第19話
すると、夏美がオレを見ながら変なことを言った。
「水洗の音ねえ・・・そうだ。小紫君、水洗の音がすればいいのね? 別に水が流れなくてもいいんでしょ? 音さえすればいいのね?」
「えっ、どういうこと?」
「水洗の音だけだったら、これを押しても出るわよ」
夏美が壁に設置してあるパネルの音符マークを指さす。
「何これ?」
オレはそんな音符マークは見たことがない。男子トイレにはなかった。女子トイレだけにあるものだ。八十八騎警部も初めて見るようだ。珍しそうに壁の音符マークをながめている。
夏美があきれたというような顔をした。
「何を言ってるのよ。トイレの擬音装置じゃない」
「擬音装置? いったい何に使うの?」
「知らないの? トイレのときに水洗の音を出すのよ。こんなのエチケットでしょ」
オレは首をひねった。
「倉持もトイレのときにそのボタンを使ってるの?」
「ええ、もちろん使ってるわ。女子はみんな使ってるわよ・・・って、小紫君、あなた、レディーにそんなことを聞くなんて失礼でしょ」
夏美がオレをキッとにらむ。八十八騎警部が不思議そうに夏美に聞いた。
「倉持君。そのボタンを押すといったいどうなるんだね?」
「水は流れなくても、水洗の音が出せるんですよ、警部・・・ほら、こんなふうに」
夏美はそう言って音符マークを押した。便器に水は流れないのに、ジャーという水洗の音が個室にひびいた。
オレと警部は唖然としてその音を聞いた。オレはびっくりした。女子トイレにはこんな装置があるのか! 警部も初めて見たのだろう。驚いた顔をしている。
そのとき、わいわいという騒がしい声がトイレの外から聞こえてきた。
安賀多高校ではクラブ活動は午後6時にいっせいに終わる。午後6時になると、本日のクラブ活動終了の校内放送が流れるのだ。みんな、それからトイレに行く。女子は連れ立ってトイレに行くことが多い。必然的に午後6時過ぎに女子トイレが混みあうことになる。
この日もまさにそうだった。
まず十人ぐらいの女子生徒がトイレの中に入ってきた。オレのダンス部の部員だ。おなじみの赤の半そでレオタードに身を包んでいる。胸には『AGADAN』の白文字だ。
その後に間髪を置かず、五、六人の女子生徒がトイレの中に入ってきた。こちらも、なんともかしましい。みんな、そろいの黒の長袖レオタード姿だ。体操部の女子たちだった。
するとすぐに、白のTシャツに、白のスコートという全員そろいのユニフォームを着た、十人ぐらいの一団がトイレに入ってきた。バトミントン部の女子だ。その後ろには、赤のシャツに赤のハーフパンツをはいた、五、六人ほどのグループが続いている。バレーボール部の女子だ。その後ろにも、女子たちが切れ目なく続いている・・・。
何で急にたくさんの女子生徒がこのトイレに? 考えている余裕はなかった。トイレの中はたちまち何十人という女子生徒で一杯になった。みんな、トイレの中で順番を待っている。トイレの中は女子生徒であふれた。押すな、押すなという状態だ。まるで、満員電車の中のようだ。
オレは部活の後の女子トイレが混むことは知っていたが・・・しかし、それにしてもこれは混みすぎだった。オレの頭は混乱した。どうして、こんなに大勢の女子生徒がこの女子トイレに?
そのとき、女子生徒の中から声が聞こえた。
「体育館のおトイレが修理中なんて・・・不便よねえ」
「そうなのよ。それにね、グラウンドの女子トイレも壊れているのよ」
そうか。それで運動部の女子生徒がみんな、この部室の横の女子トイレにいっせいに押し寄せたのか!
女子生徒が多数このトイレにやってきた理由はわかったが・・・オレはこんな事態は全く予想していなかった。
予期しない事態にオレはあせった。幸い、オレや八十八騎警部はトイレの一番奥にいるので、彼女たちにはすぐに見つからなかった。しかし、女子生徒たちに見つかるのは時間の問題だ。夏美がいるが、オレや八十八騎警部といった男性が女子トイレにたむろしているところをあまり女子生徒には見られたくない。見られたら、学校の女子生徒たちの格好の噂話にされることは間違いないのだ。そして、噂はあっと言う間に全校に広がるだろう。なんとかして、早く女子トイレから出なければ・・・
そう思ったときには遅かった。オレたち三人は、あっと言う間に大挙してやってきた女子生徒の波にのみこまれていた。そのまま、三人とも個室の中に押し込まれてしまう。オレたちが個室の中に入ると、個室のドアが女子生徒の波に押されてバタンと閉まった。個室に押し込まれたオレたちに当たって、便器のフタがパタンと閉じた。
オレは夏美と八十八騎警部といっしょに問題の個室の中に閉じ込められてしまったのだ。
個室の外はものすごい喧騒だった。若い女性のエネルギーが女子トイレの中で渦を巻いて爆発し、トイレ全体にウワーンという激しいうねりを引き起こしていた。オレは圧倒された。個室のドアの外から、汗に混じった若い女性特有の甘い匂いが流れてきた。その甘い匂いに混じって、彼女たちのさまざまな声が聞こえる。個室の外はなんとも騒がしい。
大勢の女子生徒に取り囲まれている。オレはなんだかイヤな予感がした。また、『すき』という言葉を誰かがしゃべるんじゃないか。こんな女子トイレの個室に閉じ込められているときに・・・どうか『すき』という言葉を誰も言わないで・・・オレは、せまい個室の中で夏美や八十八騎警部と肩をぶつけ合いながら天に祈った。
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