許された危険

橘むつみ

【1】アリオン

第1話

もちろん、誰よりも幸せになりたいなんて思っちゃいないし、高望みするつもりもない。


手の上にあるものを指折り数えるだけでもまずまず幸せで、意図的に線引きされた安全圏あんぜんけんの範囲内で暮らしてさえいれば脅かされることもない。


そこそこ充実した生活だ。


なのに、なぜだろう。


虚しさとも退屈とも違う何かが心の中に滞り、絶えずささやき続けている。


正面から理由を尋ねるには億劫おっくうな、しかし放っておくには不愉快なしつこさで。


欠落を持て余しているのに、消化不良で胃が重い。


「おい、コピー機潰したの誰だ」


フロア中に響き渡るような胴間声どうまごえに、居合わせた数名が肩を強張らせる。


しんと静まり返った室内に、気まずい沈黙が降りた。


何食わぬ顔でキーボードをたたく長い指と、突如として書類整理を始める慌ただしい物音と、椅子を引いてトイレに立つ人影。


それら全部を通過して、視線の矛先は彼に突き刺さる。


向井むかい


「はい」


返事が遅れると更なる叱責しっせきが飛んでくると分かっているので、英理えいりは素早く席を立った。

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