第7話 深淵の王子様、手を繋ぐ

「ま、待って、神谷くんっ!」


 鈴乃は息が上がったまま、壮馬の背中に声を掛ける。

 壮馬の足が止まる。鈴乃は小走りで彼の隣に追いついて、言葉を交わそうと俯きがちな彼を見上げた。だが、壮馬は心ここにあらずといった表情を浮かべており、何と声を掛けたら良いのか咄嗟には思いつかない。鈴乃が思案しているうちに、壮馬はまたすたすたと歩き出した。鈴乃は慌てて引き離されないよう、必死に歩幅を大きくする。


(どうしたって言うんだろう……私、何か気に障るようなこと言ったのかな?)


 横目で壮馬の顔を見たが、表情は変わっていない。鈴乃の心はざわついた。

昴が出て行ったあとに交わされた会話を思い出し、自分の発言のひとつひとつを確認してみる。今まで話したこともないような極めて個人的な話をした。少し気恥ずかしかったけれど、相手を傷つけるようなことは言っていないように思う。鈴乃は思案に暮れ、当惑していた。


 生徒会室を出てから、壮馬はずっとこの調子だった。まるで自分一人でいるように歩き出し、鈴乃が小走りで追いかけるのに気づかないのか、気づいていたとしても気にしていないのか、下駄箱で靴に履き替え、さっさと校門を出て行ってしまった。鈴乃が追いついたのは、学校と駅のちょうど真ん中くらいの下り坂だった。


(神谷くんじゃないみたい……ううん、神谷くんはこういうところがある人なのかも。私、何も知らないし) 


 鈴乃が知っている壮馬は、いつも人懐こい笑顔を向けてくる人。それでいて、一人を好み、休み時間はまるで人を寄せ付けまいとするように、静かに読書をして、授業中は真面目に黒板に向かっている、勤勉な人。でも時々、窓の外に思いをはせる、どこか謎めいた——男の子。


(何にも知らないのに、なんて考えるのもおかしいよね……)


 心がもやもやする。何だかよくわからないけれど、もの悲しくなり、胸の奥がきゅっと痛くなった。


(私、どこかで勝手に、親しくなったような気持ちになっていたのかも)


 足が止まった。立ち止まるとふくらはぎがずきずき痛む。無理に大幅にして、小走りで追って来たので、足はひどく疲れていた。壮馬の背中が小さくなっていく。 


(心がもたないとか、どうしようなんて言いながら、やっぱり嬉しかったのかな……? 神谷くんと仲良くなれたと……思っていたのかな? 今までのことは、ただの気まぐれな行動だったのかもしれないのに)


 鈴乃は自分の中に押し寄せる様々な感情で、頭がぐちゃぐちゃになった。

とにかく歩こう。そう決めて歩き出す。つま先に目を落としながら、一歩一歩進む。顔を上げれば、小さくなった壮馬の背中が映るかもしれない。今は見たくないのだ。

 歩みを進めていくうちに少しだけ冷静になってきて、鈴乃は顔を上げた。

 壮馬がいた。ガードレールに凭れ掛かって、こちらを見ている。息をのんだ。そこにいたのは、鈴乃の知っている壮馬だった。目に優しげな色を湛え、自然に微笑んでいる。鈴乃は思わず立ち止まった。


「ごめん、早すぎたね。考え事をしていると、周りが見えなくなるんだ」


 壮馬は鈴乃に向かって歩き出し、数センチの距離まで近づくと、彼女を見下ろした。

 こんなときいつもなら戸惑いばかりが大きくなるはずなのに、なぜだか少し安心する自分がいることに気がついた。


「ごめん、不安にさせた?」


 まっすぐ見つめるその瞳は微かに揺らいでいる。


「こんなことしたくなかったのに、ごめんね」


 壮馬はいつも謝罪の言葉ばかりだと鈴乃は思った。いつも「ごめんね」と口にする。

 鈴乃は言葉にならず、首を横に振る。


「ごめんね」


 壮馬は鈴乃の頬に指先で触れた。


「本当に、ごめん」


 鈴乃は驚いて、飛びのいた。頬が紅潮するのが自分でもわかる。

 壮馬は行き場の失った手を、しばらく宙に留めていたが、一度握り締めてから強引に鈴乃の手を取った。


「本屋へ行かない? 神崎さんの好きな本を知りたい」


 そう言ったか早いか、鈴乃の手を握ったまま歩きはじめた。初めはまた一人で歩いているときのような歩き方だったが、鈴乃が小走りなのがわかったのか、歩幅を合わせる。

 朝から厚い雲に覆われていた空から、ようやく最初のひとしずくが落ち、鈴乃の顔にも一滴、二人の繋ぐ手にも一滴と、アスファルトに点々と雨の跡が滲む。


「降ってきたね」


 壮馬は立ち止まり、鈴乃の手を離して、腕に掛けていた学らんを彼女の頭にすっぽり被せた。


「自分で持っていられる?」


 壮馬は鈴乃の顔が見えるように、位置を直して、彼女の顔を覗き込んだ。鈴乃はただ頷く。体がどんどん熱くなっていく。


「僕が連れて行くから、多少前が見えなくても、安心して」


 壮馬は再び、彼女の手を握り、歩き出した。

 鈴乃はもうどうしようもなく、鼓動が早くなるのを感じていた。

耳がよく聞こえず、眩暈さえする。

 壮馬の学ランのにおい、体に当たる雨粒よりも冷たく感じる、ひんやりとした大きな手。

 触れられた頬は、そこだけ傷があるかのようにずきずきする。

 頭がぼうっとして何も考えられない。夢の中にいるみたいにふわふわして、足さえ自分のものでないみたいだ。

 ただ、彼の手が込める力だけが、これは現実なんだと繋ぎ止めてくれていた。


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