永庭宮

 九垓は言う。本当にこれであの瀏亮が信じられますか? と。だったら、お前が見張れと志遠はこっそり盗み聞いた銘朗宮に足を向けることにした。

 特段、銘朗宮には怪しさはない。各地の名産品であるうつわなんかがごろごろあるだけで、そこに住まう響妃きょうひは良家の娘で鶯妃よりも早く子を産んだが女の子……と言って悔しがっていた。ほどなくしてもう一度機会さえあれば! と陛下に直接言った矢先、その子はすぐに亡くなった。原因は不明だとされたが響妃は周りをすぐに疑った。誰かがこの子の首を絞めただの、毒を与えただのそんな事はそこから一切見えず、陛下はその前もその前もだ……と嘆き、もう一度機会がありましたら必ずや今度こそ男の子を産みます! と陛下にまた直接言ってしまうほど響妃は意志の強い面倒な人だった。

 こちらの顔を覚えているかどうかも分からない。

 あの人は陛下にしか興味のない人だ。分からない方が良いのだが、九垓が余計なお世話でやったあの手掛かりの名産品はその銘朗宮から借りた物だろうか。

 それがなくなったと口実にして銘朗宮に入るのも良いだろう。

 そう思って歩いているとぼーっとしている春鈴が目に映った。

 手には掃除をする為か箒を持っている。

「ずいぶんと慣れたようだな」

「うわ!」

 寝ていたのか? と思うほど驚かれた。

「いや、これは! はい、掃除をしていたのです! 決して、今、絵が描きたいだの楽器が弾きたいだのとは思っておりませんでしたよ?」

「ほーう、そうか……お前は楽器ができるのか?」

「はい、波妃様に教えていただきました」

「では、今度聞かせてくれないか? 楽器を用意してやろう。あとあの絵の上手さは忘れられない。お前は波妃からもらった物を全て清風宮に置いて来ただろう?」

「え? どうしてそんな事がお分かりに? まさか! 私の部屋に入ったのですか?! いくらこの永庭宮で一番偉いのが志遠様だからってそんな! 恥ずかしい物はないから良いにしても大事な隠しておきたいお菓子とか食べ物とか盗んでいませんよね?」

「それはない。そういうのをやりそうなのはお前だろう。俺はそんな事をするくらいなら自分で用意して食べる」

「うっ」

 何故か黙った。

「文句はないようだな。まあ、良かった。お前の口から食べ物の話が聞けると何故だか安心する。心配する事はない。瀏亮には私から言う。お前が欲しいとねだったと言ったら怒るだろうから、そうだな……私がどんな腕前か知りたかったということにしておく。そうすれば、お前の評価に繋がるだろ」

「そうですけど、波妃様は女の人で志遠様は……」

「何だ? 贈り物じゃない、これはお前がどのくらいの技量を持ってるか調べる為の物だ」

 勘違いするな……と言えば分かってくれるのか? そこまでの仲じゃないのはお互い分かっているだろう。

「では、そうして下さい。でも」

「何だ?」

「ここには私達以外、誰も居ないのですよね?」

「ああ、私と九垓、雨露に瀏亮とお前だけだ」

「なら、良いのです。ただ少し嫌がられたら嫌だと思って」

「何に?」

「音がうるさいだとか……絵は静かに出来ますが、楽器はできません。だから心配で」

「お前の音が良ければ慰めにもなるだろ? そんなにひどいのか? それは」

「いいえ! 波妃様以外も喜んで聞いてくれましたよ!」

「そうか……」

「でも、そうですよね、こんな外れの外れにある所に客人は来ないですよね?」

「何が言いたい?」

「少しだけ聞こえるのです。私達以外の声が」

「何を言っている?」

「聞こえないのですか? いつも以上に静かな時、人の、そうあれは男の人だと思うのです。誰よりも低くはありませんが周りに居る人よりも低い声、志遠様の少し無理のあるような高い声より普通の時に言うちょっとだけ低めの声よりも低い声でうめいているのです」

「それはいつ? どこから?」

「それは志遠様の事ですか?」

「いや、それは良い。いや、お前はいつ、そんな声を聞く?」

「そうですね、九垓さんと二人きりの時とか、ご自分のことを『俺』と言ってる時とかはそう聞こえます」

「何故、そんな時にお前は近くに居る?」

「え?! いや……それは……」

 ごにょごにょとなってく春鈴を見れば、たぶん食べ物関係だと察しがつく。

「はあ……それでその男のような声の方はどうなんだ?」

「はい、確かな所は分かりませんが風はそうですね、北東の方からでしょうか? ここは鬼門ですからそんなに離れてないはずです」

 不問に付して聞けば、そう言う。

 そうだ、ここは鬼門に位置する。それも陛下の考えだ、仕方がない。

 それで嫌がって妃が来ないというのも一時噂になったがそれは今はどうでも良い事だ。

「それは風に乗って聞こえるということか?」

「はい、たぶんそうなのです。こうして耳を澄ましていると良い音と共に微かに聞こえるのです」

「その良い音とは何だ?」

「料理をする音ですよ!」

 当たり前でしょう! というように春鈴は堂々と答えた。

「そうか、それで瀏亮から離れて探っていると?」

「いや、その……」

 またぐにょぐにょと春鈴は言葉を詰まらせる。

 まったく、ここでなら少しは真面目にしてくれると思ったが。

「あの瀏亮なら自分の目から今の春鈴の姿を見えなくするというのは考えにくい。だとすると、逃げたとしか考えられないのだが?」

 ギクギク……と春鈴の身体に微かな反応が出た。

「えっと……」

 全てが分かってしまう前にと思ったのか春鈴は答える。

「少し待っていなさい、教えることが山ほどありますから……と言っていたので、まずは解決しなくてはいけない事をしてからにして下さい! と言って、逃げて来てしまいました」

「ほーう、それは何ともいけない話だ」

「ですが、変ではありませんか。そのような声がしたら、絶対すぐ調査をし、何もなくさせるのにそれがありません。だからこそ、この後宮内に隠したい男の一人や二人が入っていると思うのです!」

 ギクッ! と今度は志遠がなる番だった。

 勘が良いのか、本人を前にして言って来るとは――それにそんな者が居たとしたら、春鈴の言う通り、絶対ただでは済まされないだろう。なのにそれがない。現に志遠は今まで全然気付きもしなかった。そんな声さえ聞いたことがない。となると、春鈴の幻聴となるのだが。もう少し話を聞こうと志遠は春鈴に問い掛けた。

「もしそうだとして、どういうことになると思う?」

「そうですね……、考えてもみてください。あの大量の料理を一人で運べるでしょうか? 女人が。いいえ、旭様の話からではそれが出来るのは準備をなさった九垓さんと同等の力が要るでしょう。そう考えると男の人じゃないとダメなんです。でも、あそこには宦官が必要じゃない。何故なら、この宮ぐらいしか近くにありません。となると、女人がぞろぞろ居れば旭様以外も気付くはずなのです。遠くから見てもここは映り込んで来ますからね」

「そうね、質素だけれど外の景色として見るには良い所よ。見つけたわよ、春鈴!」

 うお! という顔を春鈴はしたが、志遠の手前、逃げ出さなかった。

 瀏亮は気付いていたに違いなかったが、今やっと気付いたように志遠に挨拶をした。

「申し訳ございません。しっかりと身に付けさせますので」

「うん、これからはこの永庭宮の維持、管理、掃除などがお前達の仕事になるだろう。だが、今は聞きたい話を聞いている。だから許してやってくれないか?」

「そう言われましたら……」

 おずおずと瀏亮は下がってくれた。

 それを聞き逃さなかった春鈴はさらに質問をする。

「なら、どうしてここをお建てになったのでしょうか?」

「何を言っているの?!」

 瀏亮が驚くのも無理はない。この話はもうすでに終わっている事だからだ。

「あなたね……」

 もう口を閉じなさいと皆までは言わないがその顔で言っているのに春鈴の口は止まらない。

「だって、妃の居ない永庭宮に何の意味があるのですか? 波妃様だっていつも気になっておられました!」

「春鈴!」

 怒る瀏亮に志遠は困った。

 ここが出来た理由――それは今の皇帝に対しての質問だろうか。

 それを答えてやる義理はない。

 この子は本当に字が読めないのだろう。いや、読めてもその真実を知ることはない。

 どうやって説明すれば良いか悩んでいると瀏亮がらすらと答えた。

「元々ここは皇帝陛下の密かなる思い人だかの為の物だったわ。それが完成したら『永悌宮えいていきゅう』だと知れ渡ったの。でも、次第に字は変わり、今のようになったのよ」

 何でですか? と突っ込みそうな所を瀏亮の怖い顔がそうさせなかった。

 この話はこれでおしまいとばかりに瀏亮は志遠に言う。

「どうか、この子をここから連れて行くことをお許し下さい。この子に字を教えろとおっしゃったのは志遠様にございます」

「うん、その時間は大切だ。春鈴、その解決しなくてはいけない事は後回しでも良いだろう。早くに字を覚え、瀏亮から離れれば良い。お前はそれ以外の事は出来るだろう?」

「はい、それはもう!」

 まあ、呆れた……というような瀏亮はすたすたと春鈴を連れて行ってしまった。

「はぁ、ここにおいでとは……」

 疲れたような様子で九垓はやって来た。

「九垓、お前は春鈴に『九垓さん』と呼ばれているんだな」

「そのようですね。まだ自分はこの後宮の宦官ではないということですかね?」

「そうなるな……。旭の所に行った時にその事について問い質されなかったのか?」

「はい、すんなりと分かりましたとだけ言って雨露を渡されただけです。そういえばあの名産品の事も聞かれなかったな……」

 おかしい。

 それは志遠のよく知る旭からすればあり得ないことだ。

 何かがおかしくなっている。

「では、次に旭に会った時にお前がちゃんとここの宦官として働けるようになっているか聞くとしよう。そして、お前はあの名産品の二点をどこから持って来た」

「え? その辺の……」

「その辺とは?」

「め、銘朗宮です。あそこには少々伝手がありまして……」

「ほう、それは良い事だ」

「え?」

「雨露も連れて行こうじゃないか」

「え? 銘朗宮にですか?」

「ああ」

「いや、でも私の伝手は男ですよ?」

「男なのか?!」

「何をそんなに驚かれます?」

「いや……」

 春鈴のおかしな話がまだ全然忘れていないようだ。

「その者は宦官だよな?」

「はい、当然です。ここにはあなたしか」

「おい!」

 もうあの二人は居ないから良いが、そんな大声で言われてはかなわない。

「失礼いたしました。志遠様の心配なさる事はございませんよ。ただ、春鈴の言っていた事は調べますか?」

「どうするか悩んでいる。その前に金の卵の事もあるしな……」

「やはりお聞きになっていたのですね、私と余暉の話を」

「悪いな」

「いいえ、構いません。いずれ、志遠様のお耳に入ることです。それが早いか遅いかの話。私も知っておりました。早くに言えば良かったですね」

 どうしてこんなにも九垓は丁寧に喋る? 不思議だった。

「お前、誰かに監視でもされてるか?」

「え、何でですか?」

「そうだよな……なのにお前がそんなにかしこまるのは変だ」

「では、砕けて話しても良い話なのですか? これは。そうはとても思えません」

 少しは自覚が出て来たのだろうか。こんなに真面目な彼は陛下の前ぐらいでしかない。

「一応、雨露という年下の宦官が出来たのです。威厳を見せなくては! 武力ではかないませんが私はそういう知的な所で頑張ろうかと」

「なるほど……」

 人を成長させるのは人。そう認める出来事だった。

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