第24話 「静寂」
優矢の剣は奏多を両断する直前で止まっていた。
それを見て奏多は優矢が正気を取り戻したのではないかと希望に目を輝かせるが、それが単なる幻想であった事に気が付くのは一瞬先の未来だ。
優矢の能面のような無表情に亀裂が走る。
霜原 優矢の精神は免罪武装の覚醒によって完全に破壊された。
それは間違いない。 人の本質である原罪を失った彼の漂白された魂はありとあらゆる事象をまともに認識しない――いや、できなくなるのだ。
覚者と呼ばれる超越した精神を持った者は人としての全てを失う代わりに目的へ向けて最速かつ合理的に走るだけの装置に成り果てる。
免罪武装によって覚者となった優矢の目的は何か?
それは全ての罪を許す事であり、全ての罪を浄化し、滅ぼす事にある。
全ての生き物は何らかの形で原罪を抱えているので、この世界には溢れかえっていると言えた。
ならば免罪武装はその罪をどう許すのか? 答えは非常に単純だった。
――全ての生き物を原罪ごと葬る事だ。
そうすればこの世界から原罪という穢れは全て消え去り、潰えた命はこの世界へと還る。
この世界から全ての生き物が消え失せれば優矢の役目も終わるのだ。
だから優矢はただ生き物を殺す機構として存在し、その機能に従って目に付く全ての命を葬ってきた。
だが、奏多の言葉は全てが漂白された優矢の消え去ったはずの魂の切れ端を揺さぶる。
美しい幼馴染による愛の告白。 物語であるなら正気を取り戻し、二人は幸せに暮らしたのかもしれない――が、今回のケースはそれに当てはまらない。
優矢の亀裂から噴き出した感情は愛や恋などといった綺麗なものではなく、マグマのように煮え滾る圧倒的な怒りだった。 霜原 優矢という少年にとってこの異世界での日々は失望と絶望の連続で、得たものの悉くが手の平から零れ落ちる。
それでも彼はこの理不尽な現実とどうにか折り合いを付けようと足掻いてはいた。
――もしかすると彼はこの世界で最も大切だった存在を失った時、既に取り返しがつかない程に壊れていたのかもしれない。
必死に自らに起こった不幸は理不尽ではあるが、偶然の積み重ねであったと言い聞かせて精神の均衡を保ち最後の正気を守り続けていた。
しかし、明確な
霜原 優矢にとって神野 奏多は何か? 幼馴染、同級生、付き合いの長い異性。
どれも正解だ。
少なくとも奏多にとってはそうで自らに最も必要な愛しい人と言った項目がついさっき追加された。
なら優矢にとって奏多は何か? この世界に来る前であるなら、枷、人の形をした牢獄、自分の尊厳を踏みにじる略奪者。 彼にとって奏多は目障りな支配者でしかなかった。
同じ時間、同じ空間を共有していながら二人の抱き、募らせた感情は一歩通行であり、対極だったのだ。 奏多は優矢を依存させていると信じ、無意識下ではあったがそれに快感を覚えており、互いに必要な存在であると当然のように思っていた。 その思いは間違いなく愛情とカテゴライズされる物で、召喚される際に優矢を巻き込む程に強い感情だったのだ。
――それが一方的な気持ちの押し付けである事に彼女は最後まで気付けなかったのは歪み故と言える。
歪な関係はそれでも現代日本に生きていたならまだ我慢はできた。
だが、この異世界で免罪武装という致命的な要素を内包した状態で自らに起こった悲劇の分かり易い原因が現れた事で彼は人として死を迎える。 ある意味、彼は奏多の愛情によって身を滅ぼしたのだ。
そんな状態の彼にも許容できない言葉を奏多は口走った。
だから――
「ふざけてんじゃねぇぞこのクソ女ぁぁぁぁ!!!」
――霜原 優矢の魂が最後に見せた輝き、燃え尽きる流星のような真っ赤なそれは遂に失ったはずの言語すら取り戻させた。
手に持つ免罪武装を引っ込めて奏多の腹を掬い上げるように殴る。
「ゆう――」
地面から引き抜かれた奏多は上空に打ち上げられる。 彼女の体は高く高く上昇していく。
傍から見れば魔力による光を撒き散らして天へと昇って行く彼女はまるで栄光を《ヘヴン・》掴む《グローリー》かのようにも見える。
その間、目に真っ赤な怒りを宿した優矢は新たに弓を体内から取り出し、魔力の籠った矢ではなく怒りを具現したかのような赤黒い剣――彼が最も頼みとした武器である『
彼が矢として使用したのは本物ではなく、再現された複製品だ。
だからこそこのような使い方ができるのだが、もう今の彼には奏多を一刻も早く消し去る事しか残されていないので気が付かない。 自分がどれだけの奇跡を起こしたのかも知らず、彼はこの世界開闢以来、誰も振るった事もない程の破壊の力を手に入れていた。
皮肉な事に彼がこの世界に来る直前に求めた力『チート』と呼べるそれが手の中にあったのだ。
「消えろ」
彼の魂が最後に絞り出した言葉だった。 放つ。
殴られた事により奏多は死に瀕していた。 即死しなかったのは生身で殴ったからだ。
意識は混濁し、自身に何が起こったのかも理解できなかったが一つだけ分かった事がある。
優矢が自分を、自分だけを見ている。 それを知って何だか嬉しかった。
――なによ、優矢ってば私がいないと駄目なんだから……。
熱を感じ、奏多の意識は肉体と共に蒸発した。
優矢の一撃は奏多を消し飛ばすだけでは足りなかったのか、空間すら歪めながら空へと登って行き――空の果てで炸裂。 それによって灼熱の波動がこの世界全てに降り注ぎ、善悪の区別なく彼の怒りの炎に焼かれた。
パキパキと何かを砕くような足音を響かせ、砂漠を歩く少年だった者が一人。
激情は容易く加熱できたが、冷めるのも早かった。
最後の勇者を葬った後、全てを出し尽くした彼にはもうなにも残っていない。
思い出も怒りもそして未来すらなくなった。
不意に足を止める。 静かだった。
それもその筈だ。 もうこの世界には彼以外に動く生き物が存在していないのだから。
空を仰ぐとひび割れた夜空。 歩くのはガラスのようになった砂漠。
彼の放った最後の一撃によって起こった事象だ。
亀裂の向こうは夜空よりも暗い何かが見えていたが、彼には何の関係もない。
この命の気配がなく、原罪の痕跡すら残らなかった清らかな世界。 それだけが全てだった。
消し去るべき原罪がない世界で、役目を終えた彼は空を仰いだままその機能を停止。
世界は終わった。 本来なら命が消え失せた世界は新たな命が芽吹き、新たに文明が築かれる。
奏多達に事情を話し、優矢を世界迷宮へと送り込んだ精霊と自称した存在の狙いは世界の新陳代謝。
世界という土壌は文明が過度に育つと痩せ衰える。
特に魔法と呼ばれる物理法則を超越した現象を当然のように扱う世界は特に顕著だ。
その為、世界は自浄作用として精霊のような存在を生み出し、文明を滅びへと導くように促す。
死した生物は世界へ還り、土壌を育てる養分となる。
内包した魔力が多い異世界人を呼び出せるようになっているのもその一環だった。
強大な力の衝突は文明の崩壊を加速させる。 異世界人によって文明が滅びる事は世界にとっては上首尾と言える――筈だったが、優矢の放った最期の一撃だけはその想定から大きく外れていた。
何故なら彼の全身全霊は目障りな幼馴染を消し去るだけでは足りずにこの世界に大きな穴を開けてしまったのだ。 それによりこの世界が蓄えた生命力と呼べる物が外へと流れ出している。
上手く行ったと高笑いする筈だった精霊は言葉を発する事ができずにいた。
開いた穴はいずれは塞がるだろう。 だが、この世界は大きく衰退する事になる。
そしてこれは精霊も知らない事ではあるが、世界の外には想像を絶する危険が蠢いており、その一つが腐肉に群がる獣のように衰退する世界を狙っている事を――
――こうして異世界召喚によって呼び出された勇者の冒険は全ての存在にとって望まない結末を迎えた。
終わりの先に存在する虚無が遠くない未来に現れるだろう。
世界にとっての終わりもすぐ傍に――
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