『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』映画評 ユニバースを失ったぼくらはメタバースに籠もって静かに死ぬ

 シン・エヴァンゲリオンの全四部作の最終作であり、エヴァンゲリオンの名前で作られてきた『TVアニメ』『旧劇』のラストでもある。私がこの映画で考えてみたいのは、ラスト近く、物語上の「敵」(主人公と負の方向に自己実現した者)である碇ゲンドウを象徴的に倒したあとの「さようなら、全てのエヴァンゲリオン」というシンジくんの台詞について。ポスターにも「さらば、全てのエヴァンゲリオン」とのコピーが書かれている。「全てのエヴァンゲリオン」に「さようなら」を言うことが何を意味しているのかがわかれば、この映画全体がわかるだろう。それこそ、シンジくんの達成したこと、シンジくんによる人類補完計画のテーゼだから。同時に、我々は、ここから庵野秀明の「エヴァンゲリオンから離れて成熟しなさい」というメッセージを読み取った者たちにおける成熟が何を意味しているのかを理解できるようになるだろう。つまり、この、今の社会における成熟……。

 そもそもエヴァンゲリオンとは何だろうか。勿論、作品世界においては「汎用人型決戦兵器」であるが、原義は何か。エヴァンゲリオンとはイエス・キリストの福音のことである。では、イエス・キリストの福音とは何か? 知りたければ、あなた方は福音書を読んでもよいし、黙示録を読んでもよい。イエス・キリストの福音とは、つまり、この腐敗した、肉の世界が終末を迎え、千年王国が実現するということである。西暦とは実に、千年王国までの待機時間の長過ぎる記録のことだった。

 エヴァンゲリオンに別れの挨拶を送るとは、つまり、このような福音と決別するということである。

 シンジくんとその仲間たちによって「打倒」されるゲンドウは、自己の人類補完計画の目的について下記のように述べている。


「お前が選ばなかったA・T・フィールドの存在しない、全てが等しく単一な人類の心の世界。他人との差異がなく、貧富も差別も争いも虐待も苦痛も悲しみもない、浄化された魂だけの世界。そして、ユイと私が再び会える安らぎの世界だ」


 ゲンドウはこの醜い世界の終わった後に、希望を見たのである。あなたはここで、反キリストのローマ帝国が崩壊した後の世界に希望を託した者たちのことを想起してよい。シンジくんとその仲間たちによって「打倒」されるゲンドウの人類補完計画は明らかに、世界の終末という思想の下にある。世界には貧富も差別も争いも虐待も苦痛も悲しみもあり、どうしようもなく醜く、それゆえその破壊(インパクト)が肯定される。

 このゲンドウの「社会設計主義」を批判することは容易い。概ね、サブカルチャーにおける「敵」は自分の行為を、主人公の目的よりもさらに上位の公共性において正当化する(一体、何人の地球環境や世界を守るために人類を滅ぼそうとした「敵」が倒されてきたか?)。

 しかし、社会の批判が歴史の終わり、あるいは歴史の始まりを設定することによってしか可能にならないとすれば、どうだろう? あるいは、こう言うこともできる。世界の終末が特定されることによって初めて、「貧富」、「差別」、「争い」、「虐待」、「苦痛」、「悲しみ」が観察できるのだとしたら、どうだろう?

 キリスト教は世界の終わりの後の世界をモデルとすることで、この現世を批判した。そこで実現するものとの比較において、この現世の「問題」を発見する。あるいは民主主義を準備した、著名な啓蒙思想家たちは社会が始まる前、「自然状態」を設定することによって、この現在の「問題」を発見する。

 つまり、ゲンドウの終末論の否定は、歴史から目的を奪い取り、この現在において某に対してプロテストすることを不可能にする。もしも現在しか存在しないのならば、進歩も退行も保守もなく、プロテストする対象は存在しなくなる。「起きていることは全て正しい」。そして、もしもプロテストする対象が存在しないのならば、今ここで、人類補完計画は既に達成されたのである。

 そのことはゲンドウがいかに「打倒」されたのかを確認すれば、わかることである。ゲンドウは、上記引用にもある「ユイと私が再び会える安らぎの世界」を与えられることによって「打倒」される。貧富、差別、争いといった、彼の人類補完計画の公共性は「昔の女に会いたかった」という個人的な欲求の充足によって破綻するのだ。当然だ。今や目指すべき世界の終わりは存在しない。

 つまり、シンジくんの人類補完計画とは、歴史を放棄し、各々に最適化された欲望の充足を提供するということである。だからアスカは、あのケンスケと暮らすことのできる、インパクト後の農本主義的ユートピアの外れにある小屋へ戻ることになり、そしてシンジくんは山口県か何処かの素材関連企業か何かの社員になり、眼鏡で巨乳のキャラクターと駅にいる。

 これが、この映画における人類補完計画である。歴史の終わりが終わり、もはや「正しさ」そのものが失効したのであるから、各々が各々、欲望の充足を達成することができる「マルチバース」を作り出すことが、人類の補完なのである。そこにはゲンドウの提起したような問題への関心は存在しない。何故なら、そんな問題は観察できない。

 なるほど、大いに結構ではないか。これはファンタジーであり、サイエンス・フィクションだ。シンジ(『神』の『児』)くんが、全人類にそれぞれの理想郷を提供し、歴史の終わりが終わり、欲望と欲望の対立とその調停という面倒な問題は消滅する。あたかも、巨大怪獣が議事堂を焼き払うかのように。爽快。ああ、何という気持ちよさ。

 しかし、これが成熟だと言うのならば、私は吐き気がする。実際、私はこの映画を見た時、エッセンシャル・ワーカーとして働いていたのだが、劇場を出たあと、軽い目眩に襲われたと報告しておく。それは、エッセンシャル・ワーカーの諸問題に対する私の関心もまた、ゲンドウのような「昔の女に会いたい」という個人的欲求に過ぎず、マスターベーションという自分だけの「メタバース」へ退行してあらゆる不満を消去し、眼鏡で巨乳の女を連れた事務職員か何かの「メタバース」を維持するために働けというメッセージを読み取ったからである。ここはファンタジーでもサイエンス・フィクションの世界でもなく、シンジくんも存在しないため、ゼロコストの「マルチバース」実現システムはありえず、ありえるのは「機能上不可欠なアンダークラス」(ジョン・ケネス・ガルブレイス)によって維持される「メタバース」だけだ。だから、あなた方の言う成熟というのは、クソなのだ。シンジくんのような、地上の神のような存在によるゼロコストの「マルチバース」の実現を(「貧富」、「差別」、「争い」、「虐待」、「苦痛」、「悲しみ」を認識することは個人的な問題に過ぎないと黙殺しつつ)待ち続けるか、インフラ維持のコストを無視しつつ「メタバース」に引き籠もることが成熟だと言うのだから。

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