ張って通路の真ん中に戻ってゆく。

 あんまり強く引っ張るので、あやうく足がもつれかけた。

「ゾーイ、ちょっと引っ張りすぎだよ、調べなくていいの?」

「ああいうのはな、映画じゃ罠とかあるんだよ。慎重にやらないとな。奥の扉に行こうか。あっちはちゃんとした扉みたいだしな」

 それに、自分たちを閉じ込めていた部屋だって、コンクリートで固められていた。

 そう、だから、ゾーイはすぐに離れたかったのだ。

 罠のつもりなら、ヘンなものを入れているにきまってる。映画だったらそうだ。

 それとも、自分たちみたいな人が閉じ込められているのか?

 それは、二人の間に兆した、ほんの少しだけの期待と、迷いだった。

 そのとき、突然、絵にかいただけの扉から音がした。

 まるで重たいものでもぶつけるような鈍い、大きな音。

 二人は一瞬、体を固めて振り返った。

 いつの間にか、非常口のランプが緑色に灯っている。

 走る人のピクトグラムが、溶けたように歪んで見えた。

 いや、じっさいに、プラスチックが溶けて、ヘンな形になっている。

 また、大きな音がして、こんどは絵の扉から破片が少し落ちた。

 描かれた扉の向こうで、何かが体をぶつけている。そんな直感。 

 音は止まらない。止まらずに、もっと激しくなっていく。 

 体をぶつけているにしては、あまりにも乱暴な音が、気に障った。

 怖かった。頭の奥に響くほどの危機感。

 なにか、なにかが、こっちに来る!

 その直感は、二人がお互い感じたことのない、鋭い危機感だった。

「離れよう。アリス、鍵持ってるな? もしかすると使えるかもしれない、行け!」

「えっ。ゾーイは? そんな、わたしだけじゃ怖いよ!」

「行くってばさ。早く! むこうにいるのが、偏執変態野郎だったらやべぇぞ!」

 二人は走った。こんなに早く走れただろうかと思いつつ、扉にたどり着いた。

 ひねってもノブは動かない。

 震える手で鍵を差し込むと、ちゃんと動いて鍵が外れた感触がした。

 抜き取って、チャック付きのポケットへ、大事にしまいこむ。その行儀のよさに、ゾーイは褒めつつおどける。

「よーしいい子だ。誰かいないか、オレが先に中を――」

 ゾーイが扉を壊した時と同じくらいの、すさまじい破壊音がした。

 石が零れ落ちて音を立てるような、パラパラ、カラカラといった音が、ひどく後を引くように響く。

 二人が通路の奥を見ると、橙色の服を着た人がいた。

 この博物館の制服は橙色なので、たぶん職員の人だろう。

 声をかけようかと、そう思って、ほんの一瞬だけ迷った。

 でも、なぜか、それを迷ってはいけない理由が、心を突き刺すようにわかった。

 そう、その人はコンクリートまみれだった。服は無残にも砕けた欠片に包まれていて、埃まみれにみえる。

 伸ばした腕が非常灯に晒されて、欠けたような指は、灰色の部分に染み出るように、血が付いているように見えた。

 その人は、まるで息をしてないように、胸が上下してない。

 ぼんやりと立ちすくむと、やがて、半分以上背を向けた、うつむき加減の状態から、ゆったりとふらつくように腰を回し、その人はこっちを見た。

 その人の顔を、絶対見たくなかった。

 見てしまったら、そう、決していけないような気がした。

 赤い非常灯に下から照らされ、上から緑色の光に照らされたら、だれでもひどい見え方をするかもしれない。

 でも、その人の顔は、その半分以上が歪んで、まるで、まるで肉がむき出しのような色をしていた。

 その人が咳きこむと、口から、血のように粘ついたものが流れ落ちる。

 ありえない。

 その人は、とっくに死んでいるのに。

 とっくに死んでいるような姿なのに。

 動いて、こちらに歩いてくる。

 腹がよじれるような空腹の音がここまで聞こえ、薄赤いよだれを垂らした人が。

 急に、天井のスピーカーから声が聞こえてきた。

 さっきよりも早口で性急な、人工音声の女性の声。

「どうぞ、館内で道に迷われたお客様は、係員の指示にしたがってください」

「当館の迷子預かり施設は、経験豊富なカウンセラーが常駐しておりまして、お預かりしたお子様は、無料でお食事も可能です。迷子になったお子様は、恥ずかしがらず、ぜひ気軽にお近くの受付へ」

「そこでお待ちください。そこでお待ちください。そこでお待ちください」

「お客様。係員の指示に従ってください」

「tow. tow.tow! tow!!」

「か、係員には、食事が必要です。お子様はどうぞ、しょ、食事になってください」

 その声を聴いていると、また力が抜けるような感じがあった。

 すぐにでも逃げないといけないと、自分の心が言っている。

 それなのに、なんだか縋るように、混乱した言葉が口を突いて出た。

「ひ、あ。な、なんなの? あの人? えっ、あ」

 自分の腕を強く握りこむ力のおかげで、はっとした。

「なんだ、あれ。映画の、ゾンビ? ああ、くそっ!」

 ゾーイの行動は速かった。変な人が歩き出す前に、扉に手をかけた。引いても開かず、一度扉が揺れる。扉は押すと開いた。彼女はアリスを引っ張りこんで、後ろ手に閉めた。

「くっそ押扉かよ! アリス、アリス! もっとこっちに!」

 ゾーイはすぐに部屋の中に駆け込んで、あちこちを眺めまわした。

 アリスはとりあえず、扉のつまみを捩じって、鍵をかけた。扉から後ずさるあいだ、なんだか生きた心地がしないような、頭がしびれるような恐怖を感じる。

 目の前には水道の蛇口があって、明るい色の流しにつながっていた。

 流しは埃が積もっていて、緑色の石鹸が置いてあるかと思ったら、緑の部分は全部カビだ。そう、石鹸箱にびっしりと生え育っているのだった。

 点滅する蛍光灯は、自分たちが居た部屋よりも弱っているように見える。

「have a hunt maidens」

「人間はとても長い期間にわたって、狩猟と採集、簡易的な栽培行為で命をつないできました」

「とくに、畜産が始まるまでは、狩猟は肉を獲得する重要な手段の一つです」

「have a hunt game meat!」

 女性の音声はいまや醜く金切り声のように歪み、ノイズに混じって、男性の低い声が聞こえてくる。

 とても、とても嫌な言葉の連なりが、扉を閉めると少しは遠のいていた。この部屋の中にはスピーカーが無いか、動いていないみたいだ。

「誰もいねぇ! おい! ここを塞ぐぞ!」

 ゾーイは、職員用とおぼしき冷蔵庫に飛びついて、横倒しにした。

 すぐに片方を持ち上げ、力づくで押して扉側へ押しやる。

 それから背負い上げて、そのままの姿勢で歩き出し、不安げにふらついているアリスに声をかけた。鍵をかけた後、どうすればいいのか分からずにいる姿を見かねたのだった。

「鍵をかけてくれたか! ナイスだ! ちょっとそこをどけ!」

 鍵をかけたことをほめてくれたのが分かったけれど、あまり勢いが強いせいで、とびのくことになった。

 横に飛びのいたとたん、ゾーイが冷蔵庫を担ぎ込んで駆け込んだ。やや引きずるようにして、空っぽの重みを支えている。

 アリスも、もうすこし扉から離れて、部屋の中を落ち着きなく眺めた。

 そこは食堂のような場所だった。調味料の匂いにしては変にこもったような、嫌な臭いがする。机の上にも椅子の上にも、たっぷりと埃や塵が積もっていて、雰囲気も悪い。机のかけ布にも、布張りの椅子にも油が浮いたような網目模様がこびりついている。それもぜんぶ、カビか何かだ。

 通路の向こうでは、新しい破壊音がした。一人、そしてあと二人か、やけに重みのある足音が、速足で近づいてくる。まだ、放送も続いている。あと一人の誰かが自由を求めて、壁を激しく叩いている。

「狩猟行為については現在、職業としての狩猟以外は非合法です。国際連合平和委員会の指定した自然管理法よって、野生動物は完全な保護が実現されました」

「しかしながら、人類の過去と、かつての営為の尊厳を学ぶためのレクリエーションは必要です。当パビリオンでは、重金属汚染されていない養殖鳥獣を自然公園区画内に放し、古典的狩猟法による捕獲から調理までを行えます」

「成人された方ならば、安全な銃器と、動物に配慮した罠を用いて、一日に一度の人文的ツアーに参加しませんか?」

「hunting game meats maiden」

「go back maidens?」

 激しい音とともに、扉が何者かに思い切り殴られた。

 扉がいくらかひしゃげてしまい、その細い隙間から、廊下の恐ろしい声をごちゃまぜに響かせる。それでも、扉は壁に突っ張った冷蔵庫に支えられ、なんとか持ちこたえた。

「あそこにあるやつを倒してくれ! 二つありゃいける!」

 手前に押し返されないようにゾーイが思い切り冷蔵庫を押し込むと、床のフローリングの塗料が焦げるような臭いがした。アリスがもう一つの業務用冷蔵庫を思い切り倒すと、中から保存食品が飛び出して、どす黒く変色した中身が見えた。

 果物の絵から、かつて甘味のお菓子でも詰められていたのだろう。職員の手書きか、nice content! なんて書いてあるけどいったい何が入っていたのか。

 スコップをテコに持ち上げて、片っぽを持つと、意外やそんなに重くなかった。

「俺も担ぐから! そっちやってくれ!」

 ゾーイが走って戻ってきて、空いた隙間に指を押し込んで、軽く持ち上げた。

 アリスも負けじと抱え上げる。

「こっち持ったよ!」

「おっしゃあ、いいぜ走るぞ!」

 二人で担ぐと、本当に軽くて、そのことは違和感として確かに感じられた。

 水道のある空間はちょうど部屋の隅にあって、横に倒した一つの冷蔵庫で完全に塞げるぐらいの壁の幅がある。もう一つを重しに、扉を抑えるように、壁際へ冷蔵庫を押し込むと、外から扉を殴られても、扉から音が聞こえるばかりになった。これならちょっとやそっとでは開きそうもない。

「博物館の文物、備品及び、係員やお客様に危険があり、係員の指示に従わない入館者には、警察への通報、あるいは警備員や監視係員による制圧がおこなわれることがあります。これは博物館規約bbbbbggggghhhhhhffff条に記載された連邦施設員の《権力》ですhuhhudddddhhhhhhhagggggggキィアァァァァァアー!!!」

「go back maidens! oh! those spoiled brats slaughter!!」

「qeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeekeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeee!!」

 悪意のこもった言葉を覆い隠すような、丁寧な解説のあと。

 スピーカーから聞こえてくるのは、もはや異常極まりない奇声だけだった。

 直後、扉がめちゃくちゃに叩かれて、がたがた、びしびしと揺れた。

 冷蔵庫は壁を挟んで扉をしっかりと支え、向こう側からくわえられためちゃくちゃな打撃を跳ね返した。

 尻餅を搗くような音。腕をついたからか、骨の折れる鈍い音。

 そして、痛みでも感じているようなうめき声をあげた。それは、人の声じゃなかった。人間は、こんなに鈍い声をあげたりなんかしない。こんな、こんな怖い動物みたいな声はしない。

「よし、もう一丁だ」

 ゾーイが机や電子レンジなどを冷蔵庫の上に積んで、洗面台の隙間に机を押し込もうとしているあいだ、アリスはぼんやりとしていなかった。

「縄がある。これで足止めできるかも」

 名前のインクがどろどろになった、たぶん備品を詰めていたであろうプラスチックの箱の上に、化繊の縄がおいてある。アリスはそれを壁に付いている歩行補助の部品の二つに巻き付けて、がっちり縛った。大人の膝丈くらいに。入り口の足元に。

 もし入ってこられても、きっと転ぶことを期待して。

 その直後、激しい勢いで扉が叩かれ、蹴りつけられ始めた。冷蔵庫ががたがた揺れるが、壁に押し戻されて、うまいこと嵌ってくれている。

 それでも、扉が鋭い音を立てて、表面の塗料がはじけ飛んだ。

 冷蔵庫がぶつけられて、洗面台から割れるような変な音がした。下の水道管にヒビが入ってするどい音を上げる。ゾーイが押し込んだ机が、頼りなげに壁際で頑張っているが、このままじゃ隙間が空いてしまう。

 このままじゃ、やっぱりいつか壊されてしまうかもしれない。

 なんで、あんなふうに死んでいるのに、こんなに力が強いんだろう。

 気づいたら、ゾーイに腕をつかまれていた。笑ってる。

「いいぞ! でも扉を壊されたらたぶん持たねぇ。奥はどうだ?」

「あっ、気を付けて、縄が」

「いい高さだな! こういうの、オレは好きなんだぜ」

 ゾーイに腕をつかまれて、むこうから縄をまたぎながら、彼女が先に走っても、おどおどしないでついていくことができた。

 たぶん、彼女の影響を受けて、心強くなったんだと思う。

 食堂から続く部屋は一つだけだった。入り口の扉が壁にコンクリートで縫い付けられていて、閉められないようになっている。

 窓のなくなった扉を壁に巻き付ける形で、さび付いた針金が飛び出していて、ずいぶん頑丈に壁に埋め込んであるみたいだ。

 埃にまみれた厨房の中には、すっかり悪くなった揚げ油のひどい臭いがこもっていた。ピンク色の岩塩の瓶の中身や、粒コショウの瓶の中身さえも、気味の悪い白いカビに塗れている。金属製のかつて清潔感があっただろう台所は、見る影もなく錆果てており、揚げ物に使う大きい調理器の中から、ぶよぶよと得体のしれないキノコのようなものが生えていた。

 カビだらけで埃塗れの厨房の窓からは、食堂の様子がほんのりと見える。嵌めごろしの窓で、不潔すぎてろくに向こうが見えない上に、動かせそうもない。

「くそっ、行き止まりかよ!」

 この不潔な厨房の中には、使えそうなものがなんにもなかった。さっきよりでっかい冷蔵庫は、壁に鋲で固定されていて動かない。

 一方、食堂側の反対にある、不自然なほど塗りたくられた形跡のある壁が怪しい。どうやらもう一つの扉がありそうな感じがする。

「また壁を探そう! ここはちゃんとした施設だもん。どこかに通用口があるよ!」

「よし、そうと決まればそこの壁――」

 そのとき、食堂からまた、すさまじい破壊音がした。

 アリスはゾーイの手を振りほどいて、厨房の入り口からそいつらを見た。

 扉の鍵が壊されてしまった。やつらは大儀そうに扉に纏わりついていて、扉の隙間から無理に入り込もうとしている。

  なんの表情も浮かべていない、だらけきった顔が、腕をめちゃくちゃにうごめかせながら、四つもこちらを見つめている。互いを殴りつけ、もがきながら。

 腕があちこち折れているにも関わらず、何の痛みも感じていないかのように、あざの浮いた腕を平気で振りかざしている。

 見たくないけどよく見ると、コンクリートの粉塵まみれの顔には、まるでカビでも浮いているような網目模様があった。生きていようと、どう見てもまともな状態の人間じゃない。

 このままじゃ、全員入ってきてしまうだろう。もし走ってこっちに来たら、厨房は狭すぎて逃げ場がない。所狭しと機材があるせいで、掴みかかられたら、そのまま押し込まれて、そして。

 そして、あの扉と同じように。

「心配するな。な? おまえはこの部屋を探してくれ」

 口元が引きつっているアリスを見かね、ゾーイがアリスを押しのけるように前に出ると、まるで獣みたいに足を開いて、しっかりと立ち、歯をむき出した。

 なにをしなければならないのか。はっきりと、まるで脳裏に読み上げられるように彼女にはわかった。

 犬歯に、乳白色の液体がまとわりついていた。彼女が掲げた指先の爪が、まるで鋭く伸びたみたいに見える。

 その姿は、虎とか狼とか、恐ろしい猛獣みたいな風情があった。

「オレがやる。ここで迎え撃つぞ。障害物も多いしな」

「えっ、でも、そんな。こ、怖いよ、やらないとだめだって、わかるけど」

 そんな、情けない言葉が口を継いで出た。スコップを握りしめる手が、まるでしびれたみたいに震えている。

 でも、奇妙なことに、どうやって戦えばいいかが分かる。

 まるで、最初から知っているみたいに。

「やるしかねぇんだよ。やられっぱなしは性に合わねぇ。なんだか、できるような、そんな感じがするんだよ」

 ゾーイは机を握りこんで、脚をもぎり取った。指先から滴る白い液体が、まるでえぐるように金具を溶かしている。

「わけわかんねぇ状態だな。ミュータントにでもなったみてぇだ、うらぁ!!」

 足の無くなった平べったい机を両手で振り上げ、ゾーイは扉の隙間にぶん投げた。

 縦に回転して飛んでいく机が、顔をのぞかせた相手に見事、直撃した。

 一人の頭に机が突き刺さったと同時に、二人を巻き込んで倒れる。だが、壁の水道管の壊れる音と共に、一人が隙間を抜けて、こちらに踏み出した。

 踏み出しながらも、アリスが張った縄に蹴躓き、両腕を突いた。

 骨が折れる音がする。だがその男は、そのまま腕をついて、こちらを見た。

「ひっ」

 間近に近づいてくると、やっぱりこの人は、もう死んでいるような状態だった。

 めちゃくちゃになった顔の中、網目状の汚らしいカビの浮いた眼球が、たしかにこちらを眺めている。そいつはまるで獲物でも見つけたように唇をほころばせると、その隙間から、赤緑色のよだれを垂らした。

「やんのかオッサン。おい、下品だな。ろくな挨拶もなしか?」

 ゾーイはほとんど四つん這いの状態にまで姿勢を低くすると、起き上がろうとしてうごめく男に向けて突っ込んだ。信じられないような速度で迫ると、立ち上がり際、よろめくように手を伸ばそうとした男の腕をかいくぐり、貫き手を打ち込む。

 男の胸に突き刺さった手は、彼女が支える男の肩ごと、そのまま跳ね上げるように、切り裂くように上へと、抵抗もないように、動いた。

 まるで、ぎざぎざした刃みたいに固まった白いものが、喉を下から引き裂く。そして、ろくに血も流さずに、それでいながら、中身がやたらとうごめきながら、そいつは飛び上がったゾーイに膝で蹴られて倒れた。

 そのままゾーイは、相手の胸を踏み台に、前宙返りの勢いで、扉からはみ出してきたやつの頭に腕を全力で振り下ろした。

 頭が、斧で打たれたように叩き潰されて、そのままほとんど動かなくなった。そいつの体は、痙攣したり中身がうごめいたりしているけど、明らかに弱い動きだ。

 机の突き刺さった男は、そのまま何もできずに、ゾーイの腕の一撃で首から上をもぎ取られた。

 転倒した状態から起き上がり、掴みかかってきた最後の一人も、ゾーイに避けられて脇腹に掌底を打ち込まれ、骨が砕ける音とともによろめいた。そのまま腕を交差させて、首を刎ねようとする。

「アリス! これくらいならオレだけでいけそうだ。出口を探してくれ!」

 最後の一人の首に腕を振り下ろしながら、ゾーイは叫んだ。

 あんまりなことにあっけにとられていたが、アリスは気を取り直すと、厨房の方へ走った。早くしないと、まだほかにあいつらがいるかもしれない。

 調理室の端っこ、不自然なコンクリートの壁向けて、確認もせず、なりふり構わずスコップを打ち込む。

 ぐしゃ、と嫌な手ごたえがした。

 手が震えた。間違いをしてしまったと思った。力が抜けてしまったせいで、コンクリートの中から飛び出してきた腕に、スコップをつかまれた。

 指輪のはまった、大人の女性の、腐敗しきった手。

「うわあああぁ!」

 思い切り押し込んだ。相手がスコップをつかんでいる腕の力が抜けたとたんに、力ずくで無理やりスコップを引き戻し、頭がありそうな場所に思いきりスコップを突き出す。何度も、何度も。何度も。

 生々しい手ごたえと共に、コンクリートが崩れて、最後には中身が倒れてきた。

 橙色の服を着た、長い黒髪の女性。

 歯が抜けほうだいの、顔が潰れた状態で、倒れ掛かってきた。

 ぐいと後ろから掴まれて、アリスは叫び声をあげた。その女性はもう動かなかったけれど、引っ張り戻されたおかげで、ぶつからずに済んだ。

 抱え込まれた状態で、それが誰なのかすぐにわかっても、悲鳴を上げた。

「ひぃ、い、イヤ、イヤだって!」

「オレだ、オレだよ! 奴らはもういない。いないってば! 悪いな、次からは、声をかけるから、な、後生だから泣くなって」

 気づけば、アリスは歯を食いしばって、泣いていた。

 怖い。怖い! なんで、なんでこんな目に遭わないといけないの?

 パパも、ママもいなくて、ゾーイの家族も、ここにはいなくて。

 なんで、こんなに怖い場所に、なんで?

 泣いている彼女を慰めるため、ゾーイはアリスの頭を手のひらで包んであげようとしたが、両手とも白くて硬い液体に、うっすらと丸く塗れている。邪魔だと思うと、パラパラと両手から落ちた。その手のひらは、洗い立てのように清潔だった。

 そうだ、自分は人を殺してしまったのだった。急にそう思った。

 いや、今は戦ったことを後悔している場合じゃない。

 廊下の方から聞こえていた金切り声はいつの間にか消えている。イヤな気配も感じない。今は、進むことができる道を進む時だ。

 彼女に触れることはよして、しかたなく、ただ褒めて、この部屋から一刻も早く引っ張り出すことにした。まだ安全だと決まったわけじゃない。逃げるならば、ここからさらに注意しないといけない。

「でかした。扉があるな。こっち側につまみがあるから、開きそうだ。な、アリス。いい子だから、もう少し我慢してくれ。安全な場所を、探さないとな」

 アリスは泣き止んでこそいなかったが、なんとかあいまいにうなずいた。ゾーイは彼女の腕を包むように掴んでから、扉のつまみを回した。鍵が外れたようだ。

 ゾーイは、なるべく死体を見張りつつ、アリスに見せないようにかばいながら、扉を押した。今度は押しても開かない。外の音を聞き取って警戒しつつ、引くと外の景色が目に入った。

 大したことは無かった。薄暗がりの中、ビニールと鉄骨の足場に囲まれている。まるで工事現場にでも閉じ込められたような、薄暗い場所。

 ゾーイは景色のことより、周りの音を聞くことと、アリスを外に引っ張り出すことを優先した。足元は頑丈な階段だった。そのまま外に出て、アリスから鍵を借りて、扉に鍵をかけた。鍵を彼女に渡してから、泣きはらした黒い目を覗き込んだ。

「忘れ物はないな? 本は持ったか? 大事なものだから、もし無いなら」

 戻って、探してもいいと、言おうとした。

「大丈夫。ちゃんとあるもん。ゾーイの頭にも、ちゃんと指輪が二つあるよ。ほら、首の後ろに見えるのがちゃんとわかるもの」

 泣きべそをかきながらも、アリスはそう言って、微笑んだ。

 そうとう辛い目に遭ったのにもかかわらず、こちらの気配りをしてくれたことがうれしかった。自分には、こんなに淑やかにはできないと、ゾーイは考えた。

「階段の上に行ってみようぜ。周りが分かるかもしれない」

 外につながる階段の門は、瓦礫が積み上げられていて、使えそうなものもなさそうだった。破裂した缶詰や腐りきったお菓子の袋など、不潔なゴミが大量に転がっていて、通りたくない。外に出すまいと、こちらを誘導するような意図も透けて見えて気色悪い。

 アリスの手を握り、再び鉱石みたいに固まった右腕を掲げ、泣きべそをかいている彼女と、階段を上った。腕がほんのりと光って、あたりが割と見える。

 四階ほど、上がっただろうか。下の階は壁面を覆う養生のせいで景色もなにも見えなかったが、五階からは、ほんの少しだけ景色が見えた。

 ビニールと鉄骨で囲まれた風景の中、階段から顔を出して、上を眺めると、切り取られたように外が見える。

 夕焼けだった。どんよりとした雲の切れ目から、太陽の光が見える。

 雲は薄かったが、なぜか雷雲のようにうっすらと電流が走っている。

 きらきらとした粒子が空に舞っていて、それを吸い込んだら危ないという直感が、なんとなく働いた。

 視線をだいぶおろすと、目の前には無味乾燥な、この建物と同じくらいの高さの、似たような外壁の建物があった。空だけが、ここから見える景色だった。

 壁の下からは奇妙な腐臭がした。人間のようなものが転がっていたので、そのまま目をそらした。こちらに気づいて起き上がったりすると困る。

「屋上までいけそうだよ? ほら、ゾーイ?  梯子があるよ」

 気づいたら、アリスは手を離して、自分なりに探そうとしていたらしい。

 屋上まで階段が続いているが、その長そうな階段にも、たっぷりとゴミや瓦礫が積み上げてあった。

 壁に打ち込まれた頑丈な金属はしごだけが、屋上への道だ。

「うし。上を見てみよう」

 梯子は腐っていないものの、金属の表面にイヤなべとつきがある。

 アリスを待たせ、ゾーイが先に上った。

 何の音も聞こえず、へんな生き物がいるわけでもない。

 灰の積もった屋上は、煤けたようなありさまで、足跡がつくほど埃っぽかった。

 ゾーイは、周りを警戒しながらも、外のことが気になって仕方なかった。

 そう、この風景。夕焼けに照らされて、広がっている景色。

 必要な時しか、太陽が上からこの博物館を覗くことなんかないのに。

 とてつもなく巨大な天窓が、どろどろに溶け崩れている。

 太陽に触れることのないこの街の空が、壊れて無くなっていた。

 視線を下ろして、どこを見回しても、廃墟ばかりが目に付く。

 ここの博物館でいつか勉強した、ヒロシマ・ナガサキの爆心地を思い出した。

 あるいは、美しい海と小さな家のある島々に穿たれた残忍冷酷な破壊の痕や、殺風景な砂漠の中で行われた、残酷な実験場を思い出した。

 バカげた意地の張り合いに、自由と生存を言い訳にした悲惨な科学の成果。

 旗振り役も指図した人間も、自信のほどにはいい人間ではなかったとは、オヤジの格言の一つだったか。

 でも、この景色はヒロシマと同じか、もっとひどかった。

 形もない黒こげの住居。灰まみれで草一本生えていない花壇。

 ひしゃげたあげくに、酸性雨と有害な灰のせいでか穴ぼこだらけの車。

 気づけば、遠くからせせらぎのような音が聞こえる。

 水上隔壁が壊れて、市街のほとんどは水没している。まだ水道の機能が不完全に残っているのか、噴水のように、錆色の水を吹き上げている場所もあった。

 そして、わずかに動いている人影のような何か。

 水の中で、自分たちが出会ってはいけない何かがうごめいている。

 目を凝らすと、水の中でもがいている人影に、より大きな魚のようなものが近づいたかと思うと、一瞬で人影が姿を消した。

 まるで、何かに引きずり込まれたような。

 ああ、水の中には入らない方がよさそうだと思った。あとで伝えないと。

 博物館の後ろには、職員の人たちの団地があったのに、いまは爆撃のせいで、とけたチーズみたいにひしゃげたようなありさまだった。

 窓が全部吹き飛ぶどころか、家ごと溶けたみたいにねじれている住居もある。

 日が沈みつつある中、妙にキラキラした粒子が飛び交っている。

 ものすごくイヤな臭いがする。まるで洗剤カスみたいな甘ったるい臭いに、焦げ臭いにおいと、肉でも腐らせたような悪臭。

 そしてとどめに、遠くから聞こえてくる、無数のうめき声。

 そのどうしようもない状態に、冗談でも言うしかなかった。

「なんだよ、これ。チッ、閉館時間はウソだったか。世界平和博物館はまだ閉めるには早そうだな。だいたい、まだ夕方じゃねえか。なんだこの声。オヤジがいうところの、役立たずの政治屋気取りの手下みてーだ。うるさくて近所迷惑だぜ、まったく、お嬢さんには聞かせられねぇ」

 辺りを見回してから、慎重にのぼってきたアリスを上に引っ張り上げてやった。

「どうだ、アリス。疲れてないか?」

 アリスといえば、あたりの景色に圧倒されて、声もなかった。

 世界が滅びて無くなってしまった。そんな景色に。

「そこで休めそうだ。管理棟か? ほら、こっちに」

 顔をぬぐおうとするアリスの腕を止めて、引いていこうとしたときだった。

 そのとき、ぱらぱらと雨が降ってきた。肌にふれたとたん、粘つくような、焼けつくような感触がした。

「アっつ! アリス! 早くこっちに! ほら、オレの陰に!」

 埃の中から、ジュワっとイヤな音がして、この雨が危険極まりないことを告げる。

 腕と頭の腕も総動員して、彼女をかばいながら、管理棟へ駆け込んだ。

 中に入ると、えらく狭い空間であることに気づいた。階下の階段に続く扉は、溶接されてふさがっていた。配電設備と給水設備を管理する管理室の扉が開いていて、蛍光灯がついている。管理室の扉が、たくさんのごつい釘で壁に打ち込まれている。     

 飛び出したキノコにスピーカーを突き破られたラジオが乗っただけの仕事机に、仮眠用を兼ねたソファがある部屋だ。全体としてはカビがあまりなく、そんなに汚そうではない。雰囲気はよくないが。

 なぜか、清潔そうな毛布まで、ソファに畳んである。ご丁寧にも、雑巾のような清潔なぼろきれが積み上げられている。

 全部が手のひらの上の話のようで、どうも気味が悪い。布を調べてから、誰もいないこと、階段が安全かをまず調べた。

 溶接された扉は動かせそうもなく、人もいない。気配もない。

 余計なものを部屋の隅に寄せ、毛布やソファが安全かを、ソファの座席を開いたり、毛布を振ったりして、丹念に確認した。配電盤には、煙みたいな埃が巻き付いているので、ソファを動かして、寝転んだ時に顔が近づかないようにした。

 そこそこに埃や汚れをぬぐったあと、壁に隠れるように外を見ていたアリスを呼んで、外につながる大扉をぐいと閉めた。裏側に閂があるので、それも閉める。

 閉めたはいいが、真っ暗になってしまった。ゾーイは一つ思いついて、自分の腕にこびりついた白い石を叩き落した。体から離れても、ほんのり輝いている。

 どうにも夜目がきくせいか、これだけで十分だった。

「大丈夫か? う、ひどいな、なんだよあの雨、火傷になってる」

「わたしは大丈夫。ゾーイのおかげで浴びずに済んだから、ちょっと見せて?」

 そう、痛いはずだ。それなのに、別に痛みらしい痛みもない。

 鈍痛にも似た、イヤな思いを、ほんのりと感じるだけで。

 それは、なぜか取り返しのつかないことのような気がした。とっくに過ぎ去った苦痛をぼんやりと思い出しているような、その程度のものでしかなかった。

「いや、お前の確認の方が先だし、危ねぇから触っちゃだめだ。あ、れ? 肌が戻ってる」

 ぼろきれの中でもとくに清潔そうな布を片手にアリスを拭こうとしたところ、気づけば、雨の当たった部分がいつの間にか元に戻っていた。布で軽くこすると、かさぶたみたいに、墨みたいな雨が剥がれ落ちた。

 奇妙なことに、服に空いた穴まで消えてる。自分たちの体の一部みたいに。

 それは、イヤな予感を確信に変えるのに十分だった。

「ねえ、わたしたち、へんだよね。こんな、酸っぱい臭いがする雨で怪我をしても、簡単に治っちゃうなんて」

「ああ、そうだな」

 そのことを、ゾーイはあまり考えたくなかった。考えたくない。

 オヤジが言っていた。政府は妙な実験をして、軍人の体をいじくりまわしているとか、兵器のためやら、人間の臓器養殖のために、ヤバいやりかたで動物の体をいじっているとか。そういう、ビールでも傾けながらたしなむ、陰謀みたいな話。

 たとえば、たとえばだ。自分たちはとっくに死んでいて、政府の献体にでもされて、いつのまにか体をいじられた? まさか!?

 だが、たとえミュータントにされていようと、いまはやらないといけないことがいろいろある。

「毛布があった。うん、臭くも汚くもねえな。ほら、これにくるまれ」

 思うに、部屋の中も外も寒すぎる気がする。毛布にくるんでやろうとすると、ソファにしょんぼりと座り込んだアリスが、急にすがりつくように抱き着いてきた。

「怖いよ、ゾーイ。わたしたち、どうなっちゃうんだろう?」

 震えていた。まるで、雷でも怖がる子犬みたいに、心の底からおびえている。

「わかんねぇ。眠くないか? けがは?」

 こんなぶっきらぼうな言い方しかできないのが、歯がゆかった。

「大丈夫。あ、ええと、ちょっと眠いかも」

「おまえがちゃんと休めるまで、見ておいてやるぜ」

 ゾーイはソファに座り込んで、アリスを抱き寄せるように、自分も毛布の中にもぐりこんだ。

 それで、アリスは彼女が自分と同じくらいに怖がっているのが分かった。

 熱を持っているのに、ヘンに冷たいような体を寄せ合うと、さっきよりは怖くなくなった。アリスがゾーイの手を握ると、まるで縋るように握りこんできたのは、ゾーイ、彼女の方だった。

「まるで、この世の終わりみたい。どうなっちゃったのかな」

「オヤジも、母ちゃんも、どこにもいねぇのかな」

 自分のパパも、ママも、どこか遠い場所にいってしまったんだろうか。

 すごく悪いことが起きて、置いてかれてしまったんだろうか。

 そう思うと、わけもなく涙が出てきた。

「ゾーイ。あの。わたしから離れないで、そうしたら、独りぼっちになっちゃいそうな気がするの」

 お互いに血塗れだったはずなのに、いつのまにか、体の表面はきれいになっていたことが、とても不気味だった。

 まるで、自分たちの体が、飲み込んでしまったみたいに。

「離れやしねぇさ。もう少し休んだら、周りを探してみよう。もしかしたら、オレらみたいな、話が分かるやつもいるかもしれない。ほら、今は休め。離れやしないからさ。いっしょに居てやる」

 頭を寄せると、アリスの肌に髪が触れた。

 温い水が、頭に滴った。

 ゾーイも泣くことがあるんだとわかると、その胸に顔をうずめてむせび泣くことが、もう我慢できなかった。

「わたし、人を殺しちゃった」

「あの人らは、もう、まともじゃなかったよ。気になるなら、次からは、おれたちの仲間かどうか、ちゃんと見極めていけばいい」

 彼女の腕の中に居ると、とても安心して、それでいて、悲しかった。

「ごめんね」

「え?」

 大事な人と引き離されて、きっと、自分と同じくらい辛いのに。

「ゾーイは、あの、自分の家族と一緒にいたいと、思うから」

「バカ。ヘンな気を回すなよ。もう、オレたちゃダチだろ?」

 自分よりだいぶ小さな少女を抱きしめ、彼女は誓った。

 ぜったいに、こんなことをしでかしたやつを見つけて、ぶっ飛ばしてやる。

 ゾーイの覚悟をまだ知らずに、アリスは彼女の胸の中に顔をうずめた。

 彼女の、強くて優しい腕に抱かれて、アリスは祈るように、願った。

 自分は一人じゃない。

 ゾーイだって一人じゃない。

 それならば、あの人たちみたいに。

 あの人たちみたいになってしまわないような、おまじないを信じられると思った。

 自分たちは、あんな、あんな状態にならないって。

 怪物みたいな力があっても、怪物そのものになり果てはしないって。

 そう信じないと、眠ることも、納得もできない。

 なんでこうなったか、どうして、こんな状態なのか。

 それを、ちゃんと理解して、どうにか身を守るために。

 そのために出せる勇気は、ただ、彼女と抱きしめ合うことだけだった。

 しだいに、靄でもかかるように、眠りにも似た闇の中へと落ちていった。

 夢も見ない、まどろみのように温かいだけの、悲しい暗がりに。

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