第26話 深淵の王子様、寝てしまう
壮馬の家に着くと、どうにか壮馬に鍵を開けてもらい、鈴乃は彼を支えるようにして、階段を上がり、彼の自室のドアを開けた。そして、彼をベッドの淵に座らせると、鞄を肩から外し、勉強机の上に置く。
「ソーマ、着いたよ」
当たり前のことを言って、鈴乃はレースのカーテン越しに外を見る。
空が橙色に染まり、赤い光が辺りを覆っている。
鈴乃は壮馬に近寄り、彼の前でしゃがみ込み、その俯いた顔を覗き込む。
青白く、悲しげな表情が浮かんでいる。
「ソーマ、大丈夫? 私は大丈夫だから、本当にこのことは忘れて?」
壮馬の反応がないので鈴乃は立ち上がる。
力なく頭を垂れている壮馬を見ていると、鈴乃の胸の奥が疼き、その奥底からどうしようもない感情が込み上げてきて、気が付けば壮馬を包み込むように抱き締めていた。
そして、その頭を優しく撫でる。
「すず……」
壮馬の口から声が漏れ出たかと思うと、壮馬も腕を鈴乃の腰に回して抱き締め返す。
その力が強く、鈴乃は体勢を崩し、そのまま二人はベッドに倒れて混んでしまった。咄嗟に起き上がろうとするが、壮馬の腕があって体勢を戻せない。壮馬は腰から背中に手をずらして、鈴乃を抱く腕に力を籠める。
「何もしないから、しばらくこうさせて」
完全に壮馬の抱き枕状態になってしまった鈴乃は、早鐘を打つ鼓動を感じながらも、壮馬がようやく生気のある人間に戻った気がして安堵した。
壮馬の胸の上に耳を付け、目を瞑る。壮馬の鼓動も自分のものと同じくらい早かった。呼吸で上下するのが何だかくすぐったい。壮馬の匂いがしたYシャツの洗剤の香りに交じって、する男の子の匂い。
どれくらいそうしていただろう。
自分の体に回る壮馬の腕が解け、ベッドに落ちた。
顔を上げると、壮馬が小さく寝息を立てていた。
鈴乃は彼を起こさないよう静かに体を離し、起き上がると、ベッドから足を下ろした。
そして、壮馬の寝顔を見る。
どこかあどけない表情で、最初に会った七歳のソーマを思い起こさせた。
端正な顔に、長くて黒いまつ毛。少し高い鼻と、わすかに開いた形の良い唇。
上下する胸に、タオルケットを掛け、鈴乃は静かに離れる。
そして、一瞬躊躇ったが、壮馬の鞄から鍵を取り出した。
壮馬に小さく「おやすみ」と言うと、ドアを軽く閉めた。
鈴乃は玄関を出たあと、彼の鍵を使って閉め、最後に鍵をビンテージ風のポストに落とした。 それから、壮馬の部屋の窓を見上げ、「また、明日」と呟くと、駅に向かって歩き出した。
駅に着いて、ホームで携帯電話を開くと、彩香からの着信が残っていた。
急いでかけ直すと、
「今、唯といるんだけど、すずも来られる?」
「行く! どこ?」
二人は学校の山ノ手駅近くの、商店街中央に位置するファミレスにいるとのことだった。
鈴乃はまた電車に乗り、二人のもとへ急いだ。
改札正面を出て、右の道に入るとそこは長い商店街だ。
普段は改札を出て左の道を行くので、商店街は入ったことがない。
駅に着いたことを連絡すると、彩香が迎えに出てくれたらしく、ファミレスの少し手前で合流できた。
奥の窓側の席にいた唯が手を振る。ソファ席に唯と彩香が座り、その正面の椅子に鈴乃が腰を下ろす。
ドリンクバーとポテトの注文を済ませ、話したくてうずうずしていた唯が、口を開いた。
「あのね、私、あのあと、カレンちゃんに話聞いたの。どういうことなのかって」
唯は、早足で駅に向かう加恋を呼び止め、駅に行く道すがらことのあらましを聞いたという。ずいぶん酷いことをしたというのに、加恋は悪びれる様子はなかったらしい。むしろ、壮馬が悪者ということで終始一貫していた。
壮馬が落とした栞を拾い、壮馬が探し回っているのを見て、ある交換条件を提示したらしい。
「『栞を返してほしかったら、私と付き合って』って言ったんだって。カレンちゃん、卒業式の日から付き合ってたバスケ部の彼氏と別れたばっかりらしくて、くさくさしてたらしい。そんなときに、唯一自分の告白を無碍にした壮馬くんの姿を見て、リベンジする気になったって言ってた。でも、壮馬くんは自分のこと覚えてもいなくて、頭にきて、交換条件を思いついたと言ってた」
鈴乃はメロンソーダを飲みながら、俯いた。
壮馬は脅されていたのだ、本当に。
「でも、壮馬くんは『自分には彼女がいるから付き合えない』の一点張り。だけど、『栞は返してほしい』と言うから、そこに漬け込んだって。メールしたり、ああやって待ち伏せしたり、アピールしてたらしんだけど……」
唯はそこで言葉を切った。
「脅して付き合おうなんてどうかしてるよ」
彩香が呆れたように言い放つ。
「プライドが許さなかったんだって。この私が、振られるなんてって」
「こんなやり方する方が、よっぽどプライド傷つけると思うけどねえ」
彩香は鈴乃が来る前に注文していた、唐揚げをつまみ上げ頬張った。
まるで安奈のような食べ方だ。
彩香は加恋に腹を立てているようで、彼女に対する言葉は辛辣だ。
おそらく、鈴乃が何も言わないから、代わりに怒ってくれているのだろう。
鈴乃は申し訳なさと有難さを同時に感じていた。
「一日でも良かったと言ってた。神谷くんから付き合ってほしいと言って、自分が振ったというストーリーにしたかったんだって」
加恋は壮馬のことを少しも好きではなかったということだ。
ただ、自分のプライドを傷つけた男が許せなかった。
その傷を癒すために、プライドを満足させるために、今回の事件を引き起こした。
(ひどいな……加恋さんは壮馬を傷つけた)
許せなかった。
トウカエデの葉っぱを捨てたことではない。
壮馬を困らせ、傷つけたことを、だ。
壮馬の様子は尋常ではなかった。自分がトウカエデの栞を失くしたことで既に弱っていたのに、そこに彼女に信じられないような要求をされ、そして目の前で、栞を失った。
壮馬はどうにか上手く立ち回り、トウカエデの葉を取り返そうとしていたのだ。だが、その方法が思いつかなかった。
そして、ようやく出た言葉が、「何でもする」だったのだ。
最後の手段だったに違いない。
そこまで壮馬を追い詰めた彼女が許せなかった。
「あの栞って、前にすずが教えてくれたものだよね? 子供の頃貰ったって言ってた」
鈴乃は頷く。
「だから、神谷くん、必至で取り返そうとしてくれてたんだね」
彩香は鈴乃を労わるように、優しくそう言った。
鈴乃は涙が溢れてきて、スカートのポケットからタオルハンカチを出して拭った。
「ソーマは頑張ってくれてたのに、私……何にも知らなかった。ひとりで苦しませてしまった」
あまつさえ、気持ちが離れているのではと思ったり、加恋のことを想っているのではなどと考えたこともあったのだ。
(ソーマ……ごめんね)
彩香と唯は、「大丈夫だよ」と優しく慰めてくれる。
鈴乃は次から次へと流れてくる涙を、止めることができなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます