メタモルフォーゼ

きょんきょん

第1話

 室内には息遣いが一つ。

 目を閉じると雑音が消える。

 同級生との思い出を反芻する。

 何度も何度も咀嚼を繰り返す。

 大事にしまい込むように嚥下する。

 ほう、と溜め息が宙に消えた。

 三七兆の細胞はすべてを記憶している。

 何が起きたのか、そのすべてを克明に。


 一仕事を終えると椅子に浅く腰掛け、背もたれに体重をかけた。

 支えきれないと悲鳴をあげるような、静寂に満ちた部屋には似つかわしくない不協和音がこだまする。月明かりに照らされる室内で途切れることのない余韻に耽っていた体は、深い酩酊感と押し寄せる多幸感で満たされていたがそれらはちっぽけな肉体という器に留まらず、ビックバン後の宇宙の始まりのように膨張を続けながら時間をかけて少しずつゆっくりと冷えていく。


 ――いつか、この熱が失われるのではないか。それは僕の想像しうる最悪の未来だった。


 室内には微かに残る情事の甘い残り香がいまだ濃く漂っている。視線を「彼」に戻すと、ベッドの上で役目を終えたラブドールのように深い眠りについている。

 だらんとマットレスの縁から垂れ下がる真っ白な腕。シャツから伸びる華奢な首。無駄な贅肉が削ぎ落とされた上半身は、さながらギリシャ彫刻のようである。


 椅子から重い腰を上げて隣に寄り添うと、マットレスのスプリングが深くたわんで沈みコウタの側へと向きを変える。冷房が必要ないほど、ひんやりと心地良い肌が密着すると瞬きを忘れた虚ろな目は僕をまっすぐ見据えているようで、実はどこも見ていないようにも思えてならない。

 三次元と四次元の世界が決して交わらないことと同じ原理で、既に彼の目は異なる世界を覗いている。


 フラフラと開け放たれた窓から侵入してきたハエが、彼の真っ直ぐな鼻梁びりょうの天辺に陣取ると数多の複眼で睨みつけてきて、手足を擦り合わせながら語りかけてきた。


『このド変態野郎。俺は見てたぜ』

「うるさいな。あっちいけよ」


 鬱陶しいハエを手で追い払うと、まだなにか言いたげなハエはしばらく周囲を訴えるように飛び回り、相手にされないと知ると羽音を残して闇夜に消えていった。


 夜空に頼りなく浮かぶ月を眺めながら、彼が好んで吸っていた煙草を拝借して火を灯す。慣れない仕草で肺腑の奥深くまで煙を吸い込むと、何者かに激しく頭を揺さぶられるような酷い目眩を覚えた。


 上下左右、平衡感覚を失い朦朧とする世界は存外悪いものではない。数年来履き潰したゴムが弛んだブリーフを、竹槍のごとく突き破らんとする勢いで隆起していた局部に手を伸ばし慣れた手付きで一人、妄想に耽りながら性を放つ。


 見当たらない灰皿の代わりに舌で煙草の火を消し、愛した人の頬を汚れた手で撫で回しながら、この日のためにと用意していた錠剤をすっかり炭酸が抜けきったコーラと一緒に胃袋へと流し込んだ。


 後はどうなるかは運次第――。


 次第に重くなってゆく瞼を閉じながら、ゆっくりと舟を漕ぎ始める。

 限界まで息を吸って吐ききると。現実は意味をなくして輪郭カタチを失っていく。


 溶けて。解けて。融けて。


 やがて僕の意識は生と死が混ざりあう世界の中に消えていった。

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