第10話 悪夢
暗闇の中に、少女の姿が浮かび上がっていた。
少女は、私に向かって微笑んで来た。忘れるはずがない笑顔だ。
笑顔が別の表情に変わる。怒り、悲しみ、戸惑い、呆れ、驚き。
どの顔も、私に何度も向けられた記憶がある物だった。
数人の男が現れ、少女を抑え付ける。
少女は必死に暴れ、抵抗していたが、しかし複数の男が相手ではどうしようもない。
私はそこへ走ろうとした。しかし足が動かない。拳銃を探す。それも、無い。
当然だった。私は本当はそこにはいないのだ。
今まで鮮明だった少女の顔に急に霞が掛かる。彼女がどんな表情をしているのが、どうしても私には見えない。
彼女がどんな人間なのか、どんな時に何を考え、どんな表情をするのか、私はそれを知り尽くしているはずだった。
だけど今男達に襲われているはずの彼女が、どんな顔をしているのかだけは、どうしても私には分からない。
そして―――
「くそ」
目を開けると同時に私は吐き捨てた。
自分が夢を見ていた事はすぐに自覚した。今までに何度も何度も見た夢だ。
ただ、見るのは久し振りでもあった。この国に戻って来てからは初めてだ。
村上と会話したせいか、あるいはソルヤとの出会いが想起させたのか。
枕もとの腕時計を見ると、時間は午前二時だった。眠ってから一時間も経っていない。
体を起こす。誰かがドアの前に立っている気配がした。
「黙ってドアの前に立つのはやめてくれないか。気になって寝られやしない」
控えめにドアを開け、パジャマ姿のソルヤが入って来る様子が月明かりに照らされた。今日買った物らしい、ピンク色のパジャマだ。
「ごめんなさい。何だかうなされている声が、リビングにまで聞こえて来て」
「いつもの事さ。イーリスは?」
イーリスなら私が夢でうなされる事があるのを知っているはずだ。
「まだ、昼間に手に入れたパソコンをいじってるよ。キザキがうなされている事に関しては、いつもの事だけど、気になるなら覗きに行けばいい、って」
「あいつめ」
額の汗を手で拭う。びっしょりと濡れていた。相当にうなされていたようだ。
「ただ悪い夢を見ていただけだ。気にするな」
「どんな夢だったの、って多分聞いちゃいけないんだろうね」
「その方がありがたいね」
私はベッドから立ち上がった。このままもう一度眠れそうもない。
「ごめん」
「何がだ?」
「見ちゃいけない所を、見ちゃった気もして」
「こんな夜中にリビングにまで聞こえるような声を上げてたんじゃ、仕方ないさ。起こして悪かったな」
私が何故うなされているのかまでは、イーリスも本当の所は知らない。だから気になるのならソルヤ自身の目で確かめさせるしかない、と思ったのだろう。
部屋を出てリビングまで向かった。ソルヤも黙って付いてくる。廊下の角でリビングから薄明かりが漏れているのが分かる。
イーリスが灯りも点けず、パソコンのキーを叩いていた。
「人の家の電気代使って遅くまで何やってる」
「やり始めると面白くて止まらない物で。心配しなくてもお前ほどソルヤの睡眠を邪魔してはおりませんわ」
こちらをちらりと見てイーリスは答えた。
私は灯りを点けると冷蔵庫の中からジンの瓶を取り出し、適当にグラスに注いだ。何かで割るかとも思ったが、それも面倒でそのまま呷った。
「ワタクシにはオレンジブロッサムを」
「未成年が何を言ってる」
「メキシコでは十八からOKなのですけれどね」
私がグラスに注いだオレンジジュースを机の上に置くと、イーリスは素直にそれを飲み始めた。
「イーリスはメキシコの人?」
「ええ。一年ほど前まではメキシコにいましたわ。こう見えてもあちらでは麻薬組織の傭兵と彼らに武器を流す死の商人のトップを兼ねております大悪人ですの」
そこまで言ってイーリスは微笑んだ。この女は時に驚くほど妖艶に笑う。
「と言ったら信じます?」
「半分、は信じるかな」
「へえ?」
「実はそれぐらいの大物だと言われても頷けるのが半分。今現在そんな悪い事をしてるようには見えない、と言うのが半分だね」
ソルヤの返答に、イーリスは虚を突かれたような顔をした。
「あまり油断するなよ、イーリス。この王女殿下は人を見る目だけはエスパーじみてる。下手に仕掛けると不意を突かれるぞ」
「憶えておきますわ」
イーリスは一瞬で余裕を取り戻したようだった。
「それで、何か分かった事はあるのかイーリス?」
「多少のデータは引っこ抜けましたけど、気になるのはこれぐらいですわね」
イーリスはパソコンをこちらに向けた。ソルヤの個人情報のデータのようだ。日本語に訳してある。
「これは?」
「見ての通り、連中が持っていたソルヤのパーソナルデータですわ。年齢、体重、身長、学歴、病歴に性格傾向や人間関係まで。一国の王女ともなるとプライバシーもへったくれもありませんわね。健康診断の時の物でしょうけど、下着姿の写真までありましたわ」
「え、いや、ちょっと待って。そんなの見ないで!特にキザキは!」
ソルヤが私の視界を覆い隠そうとする。
「で、それのどこが気になるんだ」
「無視するな、こらあっ」
「気に掛かるのはこの中の二つですわね。まあ、どちらも今の所、本当に気に掛かる、と言うだけですが。あ、さすがに下着写真は消しておきましたので安心して下さいませ」
イーリスがソルヤの入院歴をマウスで差す。
「私の入院歴?」
ソルヤは憮然とした表情ながらも結局一緒にモニターを覗き込み始めた。
「ソルヤ、このデータだとあなた生まれてから十歳までの間に四回も緊急入院していますよね?しかもどれも原因不明の大怪我で」
「病気ならまだ分かるが原因不明の怪我で入院ってのはどういう事だ」
私とイーリスに問われるとソルヤは首を横に振った。
「それは、私も良く分からないんだ。小さい頃、私は理由も分からないのに大怪我をした事が何度もあったみたい。正確には、私の身近で事故が起きた時、それに巻き込まれるはずもないのに巻き込まれたような怪我をした事があったんだって」
「曖昧な話だな」
「本当に子どもの頃の事ばかりだから、あまり覚えてないんだよね。そのせいで、昔から随分過保護にされてきたんだけど」
「真っ先に思い付くのはソルヤが子どもの頃から命を狙われていたと言う可能性だが」
「その場合、仮にも一国の王女が四回も殺され掛けて調査が全く進んでいない理由と、十歳当たりでぴたりと止まっている理由、そして何よりソルヤがどうしてそこまで狙われるか、と言う理由がやはり説明出来ませんわね」
「私が命を狙われてた、なんて話は今まで聞いた事無かったな……」
「まあいい、今は置いておこう。ただの偶然、で片付く事ではあるしな。もう一つの気になる事と言うのは?」
「こっちはさらに些細な事なのですけどね」
そう言ってイーリスはデータの最後の方にある一文をマウスポインタで差す。
「優しい妖精に該当……どう言う意味だ?エルヴァリの慣用句か?」
「英語にすればカインドフェアリー、と言う所でしょうかね。ソルヤ、エルヴァリ語にこんな慣用句がありまして?」
「ううん、思い当たらないかな」
少し考えてやはりソルヤは首を横に振る。
「とするとやはり何かの符丁でしょうけど、これ以上は情報深度が高いのか、意味は分かりませんの。ま、ソルヤを優しい妖精と評したくなるのは分かりますから、案外諜報局内部に王女ファンクラブがあるとかそんなオチなのかもしれませんけどね」
「だったら追い掛け回したりなんかせずさっさと裏切って欲しいな」
ソルヤがもっともかつふてぶてしい事を言った。
自分が妖精と評される事に異論を唱えるつもりは無いようだった。
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