微かな匂い
何故あの時、目を隠されていたはずの春鈴が旭の存在に気付けたのかずっと気になっている。
二人だけになった時に聞くか――と機会を見計らっていたら、湖妃が産気づいただの、そろそろ新しい妃はどうでしょう? だのという話が舞い込んで来て、それどころではなくなった。いよいよやっとその機会が訪れたのは全てがほどほどに落ち着いて来た頃だった。
「志遠様!」
「何だ?」
自分からやって来るとは何か腹が空いたのかと思い、辺りを見回すが何もない。
こいつの喜ぶ顔が見たいとかじゃないのに何故そう思うのか。
逆に俺の方がこいつに良いようにされていないか? と思えば、その口は思わぬ者の事を言う。
「噂に聞いたのですが、あの……その、琵琶を頂いた翌日の夜に起こったあの者が……」
「ああ、そうだ。名も知る前にあの者は追い出された」
真相を言えば、後宮は殺生と無縁な場所。
彼は死ぬ直前にそこから解かれ、どこかに捨てられた。
そうなる未来が近しいと分かっていたのだから当然だ。
ここではそれをさせるな! という皇帝の一言があればすぐにでも実行される。
そんな所に居るよりあの者もそうされた方が良いかもしれない。
ここでは死後もろくな目に遭わないのだから。
目を伏せ、口を伏せ、全てを伏せ生きて行く。
もし、運良く気の良い人が通りかかったら、助けてくれるだろうか。
可哀想だと思って、その命を救おうと努力するだろうか。
そういう人が居たら本当に優しさ溢れる人だと思う。
自分と違って、真意ある善意で動く。
この記憶を必要としないで真心のままに尽くすのだろう。
そういう人になりたかった。
だけど、できない。
何故なら、これはもうずっとそうだからだ。
呪いのようにずっと付きまとう。
それが良いと前世以前の記憶達は言う。
それに耳を貸してしまうのはそれに埋め尽くされるからだ。
逃げ場はない。
それで良いと自分も思う。
納得している。それ以上の理由がない。
春鈴を見れば、もう気にしてないのか湖妃様に生まれた子は女の子だそうですね、ということは男の子を必要としているのでは? と公主やらと言えと思えど、何やら新たな食べ物を考えているようだ。
「何か食べたい物でもあるのか?」
「え?」
突然の問いに春鈴は驚いたような声をあげた。
「そう見えたが?」
「いえ……ただ、空が綺麗だなと思っただけです」
「そう言うと思った」
――彼女はいつもそうだった。
何かあると決まって空を見上げ、そういう自由を手に入れたいと言っていた。
けれど、その彼女を春鈴が知るはずがない。
何故なら、その彼女は志遠の記憶の中に居て、現実の世界にはまだ居ないのだから。
だけれど、この感じは……。
「まあ、でも、あんな感じのお菓子があれば食べてみたいですね」
空を見上げたまま言う春鈴を見て、志遠も同じようにそこを見る。
ふわふわしてそうな綿のような白い雲が一つあるだけであとはそこまで強くない青さが広がっているだけだ。
「雲のような菓子か……」
自分の中での変化には薄々気付いている。
けれどそれを認めたくなくて、ずっと逃げている。
「そういえば、春鈴は何故目を私の手で塞がれていたのに旭の存在に気付いた」
太陽はない。だが、その陽の光は熱く感じることができる。
「え? 匂いがするからですよ。その名の通りの匂いがです」
「それはお前の鼻でないと分からないのだろうなぁ……」
「そうですかね? この朝の日の匂いと似ていますけど?」
くんくんと辺りを嗅いで、それを吸い込む。
「それはつまり?」
「ええ、身近に感じるこのお日様の匂いと一緒です。日干しした時とか微かな匂いを漂わせて何とも交換せずに手に入れられる幸せです。ですが、それは時に少し寂しいような優しい日の匂いに変わります。そのような匂いをお忘れですか?」
「忘れてはいないが、そこまで言うか?」
「はい!」
そう言って、にっこりと笑った。
この天気の良さに合ったとても良い晴れやかな笑顔だった。
思わず釣られて微笑みそうになった自分を制し、志遠は最近気になっている事をもう一つ聞くことにした。
「それで新しく勝手に入られたあの新しい妃の情報でも仕入れられたか?」
「ああ……どこの宮でしたっけ? あの方の代わりとなって入られたのは」
「銘朗宮だ」
「ああ! その方でしたら……でも、人をそんな風に言うなんて」
「良いから」
話を先に進めろと志遠は春鈴を促す。
「……まあ、それなりにはですね。私の信頼している思思によれば……」
彼女は手付きになるかどうか分からない。
それが志遠の第一印象だった。
何故ならずっと連れて来た者と一緒に居るという。
それでは悪い虫も付かないどころか寄り付かないだろう。
一人の女になっているのを好まれるのだから、あの方は――。
「はて、名は何と言いましたか?」
「
それだけは知っていた。
攻めに見えて受け的な女官から、響妃の代わりにどうかと天華の側近として仕えるその父の案で妃に位が上がった者――やっと生まれたと思った子が公主ということで皇帝は取り乱すことはなかったがやはり気に入らず、次に来た者をと望まれている。
そんな中の役目も分かっているはずなのに、厄介が増えなければ良いとまたもや志遠は天を仰いだ。
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