第9話 深淵の王子様、家に招く

「神崎、お前知ってる? 3-3の同窓会。知らせ来た?」


 六時間目が終わり、教科書やノートを鞄に仕舞い込んでいると、背中に声を掛けられ、鈴乃は振り返った。

 後ろの席の土屋智己が携帯電話の画面を鈴乃に押し付けるように見せてくる。


「来たよ。でも、同窓会って……卒業してからそんなに経ってないよね」


 梅雨真っただ中の六月中旬。雨の降り続く日が多く、湿った生暖かい空気が纏わりついて、煩わしい。そんな折、卒業した西浜中学校の同窓会のお知らせが回ってきた。開催されるのは夏休みである、七月、八月を予定しているらしく、参加メンバーを募っているらしい。なるべく多くのメンバーが揃う日程を選ぶため、先に連絡をしてきたようだった。


「行く?」

「うーん……行かないかも」


 鈴乃が答えづらそうにそう言うと、智己は眉を寄せた。


「何でだよ、行こうぜ。みんなどうなってるのか気になるじゃん」

「数か月しか経ってないしなぁ。あやちゃんもすずちゃんもここにいるし、敢えて行くことないかなあ。会いたい人には個別で会えば良いしね」


 智己はむすっとして、携帯電話を鞄の外ポケットにしまいながら、「俺もよすか」と独りごちる。会話が終わったと見て取って、鈴乃は帰り支度に戻った。そこに、鞄を肩に掛け、洋菓子屋さんの赤い紙袋を片手から下げた壮馬が鈴乃のもとへやってきた。


「神崎さん、これ、ありがとう。面白かったよ」


 壮馬は赤い紙袋を鈴乃の掲げて見せる。


「え! もう読んじゃったの⁉ 早い! 面白かったなら良かったけど……無理してない? 普段読むものと全く毛色が違うでしょう?」


 壮馬が持っている赤い紙袋には、鈴乃が数日前に貸した少女小説が十冊ほど入っていた。壮馬がどうしても読みたいというので、男の子でも読めそうなものをと吟味して選んだものだ。


「本当に面白かったよ」


 壮馬は破顔した。鈴乃は袋を受け取ろうと手を伸ばしたが、壮馬は渡そうとしない。疑問に思って小首をかしげると、壮馬は「部活が終わってから渡すよ」と言ってから、鈴乃の後ろにいる智己にちらっと目をやった。智己の視線に気が付いたからだ。鋭い、敵意のある視線に。


「ありがとう。じゃあ、お願いします。とにかく、今日も頑張ろう!!」


 鈴乃は二人の空気には気づかず、立ち上がって鞄を持ち、椅子を机に押し込んだ。


「さて、今日はどこへ行きますかね」


 鈴乃と壮馬は並んで歩き出す。

 壮馬は一度、智己を肩越しに振り返った。智己の目はまだ、壮馬を睨みつけていた。



 ちょうど一週間前に遡る。

 壮馬が文芸部部長である三上昴に挨拶した翌日、急遽昴から招集がかかった。


「二人とも、我が校の学祭が7月頭にあることは知っているよね?」


 生徒会室の一角、小さな文芸部スペースで膝を突き合わせて座る夏服の三人。


「七月の五日、六日の土日ですよね?」


 鈴乃が答えると、昴は頷いた。

 星ヶ丘高校の学祭は、《星高祭ほしこうさい》と呼ばれる、全校生徒が一丸となって盛り上げる学園祭である。


「前も話したけど、星高祭で、文芸部は部誌を発行するんだ。それで、そろそろ準備にかかりたい。原稿を書いてきてもらうのはもちろんなんだけど、表紙と裏表紙もどうするかとか、テーマも必要かとか、そういうのを決めたいんだよね。六月末には原稿を印刷して、製本したいと思う。と、いうわけで」


 昴は丁寧に藁半紙を二人に配り、鉛筆を出すよう指示した。


「みんなの意見を聞きたいと思います。まず、テーマのあるなし! 共通のテーマを作るか、それとも自由に書くか」


 しばしの沈黙。

 一年生の二人には、勝手がよくわからないのだ。昴は、説明不足だったことを認識したようで、やや苦笑してから説明を付け足した。


「あ、えっとね、前回の部誌。僕が二年の冬に出したのは、テーマありでいきました。あると、書きやすいこともあるし、囚われすぎて書けなくなる人もいるけど……どうする? まあ、今までの例に挙げると、『秘密』、『夢』、『合鍵』、『もがく』なんていうのもあったかな。ひとつでも良いし、ふたつ入れても良いし。どうしたい?」


 昴が、一年生二人を交互に見やる。

 鈴乃はワクワクして目を輝かせる。テーマを決めて書くなど、今まで挑戦したことがない。そんな鈴乃を横目に、壮馬は頬を緩めた。


「面白そうですね! 私はテーマありが良いです」

「僕も」


 昴は嬉しそうにうんうんと頷いている。


「じゃあ、次はテーマだけど……何か候補あるかな? 出したら、この紙に書いてこう。それで良いものを発表してその中から選ぶ。えっと、テーマはひとつ? ふたつ?」


 このようなかたちで話し合いが行われ、星高祭に出す部誌のテーマは『運命』と決まった。これは壮馬が出したもので、昴もいたく気に入っていた。「ちょうど書こうと思っていたものにぴったりだ!」と。昴は恋愛小説を書いている。ロッカーに並んだ過去の部誌を読んでいたとき、当然昴の作品にもぶつかったのだが、彼の小説はピュアなラブストーリーだった。


 テーマも決まり、各自原稿を仕上げるよう指示された。紙のサイズ、書式、枚数。人数が少ないので、一人に割り当てられた頁数は多い。表紙に関しても、字のみか、白黒写真か、イラストかと問われ、鈴乃は写真を提案した。その写真は各自撮ってきて、良いものを選ぶことに決まった。


 締め切りも決まり、テーマも決まり、やることが明確に指示された。ここからは自分との闘いだと思っていたが、話し合いの帰り道、壮馬は鈴乃に書き方など諸々のことを教えてほしいと頼んできた。もちろん鈴乃も初心者で、独学でワープロ、パソコン相手に文字を打ってきただけなのだから、人に教えるような技術も知識もない。だが、確かに今まで一度も書こうとしたことのない人間の不安はよくわかる。「私にできる範囲でなら」と承諾した。


 その日から毎日のように、鈴乃は壮馬に書き方などのアドバイスをしている。最初は部室で行っていたのだが、生徒会メンバーの壮馬に見入る視線が気になって集中できず、帰り道から少し外れた公園や、ファーストフード店、ファミレス、駅構内、等々、学校外での部活動として二人は一緒にいた。アドバイスは一通り終わったが、鈴乃も自分が書く話の構想など壮馬に相談しながら考えていたので、どこで終わりにすれば良いかわからなくなっていた。




 曇り空の下、駅までの坂道を歩きながら、鈴乃は壮馬が好きだというミステリー小説の話を聞いていた。


「クリスティって、金銭目的の殺人が多いんだけど、実際、愛憎による殺人って多くないのかな」


 壮馬は遠くを見ながらそう言った。

「いわゆる遺産目的の犯行というやつですね! でも、テレビでやっているような二時間サスペンスだと、怨恨が多い気がするなぁ。再放送で見た知識だけど」

 鈴乃はそう答えてから、壮馬の手にある赤い紙袋を見下ろして、ぽつりとつぶやいた。


「私も神谷くんのお勧め小説、読んでみたいな」

「それなら、家に来て選ぶ?」


 鈴乃はぎょっとして壮馬を見上げ、ぶんぶん首を横に振った。


「いやいやいや! 神谷くん、セレクトでお願いします!」


 壮馬は鈴乃のあまりの過剰反応に苦笑したが、すまし顔に戻ってしばし思案していた。


「……あ、そうだ。今日は僕が活動場所まで案内するね」


 そう言うと、にこやかに笑いかけてくる。その笑顔が何だか怖くて、鈴乃は小さくなった。





「……神谷くん、ここって」


 壮馬に言われるがまま、電車に乗り、駅を降り、歩いてきた。

 駅付近は居酒屋、パチンコ店、ラーメン屋、スーパーマーケット、交番などが立ち並ぶ、にぎやかしい場所だったが、気が付けば閑静な住宅街。どこへ行くのだろう。良い公園があるのだろうかなどと考えていたが、考えが甘かった。


「僕の家です」


 壮馬は悪びれることなくそう言って、黒い門を開けた。

 平均より少し大きめの二階建て一軒家で、小さな庭もついている。黒い瓦屋根に、漆喰の壁。洋風でモダンな雰囲気の家だ。塀越しに少し頭を出した植木が並んでいる。


「神谷くん、あのですね、家はちょっと。菓子折りも何も持っていないしっ」


 鈴乃が入るのを拒んでいると、壮馬はまあまあと鈴乃の背を押して門の中に入れてしまった。そして、鞄から鍵を取り出して、木目調のドアの上下ふたつの鍵穴を回し、鈴乃を手招きして中に入れた。玄関は薄暗かった。右手側に棚があり、手のひらサイズの金色の招き猫がちょこんと座ってお出迎えしてくれている。左手側の白い壁には、波を描いたような青い絵画が飾ってある。


「お邪魔します」


 鈴乃は、先に上がっていた壮馬と家の中にいるであろう誰かに向かって頭を下げる。


「誰もいないから、畏まらなくて大丈夫」


 壮馬の言葉に、余計に緊張が走る。では、この家に若い男女が二人きりということではないか鼓動が早くなる。壮馬を信頼していないわけではないが、密室で二人きりになったことがないので、正直信用してよいのかどうか、判断が付かない。でも、このまま回れ右して帰っても彼を傷つけるだけかもしれない。自意識過剰は良くない。大丈夫、大丈夫と自分に言い聞かせて、鈴乃は丁寧に靴を脱いで、壮馬の靴の横にかかとをきっちり揃えて置いた。

 かすかに珈琲の香りがする。今淹れたというのではなく、家に染み込んでいるような、ふとした瞬間に感じるといったわずかなものだ。

 壮馬に促され、洗面台で手を洗い、廊下の中央に位置する階段を上った。

 階段を上がって、左奥が壮馬の部屋だった。壮馬は、カーテンを開け、電気をつけた。

 しっかり整理された勉強机に、シングルベッド、壁に並んだ天井近くまである大きなガラス張りの本棚。小さな箪笥。その上にはCDプレーヤーが置いてある。広さとしては八畳くらいだろうか。中央に置かれた黒くて小さな楕円形のテーブルに、クローゼットからマシュマロみたいな白いクッションをふたつ持ってきて、ひとつは鈴乃に渡し、ひとつは彼女の座る場所に置いた。自分は青い和柄の座布団を引っ張り出してきて、鈴乃と向かい合わせになる場所に置く。


「飲み物持ってくるから、ゆっくりしてて」


 壮馬はそう言って、部屋を出て行ってしまった。

 鈴乃はゆっくり膝をつき、マシュマロクッションに座った。柔らかく、思った以上に沈みこむ。ビーズクッションのようだ。鞄をいつでも取れるように自分の脇に置き、一呼吸おいてから、部屋を改めて見回す。


(来てしまった……男の子の部屋!)


 渡されたもうひとつのマシュマロクッションを膝の上に置いて、無駄に押し込んだり、撫でたりしているうちに、壮馬が盆を持って戻って来た。思わず、姿勢を正す。


「麦茶で良い?」


 壮馬は、テーブルに氷の入った麦茶を鈴乃の前に置いた。続いてもうひとつも机に置く。盆を勉強机に乗せると、机の隅に追いやっていた黒いノートパソコンを持て来て、黒いローテーブルに乗せた。


「パソコンでの書式も一応、確認したくて。だまし討ちみたいなことしてごめんね。あと、本も選んでもらえるから、一石二鳥かと思って」


 壮馬は電源ケーブルをコンセントに繋ぎ、慣れた手つきでパソコンを起動する。


「起ち上げ、少し時間がかかるんだ。本棚を見てみてよ。読みたい本があればそれを貸すから」


 パソコン画面とにらめっこしている壮馬に軽く頭を下げ、鈴乃はクッションを置いて本棚の前に立った。蛍光灯の光でガラスが反射し、タイトルが見えないところもあるため、鈴乃は躊躇いがちにガラス扉を横に引いた。


「わあ……」


 同じ色の背表紙がずらりと並んでいる。出版社別で並んでいるところもあるようで、まるで本屋の棚を見ている錯覚に陥る。赤い背表紙には、ミステリーの女王アガサ・クリスティの名前があった。壮馬が話していた作家だ。鈴乃もジュニア版のクリスティ作品を読んだことがあったが、ミステリーの女王との邂逅はそれくらいだ。殺人、死という文字がいくつか目についた。映像化したものやよく名前の挙がる有名なタイトルもあった。まずはここからだろうかと、鈴乃は知っているタイトルの本を手に取った。


「それは、絶対、先に最後を読まないでね」


 頭の上から声がして、振り向くと壮馬が鈴乃のすぐ後ろに立っていた。

 驚いて、飛びのく。


「まだ、ラストを知らないなら、絶対」


 壮馬屈託のない笑顔でそう言うと、「パソコン使えるから、教えてもらえる?」と鈴乃を再び座らせた。

 どうにかこうにか、壮馬の依頼をこなし、気が付けばもう夕方六時近くなっていた。壮馬も時計を見て、立ち上がる。


「そろそろ帰らないとね。送る」

「大丈夫だよ! 一人で帰れる」


 壮馬が眉間に皺を寄せて見てくるので、鈴乃は少々たじろいだ。


「駅までの道、わからないと思うよ」


 言われてみればその通りで、鈴乃は今日初めてこの場所に来たのだ。行きにきょろきょろと周りを確認してはいたが、覚えているかといえば自信がない。しかも、行きと帰りでは、同じ場所なのに見る方向が変わるので、しばしば別の場所だと錯覚するものだ。

 鈴乃は思い直して、「お願いします」とぺこりと頭を下げた。

 借りた本を鞄にしまっているとき、ふと壮馬がパソコンを勉強机に置いているのを見やった。目の端に気になるものが映る。木製の額縁に、酷く不釣り合いな小さな何かが飾られている。勉強机は入って奥の壁沿い、中央に位置しているのだが、その横にそれは飾られていた。壮馬の部屋にはそれ以外、飾りの類はない。壁に掛けられているのも、時計、カレンダー、そしてこの額縁くらいだ。

 何だか妙に気になって、鈴乃は額縁に吸い寄せられるようにその前に立った。突然、近くに彼女が来たので、壮馬は驚いたように鈴乃に目を向けた。

鈴乃はじっと額縁の中にある小さな赤い枯葉を見ている。


「この葉っぱ……」


 鈴乃が呟く。

 壮馬は息をのんで、鈴乃の様子を窺っている。


「この葉っぱ……私も同じようなの、持ってるよ」

「トウカエデの葉だよ」


 静かな声で答えると、壮馬はどこか泣きそうな顔で机に凭れて天を仰いだ。


「私、この葉っぱね。思い出があるの」


 鈴乃はじっと紅葉したトウカエデの葉を見つめている。だが、心は遠い昔に飛んで行ってしまったようだった。


「昔、昔といっても、七才くらいのときかな。公園で出会った子がいて、その子とまた会おうねって約束したの。この葉っぱを目印に、また会おうねって」


 鈴乃は少しの間、目を瞑り、無意識に胸の前で手を握っていた。そしてどこか寂しげに

呟く。


「元気かなあ……会いたいなあ」


 だが、壮馬に向き直ったときには、寂しさの欠片もその瞳からは読み取れなかった。


「もう帰らなきゃ!」



 二人は、灰色の雲間から覗く橙色の光を受けながら、駅までの道を歩いて行く。塾帰りの小学生や、部活帰りの中高生、買い物帰りの主婦や保育園帰りのママチャリなどと途切れることなく擦れ違う。

 たまに言葉を交わしながらも、二人の気持ちはどこか別のところにあった。

 改札前に着くと、壮馬は鈴乃の赤い紙袋を渡した。


「気を付けて帰ってね」


「うん、また明日! 原稿があるからなかなか読めないかもだけど、小説お借りします」


 鈴乃は手を振って、改札を通り、エスカレーターを上って行く。壮馬はその姿が見えなくなるまで手を振っていたが、完全に見えなくなると手をだらんと下ろして、どこか落ち着かない様子で、踵を返して家に向かう。


「……期待するな……期待するなっ」


 壮馬は小さな声で、そう自分に言い聞かせながら、帰宅する人の流れに乗った。



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