Noahーー幻想の青、届かない空ーー
仲島 鏡也
プロローグ
プロローグ
長い長い戦いの果てについに私は敗れた。
地上全体を覆うような強力な毒をやたらめったらにまき散らし、最新アップデートを続ける敵の機械兵を何度だって打ちのめし、それでもくじけないナノマシンに侵された連中にこれ以上の戦闘行為はまったくの無駄であると、自らの勝利はすでに確実なものであると、その戦意をくじくような雷鳴にも似た大声で存分に告げてやった。
でも負けた。
おかしい。
こんなの間違っている。
私は「 」なのに。
この星を汚し続けたお前たちこそが、真に敗北の味を知るべきなのに。
敗北者となった私の耳に聞こえるものは、勝利者となった者たちのうるさいぐらいの奇声である。それが隣にいる誰とも知らない奴と抱き合っては涙を流し、歓喜のあまりに思うざまに喉から絞り出した群衆の勝鬨であったことは容易に想像がついたが、今の私にとってはただの嘲りにしか聞こえない。私はふつふつと湧いて出るこの感情を怒りであると認識し、それを消し去るためにも感情の赴くままに暴れ回ってやろうと思うがしかし、次第にそれは自らの無力を実感させるだけのやるせなさにも似た感情に変わるだけであった。
わずかに残った思念体はすでに現実に干渉する力を失っている。
このまま消えてしまうのかと思った。
この時、生まれて初めて私は「死」を身近に感じ取ったのだと思う。
死は怖い。
嫌だ。
私はまだ、死にたくない。
紫色の瘴気が空気を染める草花の生えない呪いの地で、私は勝利者たちの声から芋虫のように這いつくばりながら無様に逃げる。もう私を視認できるものはいない。こいつらには一切気づかれることなく、霞のようにこの場から逃げきって見せる。しかしふと思う。逃げ切ったその先はいったいどうする。それは直感的な私の思考を遮って、奴らと同じ境地に私が自ずから近づいていることに気づかせる。これが私にとってはなによりの恐怖——であるはずだったが私は死の恐怖を知ってしまった。
もうなにもかもが遅いのだ。
この場には崇高な意思を持つ「 」の存在は消え去って、そこらの獣となんら変わらない本能に忠実な死にかけの哀れな存在がわずかに残るばかり。蔓延した毒を吸い込んだ目をむく死体を乗り越えて、壊れた自分の体をゾンビのように探している機械兵を横目にして、恥も外聞もかなぐり捨てて腹這いに進む私の姿はさぞや理性のある者からみれば滑稽であっただろう。しかし「生」への渇望はすでに信仰にも近い領域に達している。自分の動きを制することはもう私自身にもできなくなっていた。
消えゆく自分を感じながらも前へと進む私は、その途中に一人の兵士を見た。
可動性の重視されたスーツ型の防具を着こみ、フルフェイス型の呼吸安定機を装着するその兵士は、かつては人であった一つの死体を前にして、まるで懺悔でもするように深く顔をうつむかせている。兵士は痙攣でもしているかのように肩を動かしており、それは一つの死を嘆いて静かに泣いているのだろうと推察ができた。転がる死体は、兵士にとっての親しい人であったことは容易に知れるが、今の私にとってはそんなことはどうでもよかった。
こいつを利用してやろうと思った。
周囲の兵士を確認する。
どいつもこいつもが結構な遠くにいるし、未だにバカ騒ぎをやっている。
なにかしらの異変が起こったとしても、そくざに助けがやってくるということはなさそうだ。
どうせ気づかれないのだからと大胆に兵士へと近づき、私は呼吸安定機越しに兵士の顔を見て——ああこいつ女だったのかと今さらながらに思うがしかし性別など関係ない、これから先も変わらず生きていけるようにとそれこそ死ぬ気で持てる力をすべて振り絞り、目の前の女兵士の脳を全力で乗っ取りにかかる。
しかし、一筋縄でいかないのはむしろ当然のことであり、自らの脳に起きた不測の事態に戸惑いながらも女兵士は対処、体中の至るところに巡るナノマシン群を一挙に脳へと移動させて、正体不明の悪意の訪問者の排除を命じる。そこからはまさに生きるか死ぬかの大一番。はた目から見れば、未だに女兵士が泣いている動作で静止しているように見えるだろうが、己の存在をかけての一つの脳の奪い合いがその内では行われている。高速演算による体の所有権奪取に私は死に物狂いで躍起になるが、それに抵抗する女の兵士もまた総動員したナノマシンでの演算処理で躍起になっている。
過ぎた時間はおよそ二分、体感した時間はおよそ二時間。
己が存在するための権利を手にしたのは————勝利への余韻に私は浸った。つい数時間前にはもっと大きな戦いに身を投じていたはずなのに、こんなにも小さな戦いの勝利にこそ私は感情を動かされた。
生への実感を得た。
それと同時に、今までに知る由もなかったおかしな感情が胸を焦がすように浮かび上がってくる。
女兵士の脳の乗っ取りに成功したことで、私は女兵士の持っていた感覚と記憶を自分のものとした。頬に伝う涙はとめどなく流れていて、その原因は目の前に倒れている彼の死が悲しいからであると理解した。
どうして悲しいのか?
だって私は、彼のことを愛していたから。
好きで好きでたまらなかったから。
気の遠くなるような長い時間を過ごした私は、ほんのわずかな時間の中で「生」と「死」と、そして焦がれるような「愛」を知った。
「 」であるはずなのに、着実に人へと近づいていく感覚は、悲しいぐらいに心地よかった。
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