第19話 女
店の前にいると乃木さんはちゃんと俺を追ってきた。男気があると評すのは間違いだろうが、この人はまともだなと少し尊敬した。同期生のために客演の男に物申すなんて、友情に厚い正義漢だ。さすがにバツの悪そうな顔だったが目は俺を真っ直ぐに見ていた。
居酒屋の入り口では迷惑なので少しずれた電柱の街灯の下に移動した。明るく人目のある路上を選ぶのは俺の自衛だ。乃木さんは妙な言いがかりをつける人間ではないと思うが。
「美紗と連絡取れてるんだね」
俺が先に口を開いた。それは気になっていたことだし確かめたかった。
「あ……はい、もちろん」
「具合どうなの」
「それ、自分で訊いて下さい」
悲しそうに返された。できないから乃木さんに言うんだが。うっかり気を遣って何もかも元通りの錯覚に落としたくないし落ちたくない。
「何も言えないよ」
「……まだ足首の腫れは引かないそうです。あちこち擦りむいたからガーゼとテーピングも大変だと」
「仕事は」
「休んだままらしくて」
だろうなと思った。ボロボロの状態で人前に出るなんて、美紗がする絵面が浮かばなかった。だが食事や生活用品はどうしているかといえば通販や配達でなんとかなるらしい。
じゃあ俺が手を出すことなど何もないじゃないか。そう考えてしまった。見舞いに行っても姿を見せない可能性すらある。だがそう言ったら乃木さんは憤怒の表情になった。
「それでいいわけないでしょう?」
「そうなの?」
俺が素で訊き返したら乃木さんはうろたえた。安心してほしい、たぶんおかしいのは俺の方だから。
「よく、ないと思います……」
「そうか。じゃあどうするべき?」
乃木さんが俺に何を求めているのか訊いた方が早かった。考えても俺にはわからない。
夢に向かって努力することができ、でも実力と折り合うことができ、誰かと深く関わって結婚なんていう未来を手に入れられる乃木さん。そんな真っ当な人間に教えを乞いたい。
「え、だって各務さんと、その、言い争ったせいで事故を起こしたんですよ」
「謝れってこと」
「それは――」
思ったより陳腐な要求でがっかりした。平均的な女性の考えることってそういうものだろうか。謝罪してしまったら、誤解と期待を与えそうな気がするのだが。
「精神的に追いつめたのは俺かもしれない。でもそんな状態で運転したのは本人だ。ヤバければ電車で帰ればよかったのに。だいたい俺らがどんな話をしたか知ってるの」
「……知りません」
「俺だってひどいこと言われたんだけど。堀さんのことで」
客演に媚びてるとか内田くんに譲れとか、意味不明だ。思い出してまた腹が立った。
「堀さんが劇団内で言われてること、俺はなんとなくしか知らないけど乃木さんどう思う」
「……くだらないと思ってます」
「美紗の本心がどうかは置いといて、それに乗っかるみたいに俺に探り入れられた。俺があの子より美紗を優先するのかどうか」
「……」
「そういう考え方に本気でうんざりしたんだけど、俺おかしいかな」
試すみたいにされたことも心外だった。俺たちはそういう仲だったんだろうか。
アクセサリーのような俺。ただ告ってきてそこにいただけの美紗。なのに突如として相思相愛の二人のようなことを求められたら困惑しかない。
「美紗は、何よりも自分を優先してほしかったんです」
「そんなの言われたことない」
ずっと仕事最優先にしろみたいな態度だったのに。何を今さら。
「各務さんは美紗のことどう思ってるんですか。好きで付き合ってたんじゃないんですか」
「――嫌いじゃなかった。それだけかもしれない」
乃木さんは苦しそうに顔をゆがめ、吐き捨てた。
「最低」
「美紗に好かれてるとも思えなかったよ」
「違います、あの子は――美紗は自信がないんだと思うんです。女性としての自分に」
「は?」
「あの子すごく綺麗にするじゃないですか。服も化粧も。女だってことが怖くて無理だから、そういうとこでバランスとってるんだなって」
「いやどういうこと。全然わからない」
唐突な訴えの内容にはまったく心あたりがなかった。女であること、てなんだ。乃木さんは少し迷ってから言った。
「子ども産むなんて絶対嫌だって」
――美紗には歳の離れた弟がいるそうだ。その子は自宅出産で取り上げたんだとか。母親が自然志向でそうしたらしい。その分娩をかいま見た中学一年生の美紗は、産みの苦しみにトラウマを植え付けられた。こんなの絶対無理、と。
女性として一番の特徴ともいえる出産を拒否し、それを補填するかのように女性らしさを磨いてきた美紗。たしかにあいつはとても女らしかった。良くも悪くも。
「各務さんのこと好きなのは本当なんです。それをぶつけられなくて控えめにしてただけで」
「自信がないから……?」
「です」
何故か乃木さんが申し訳なさそうだった。だがそれをフォローしてやれる余裕は俺にはなかった。美紗のそんな事情も感情も、欠片も知らない。知るつもりもなかったし、知っても何もしなかった。たぶん。
馬鹿だな、と思った。美紗が。
もっと敏感で気遣いのできる男を好きになればよかったのに。そうしたらちゃんと想いを返してもらえて美紗はそれでいいんだよと言ってもらえて、幸せだったかもしれない。
電車の中で酔いはすっかり醒めてしまった。ビール一杯だけ、しかもあんな話を聞かされて酔ってなどいられなかった。
だけど俺にはどうしようもないことだ。美紗の気持ちを他人から聞かされても、それで今までのことはなくならない。これからのことも変わらない。俺はもう美紗と何かする気はない。
本気なのだと気づかせなかった美紗にだって落ち度はあると思う。本気を見せられたら逃げたかもしれない俺のことは棚に上げて、自分をそう納得させた。
ブラブラと帰り着きカバンを床に置くとポコンとメッセージが鳴った。誰だ。
〈遅いじゃん〉
夏芽だった。隣の部屋から。この間友だち登録させられた初受信。何に使っているんだか。素っ気なく返す。
〈おまえも寝ろ〉
〈うん〉
おやすみ、のスタンプが送られてきた。
飲み直すのはやめようと思った。
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