初対面だね、京介君

 クラスメイトの視線が自分の方に集中することに耐えられず、思わず教室から逃げ出してしまった。もうあと五分ほどで授業が始まるというのに、どこへ行こうというのか──今まで授業をサボったことのない京介は、しかし、教室へ帰る勇気も出ず廊下を彷徨っていた。


 ふと窓の外を見上げると、5月の柔らかな青い空が広がっていた。このまま学校を抜け出す勇気でもあればいいのだが、生憎、彼にそんな度胸はなかった。

どうしよう、と困り果てながらふと前を見ると、近くに保健室があることに気がついた。


「体調悪いし、少し休ませてもらおう……」


 ぽつりと呟き、保健室の扉を開けた。

だがそこには誰もおらず、全開になった窓から5月の暖かな風が吹き込んでいるだけだった。

ちょうどいいや、とベッドに潜り込み、大きく息を吐く。このまま1日寝ていようか、でもそんな悪いことしちゃだめだ、なんて葛藤している内に、だんだんと心地よい眠気に誘われて行った。寝ちゃだめだ、でもこのまま寝てしまいたい……



「やーい泣き虫きょうちゃん! お前ママがいないとなんにもできないんだろー、情けないの」

「一人でおつかいにも行けないんだろ? 恥ずかしいの」

「ママー、ママー! あはははは!」


 子供の頃から引っ込み思案で人見知りの激しかった京介は小学校に上がっても人に馴染めず、入学早々にクラスのからかいの対象になってしまった。何を言われても言い返せず泣くしかできず、そんな彼を周りの生徒は面白がって毎日のように悪戯や意地悪をしてきた。そんな環境の中で自己肯定感が育めるはずもなく、なのに気持ちに反して背丈だけは伸びていき、気がつくと人の視線を気にして常に猫背で生活するようになっていた。


 人の視線が怖い。

 できれば誰とも関わらずに生きていきたい。

 そう、これからも、ずっと、一人で……


「ん……?」


 ふと目を覚ます。

 目の前には誰もいないはずだった。なのに、目を開けた瞬間、見知らぬ人間の顔が目に飛び込んできた。


性別とか顔の造りとか、そんなものの確認なんてする余裕もなく、京介は悲鳴を上げて飛び起きた。


「うわあああ! ななな、なに、誰!」


 そこには、ベッドに上半身を預けて眠る少女がいた。顔立ちの整った、柔らかそうな少しウェーブのかかった長い髪が印象的だ。まつげも長く肌も白く、唇は可愛らしい桜色をしている。


「な、なに、誰この子」

「ん……あれ、いけない寝ちゃった」


 少女は目を覚まし、まだ少し眠そうなとろんとした目を京介に向けてきた。


「おはよう、よく眠れたかな?」


 少女は子供に対するような口調で京介に尋ねてきた。


「え、えと、君は……」

「ん? ああ、もしかして私のこと知らない感じかな?」

「そりゃあ初対面だし……ごめん……」

「そっかそっかー、いいよ全然大丈夫だよ」


 警戒心もなく、どこかゆるい雰囲気を纏って喋る少女。よく見るとここの制服ではない、紺色に赤いリボンの制服を着ている。転校生だろうか。それに彼女の口ぶりだと、自分と彼女は過去にどこかで会っているようだが───と京介が色々と考えを巡らせていると、少女は突然、ベッドに手をついてずいっと身を乗り出してきた。彼女は長いまつげの一本一本がはっきり見えるほどに顔を近づけてきて


「嫌な夢でも見たのかな、涙が浮かんでるよ?」


 と、指でぐいっと涙を拭ってくれた。


「うわ、うわあ!」

「えへへ、そんなに驚かなくても大丈夫だよ。私は怖くないから」

「ご、ごめっ……いや、そういう問題じゃなくて、あのっ! ていうか君、本当に誰っ……」

「顔色悪いけど大丈夫かな? しんどくない?」


少女はそっと京介の頬に手を触れる。


「ちょ、ちょちょちょっ……!」


 いくら美少女とはいえ初対面の人間に触れられることは京介にとって恐怖でしかない。反射的に手を払いのけ、転がるようにベッドから逃げ出した。


「あの、ごめん、僕、えと、人が苦手で……だから急に触られるのとかちょっと……怖くて……」

「そっかそっか。私もごめん、そうだよね、知らない人に急に触られたら怖いよね。ごめんね、つい心配し過ぎちゃって」

「心配って。本当に君は何者なの?」

「えへへ、それは後のお楽しみだよ」

「は? 本当にどういう……」

「あ、ごめんもう行かなくちゃ。それじゃあまた後でね。バイバイ京介君」


 少女はそう言うとくるっと身を翻し、走り去って行った。


「あれ……なんで僕の名前……」


 と京介が訝しんでいると、少女と入れ替わるように養護教諭の女性が入ってきた

「よく眠れた? 阿賀波君」


 くりくりとした大きな瞳と黄金色の髪、そして白い肌が印象的な、スタイル抜群の養護教諭・神滝こうたき晶。その愛らしい見た目から、男子生徒に絶大な人気を誇っている。


「あ、おはようございます神滝先生……。えと、体調も回復したみたいなので教室に戻ります」

「んー、どうせもう授業始まっちゃってるし、このまま堂々とサボっちゃおっか。そうだ、この間美味しいお茶もらったんんだ。淹れてあげるねー」

「はあ、どうも……」


 さっきの子は一体何者だったんだ?

 その事ばかり気になって、晶の話なんて半分も頭に入ってこなかった。


 それからしばらくして、晶がお茶を持って来てくれた。「はい、どーぞ」とお茶を渡すと自分も隣に座り、ずずっと一口すする。


「あ、ありがとうございます……」

「そういえばお父さん再婚するんだっけ。大丈夫?しんどくない?」

「まあ……それは。でも母が亡くなってもう10年経ちますし……父も僕の世話と仕事ばかりではしんどいでしょうし、幸せになって欲しいなと思っています。だからわがままは言いたくないんです」

「そっか。でもしんどいことをしんどいと言うのはワガママじゃないと思うよ? どうすればお互いに楽に生活できるのか、きちんとお話したほうがいいんじゃないかな」

「あまり気を使わせたくないので……」

「うちのお父さん凄い心配症でね、今でも夜八時過ぎるとちゃんと家に帰ったかって確認のメール送ってくるんだ。私もう23歳だよ? ……少しは大人扱いして欲しいなって思うけど、でもそれってちゃんと私のことを想ってくれてるからなんだよね。気を使わせたくない気持ちはわかるけど、何も言わないのはそれはそれで心配なんじゃないかな」

「それは……でも。僕が我慢すればみんな幸せになれますし。そんな単純な話だと思います」

「でもそれだと阿賀波君の幸せは……」


 そう言いかけた晶はすぐに口を噤んだ。

 深く俯いた京介が、ぐっとくちびるを噛んで顔を逸していたからだ。


 その様子から、彼がこれ以上は心に踏み込んでほしくないと言っているのがわかった。


 無理に触れようとすれば心を閉して逃げてしまう。


 だから晶は、質問を変えた。


「ところで相手の方ってどんな女性だったの? 大丈夫? きちんとやっていけそう?」

「えと……一応何度か一緒に食事をしたことがあるんですが、のんびりして優しそうな方でした。不安はありますがそこまで心配せずにすみそうです」

「そっかあ、それなら安心だね!」

「幸い、と言っていいのか、相手の方にお子さんはいないそうなので、そこは少し安心です」

「なるほどなるほど」

「……父は母が亡くなってから男手一つで僕を育ててくれました。だから、本当に、僕が人が苦手だからという理由だけで幸せを手放してほしくないんです。お相手の方も優しそうな方で父も幸せそうでしたし……」


 と、京介はお茶を一口すする。


「そっか。でも阿賀波君、約束してね? 絶対に、何かあったら一人で抱え込まずにきちんと私か担任の都筑先生に相談するって」

「は、はい、わかりました……」

「うん! 先生との約束だよ」


 と晶は立ち上がり、


「じゃあ私は仕事するから、阿賀波君はゆっくりねんねしててね」

「ね、ねんね……」


 高校生にねんねはないだろう、と思う京介だったが、晶は全く気にしていないようで、ごきげんに鼻歌を歌いながら机に向かっていった。



    ★




「やーっぱとっきー最高だよなあ!」

「この間のミュージックホーム最高だったよなあ」

「てか乳でかいよなー、委員長とどっちがデケえかなあ」

「あのスポーツドリンクのCMめっちゃエロいよな」

「わかる。セーラー服でプールに飛び込んでびしょ濡れになった姿、めちゃくちゃエロいよなあ」

「あー、あんな子が彼女だったらなあ」


 休み時間にこっそり教室に戻ると、男子生徒達が烏丸時生の話で盛り上がっていた。


 さすが今をときめく大人気アイドルである、その名前を聞かない日はない。が、よく考えたら、京介はその烏丸時生の顔をよく知らなかった。


 そんなに可愛いのだろうか、そんなに魅力的なのだろうか。と、ぼんやりと考えながら、烏丸時生の話題で盛り上がる男子グループにちらりと視線を向けてみた。


「またアイツら烏丸時生の話してるよ」

 と、緋夏の前の席で暇そうに七瀬がぼやいた。

「うむ。可愛さで言えば委員長の方が上だろう」


 正木は眼鏡をクイと上げ、当然と言ったふうに断言する。


「んなっ……! なななな何言ってるのよ貴方は!」

「これを見ろ。先週発売された新曲のジャケットだ。この衣装、委員長の方が可愛く着こなせると思うぞ」


 正木が緋夏にスマホの画面を突きつける。そこには水色と白で統一された、いかにもアイドルといったふうのきらびやかな衣装を身に纏った美少女が映し出されていた。


 柔らかそうなふわふわの少しウェーブのかかった髪、ぱっちり大きな目が特徴的な整った顔立ちの美少女────この少女、どこかで見たことがある。そう、つい最近、どこかで……そう、どこかで……


そう、あれはついさっき、保健室で──


 目を覚ましたら目の前にいた少女。鼻先がくっつきそうなほど顔を近づけてきた、あの少女。

京介の脳内を、答え合わせをしようとするように、少女の笑顔が掛け巡る。


「っああああ!」

 思わず叫び、立ち上がる京介。

 スマホに映る少女が、そして自分が体験した出来事が信じられず、衝動的に正木からスマホを奪い取って少女の画像を凝視した。


「う、嘘でしょ……だってこの子さっき」

「へえ、阿賀波って烏丸時生のファンなんだ?」


 七瀬が意外そうに、でも、からかうふうでもなく聞いてきた。と京介は七瀬に言われてハッと我に返った。


 そして自分が声を上げてしまったこと、人のスマホを奪い取ってしまったこと、そしてなによりクラスメイト達の視線が自分に集中していることに気が付き、徐々に恥ずかしさと恐怖が襲い掛かってきた。


「あっ………あぁあ………はうっ………」


 恥ずかしさと恐怖に体が震え、涙も溢れてしまう。


「ご、ごごごごごめん!返す!」


 京介は正木にスマホを突き返し、大慌てで教室を飛び出すのだった。


「ちょ、ちょっと阿賀波君っ?」


 緋夏は呼び止めるが、その声はもう京介には届かない。


一体どうしたのだろう?


 緋夏は心配そうな表情を見せ、七瀬は不思議そうな顔をし、そして正木は緋夏の乳を真剣な顔をして凝視する。


「だっっから見るんじゃないわよ!」


 緋夏は慌てて両腕で胸を隠した。









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