第三章

       一


 次の日、午前の稽古の前に光夜と信之介は宗祐に呼ばれた。

 昨日の試合を見ていた弦之丞と宗祐は、光夜と信之介を宗祐が指導している組に入れてもいと判断したのだ。


 上の組の稽古は今まで以上に楽しかった。

 光夜は更に剣術の稽古にのめり込んでいった。

 宗祐の組では年数の関係で信之介と組むことが多かった。

 ちなみに信之介は十四歳だそうだ。

 光夜も信之介も宗祐の組に入ったとは言っても入門したばかりに変わりはないので雑巾がけは他の新人と一緒にやっている。


菊市きくち殿」

 稽古の後の雑巾がけが終わり、後片付けをしていると弟子の一人が話し掛けてきた。

 十七、八歳くらいだ。

 山田って言ったっけ……?

「何?」

「いや、菊市殿は内弟子なので存じておるのではないかと」

「何を?」

 光夜は山田を見た。

「その……、花月さんは決まった人がおられるのだろうか」

 見ると周りにいる弟子達も聞き耳を立てている。

「そんなの本人に聞けよ」

「いや、それは……」

 口ごもっている山田をその場に残し、後片付けを終えると光夜は母屋へ戻った。


 花月は何かをっている。

 その前に光夜の分の握り飯が用意されていた。

「なぁ」

 光夜は握り飯に手を伸ばしながら花月に声を掛ける。

「なぁに?」

 花月はつくろい物をしながら答えた。

「花月は想い人ってヤツいるのか?」

「気になるの?」

 花月は手を止めて顔を上げると可笑おかしそうに微笑んだ。

「いや、山田に聞かれたから。自分で聞けって言ってやったけど」

「そう言うことはね、本人には聞きづらいものなの。私には特にね」

 花月はまた手元に目を戻すと繕い物を再開した。

「なんであんたは特別なんだ?」

許嫁いいなづけがいたのよ。死んじゃったけど」

 花月の顔が曇った。

「なんで?」

「その人のお父様がね、お酒の席で同僚に斬り殺されたの。それで仇をたなきゃならなくなって……。仇討ちにいって返り討ちにったの」

「そいつのこと、好きだったのか?」

 花月が目を伏せた。

「……私が好きだったのはその人の従兄」

「そいつは?」

「その人も亡くなったわ」

「もしかして花月を取り合って決闘とか?」

「まさか」

 花月は微笑わらった。

 悲しそうなで。

 花月の許嫁は優しい人だったが剣術はさっぱり駄目だった。

 とても仇討ちなど出来る腕ではなかった。

 その為その従兄が同行する事になった。

 その従兄の剣術の腕はかなりのものだった。

 だから、どうしてその従兄の方を許嫁にしてくれなかったのかと父をうらんだりもした。

ばちが当たったのかな。二人とも死んじゃった」

 もう二年も前の話だけどね、と付け加えた。

 だ忘れられないのか……?

 とは聞けなかった。

 聞きたかったけれど、聞いてはいけないような気がした。

 その話はそれきりになった。


 ある日、光夜と信之介が雑巾がけをしているとおけが倒れる音がした。

 こぼれた水が床の上を広がっていく。

 振り返ると同じ宗祐の組の弟子二人がにやにやしながら倒れた桶の横に立っていた。

 確か麻生と武田、だったな……。

「悪いなぁ。足が引っ掛かっちまったよ」

 麻生がわらいながら言った。

「ざけんな! わざとだろ!」

 光夜が食って掛かった。

「何だぁ、兄弟子に向かってその口のき方は」

 武田が光夜の胸ぐらをつかんだ。

 光夜はその腕をひねり上げる。

「いててて……!」

「貴様!」

 麻生が殴り掛かってくる。

 光夜が武田の腕をつかんだまま足払いを掛けると麻生は床に転がった。


「この……!」

 麻生が起き上がって壁に掛かった木刀に手を伸ばした時、

「何をしている!」

 花月が稽古場に入ってきた。

 横に信之介がいる。

 信之介が花月を呼んだようだ。

「こいつらが桶を倒したんだ」

「わ、わざとでは……! なのに菊市が言い掛かりを……」

「なんだと……!」

「やめなさい!」

 花月が口論になりかけた二人の間に入った。

「光夜、その手を放しなさい。武田さんと麻生さんは帰るように。村瀬さんと光夜は掃除を終わらせてから母屋へ」

「花月!」

 光夜が抗議しようとしたが花月は無視して母屋へ帰ってしまった。

「ちゃんと掃除しとけよ」

 麻生はせせら笑うと武田と帰っていった。

「くそ!」

 信之介が余計なことをしなければあの二人をのしてれたのに……。

 光夜は腹を立てたまま掃除を終えた。


       二


 光夜と信之介が母屋へ行くと花月が二人分の握り飯を用意して待っていた。

「ご苦労様。お腹空いたでしょ」

 花月がいつもの口調で言った。

 てっきり怒られるものだとばかり思っていた光夜は肩すかしを食らった気がした。

「村瀬さんはおうちの方が用意してるかしら?」

「いえ、御馳走になります」

 信之介は膳の前に座ると頭を下げた。

「ほら、光夜も」

 光夜は言われるままに座った。


「花月、さっきのは……」

「分かってるって」

「なら、なんで……!」

ねたまれてるのよ。あれくらいは仕方ないわね」

 急に声音こわねと口調が変わった花月を信之介が驚いた表情で凝視ぎょうししている。

「妬む? なんで?」

 花月と一緒に暮らしてるからか……?

初伝しょでんを飛ばして中伝ちゅうでんもらうという噂のせいであろう」

 信之介が言った。

「中伝? なんだそれ?」

 光夜は花月の顔を見た。

「あー、光夜は稽古場に通ったこと無かったんだっけ。ごめんごめん、説明忘れてた」

 花月が自分の頭を叩いた。


 大抵の稽古場では一定の技量に達すると伝位でんいが貰える。

 修行上の心得や流派の由来、精神などが書かれているものだ。

 まず初伝、更に腕が上がると中伝、奥伝おうでんとなり最後が皆伝かいでん、いわゆる免許皆伝である。


「まぁ、皆伝まで行くのに厳しい修行をして十年以上は掛かるわね。それだけやってもなかなか貰えないものよ」

 ちなみに宗祐は皆伝、花月がもうすぐ奥伝だそうだ。

 今、稽古場で師範代をしている者達が皆伝らしい。

 皆伝の上が印可いんかで貰うのは更に難しい。

 印可になると独立を許されるが皆伝から十数年以上修行しても貰えるかどうかだ。

「お兄様が指導しているのは初伝から奥伝までだから、その組に入ってるって事はもう初伝は貰ってるって事になるわけ」


 とは言っても実際はまだ貰っていない。

 伝位の伝授でんじゅには師匠が伝位を書き写す必要があるし、貰う側も謝礼を用意しなければならないから準備がいるのだ。


「じゃあ、嫌がらせされたのは……」

「あの二人の今の腕だと中伝までいけるかどうかなのよね。うちでは経済的支援による伝授はしてないし」


 経済的支援による伝授というのは文字通り金を払って皆伝などを伝授してもらうものだ。

 剣術にも素養そようが必要だ。

 中にはどんなに頑張っても皆伝まで行かれない者がいる。

 そういう者が金を払って皆伝をもらうのを経済的支援による伝授と言うそうだ。


「腕がともなってないのに貰ってどうすんだ?」

仕官しかん――つまり御役目に付けてもらえるかどうかを決める時なんか皆伝かどうかで違ってくるでしょ」

「ふ~ん、それじゃあ、仕方ねぇな」

 光夜の得意げな表情を見ると、

「光夜、喧嘩は禁止だからね。自慢げな態度を取って喧嘩になったら伝授は中止。い?」

 花月がくぎした。

「分かったよ。無視すりゃいんだろ」

「そういう事」


 花月と光夜のり取りを見ていた信之介が、

「花月さん、菊市殿は口のき方がなってないのではありませんか?」

 と言った。

 その言葉がかんさわったが、

「あ、そうよね」

 花月がばつの悪そうな表情になった。

「光夜、人前ではちゃんとした口をきなさい」

「へいへい」

「あのね、大人になるには大人らしい態度が必要なの。それが出来るようになるまでは何時いつまでも子供のままよ」

 花月が光夜の目を真っ直ぐ見て言った。

「分かったよ」

 面白くはないが花月の言う通りかも知れない。

 ではという事は普段は今まで通りでいのだろう。

「花月さん、御馳走様ごちそうさまでした。拙者はこれにて失礼致します」

「はい、お粗末様でした」

 花月はそう言うと信之介を送り出した。


「ね、光夜、村瀬さんのこと、どう思う?」

 信之介が帰ると花月が光夜に訊ねてきた。

「どうって?」

「年も近いし、仲良くする気ない?」

「なんで?」

「仲のい人がいる方がいでしょ。切磋琢磨せっさたくま出来る相手がいる方が腕が上がるわよ」

「う……」

 剣術のことを持ち出されると弱い。

 光夜はひそかに、いつかは弦之丞や宗祐よりも強くなりたいと思っているのだ。

「そういう事なら……」

「じゃ、決まりね」

 花月が嬉しそうに微笑わらった。


「菊市殿」

 午後の稽古の後、雑巾がけが終わり片付けを済ませると信之介が話し掛けてきた。

「なんだよ」

 素っ気なく答えてから花月に仲良くするように言われていたのを思い出して、

「な、何か用か?」

 言い直した。

「そこもとが良ければ一手いって所望しょもうしたい」

 花月が言ってた切磋琢磨ってのはこういう事か!

 思わず破顔はがんした光夜に信之介が目を丸くする。

「いいぜ。花月……さん、呼んでくるから待ってろ」

 光夜は母屋へ急いだ。


 花月は居間で縫い物をしていた。

「花月!」

「何?」

「審判やってくれよ。村瀬が試合したいって……」

「分かった」

 花月はすぐに布を置くと立ち上がった。


 稽古場に戻ると光夜と信之介は木刀を持って向き合った。

「始め!」

 花月の合図と共に二人は青眼に構えた。

 二人がじりじりとにじり寄っていく。

 これ以上進むと斬撃ざんげき間境まざかいに入る、と言うところで二人は止まった。

 二人が睨み合っていると、不意に木の枝に止まっていた小鳥が飛び立った。

 その瞬間、光夜は床を蹴って胴を放っていた。

 同時に信之介は面に打ち下ろしてきた。

 二人の木刀がはじき合った。

 返す刀で小手を放つ。

 信之介がそれを弾いてく。

 光夜は体を開いてけると抜き胴を放ち胴に当たる直前で止める。

 二人の動きが止まった。

「一本」

 花月が宣言した。


 二人は一旦離れると再び向き合った。

 互いに青眼に構えると、花月の「始め」という合図と共にり足で相手の間合いに進んだ。

 今度は止まらなかった。

 一足一刀の間境を越えると同時に信之介が上段に構えた。

 信之介が木刀を振り下ろす。

 光夜はそれを受け止めた。

 鍔迫つばぜり合いになった。

 渾身こんしんの力で互いに押し合う。

 こいつにだけは負けたくない。

 互いにそう思っているのが分かった。

 二人はそのまま動かなかった。

 このままではらちが明かない。

 光夜は木刀を思い切り押すと、その反動で後ろにんだ。

 信之介はその隙を逃さず、踏み込んで突きを放った。

 光夜の喉元で木刀が止まる。

「一本」

 くそ! 反撃する間がなかった。

 光夜は三度みたび信之介と向き直った。

 結局その日の勝敗は五分だった。


 この日以降、光夜と信之介は稽古が終わると試合をするようになった。

 勝ち負けはほぼ半々。

「菊市殿はここに来るまで稽古場に通ったことがなかったにしては強い」

「光夜でいいよ。育ての親が剣術の師範代だったからな」

「では拙者も信之介と。そうだったのか」

 稽古の後に試合をするようになるとそのあと話をするようになり、二人はすぐに意気投合いきとうごうした。

 信之介と話をするのは花月と話すのとは違う楽しさがあった。

 今まで親しくなったのは花月くらいだ。

 同性で仲の良い相手が出来たのは初めてだった。


       三


「光夜、これ、洗ってあるから明日はこっち着て」

 花月が光夜にたたんだ稽古着を渡した。

 毎日飯が食えて、洗い立ての着物を着る。

 雨漏あまもりの心配をしなくてい家で眠れて剣術や素読すどくなどを習い、花月や信之介と他愛たあいないお喋りをする。

 空きっ腹をかかえて辻斬りを斬るのに比べたら雲泥うんでいだ。


 もっとも稽古はかなり厳しい。

 稽古場に来ている弟子達よりも遙かにキツいから前にいた二人が付いていけなくて出ていったのも仕方ない。

 よほど剣術が好きで体力がなければ無理だろう。


 こういう生活もあるんだな……。

 光夜が布団を引こうと押し入れを開けると三毛猫が丸くなって寝ていた。

 桜井家では猫を飼っていない。

 野良猫が入り込んできたのだ。

「お前もここで暮らしたいのか?」

 そうだよな。

 寒さも雨風もしのげるんだもんな。

 光夜は一旦猫を下ろして布団を引くとすみに猫を乗せてやった。

「餌はねずみでもってませろよ」

 光夜はそう言って猫の頭をでた。


 翌朝、目を覚ますと枕元に猫がいた。

 猫の足下にはすずめの死体がある。

 どうやらってきた獲物えものを見せに来たらしい。

「早速餌を獲ってきたのか。偉いな」

 光夜が頭を撫でてやると、猫は嬉しそうに喉を鳴らした。


 数日後、光夜と信之介は初伝と中伝を伝授された。

 光夜が師匠に渡す謝礼は花月が用意した。

 謝礼というから金かと思ったら紙や筆などの、そこそこ高価な品物だった。

 元々師匠である弦之丞の物なのだが、信之介が謝礼を用意している手前、光夜が何も出さない訳にはいかないからと花月が弦之丞の書斎から持ち出してきたのだ。

 元々弦之丞の物だから持ち主に返しただけと言う事になる。

 信之介も似たような物を持ってきた。

 伝位が伝授されたからといって何が変わったわけでもない。

 稽古の内容もそのままだし雑巾がけも今まで通りだ。

 初伝と中伝を読んでみたが今一つよく分からない。

 今までと何も変わらないのに、これを貰ったと言うだけで妬まれるというのも何か不思議な気がした。


 ある日、稽古をしていると、

「頼もう!」

 と言う声が聞こえてきて弟子達が一斉に戸口を振り返った。


 ひげ月代さかやきも伸ばし放題の大柄な男と、にやけた顔の痩せ気味の男、それに小柄な男が立っていた。

「桜井先生に一手ご指導願いたい」

 髭の男が言った。

 その言葉に弟子達は一斉に稽古場の壁際に寄って場所を空けた。

 光夜も皆に習って花月の隣に行く。

「光夜、若先生の実力の一端いったんが見られるい機会よ。しっかり見ておきなさい」

 花月が光夜にささやいた。


 確かに光夜はまだ宗祐が戦っているところを見たことがない。

 毎晩稽古で相手をしてもらっているが、花月と二人掛かりでも刀がかすりもしない。

 宗祐はほとんどその場から動いてないのに、である。

 弟子達は黙って男達に目を向けている。

 年長の者ほど男達を注視ちゅうししているのは花月が言ったのと同じ理由だろう。

 熟練じゅくれんした者ほど見取みとり稽古の大切さをよく分かっているのだ。


 男達はその様子に互いに顔を見合わせる。

 道場破りに来て弟子達に騒がれなかったのは初めてなのだろう。

 それでも誰かがこたえる前に男達は稽古場に上がり込んできた。


「師匠」

 宗祐が声を掛けると弦之丞が頷いた。

 宗祐が木刀を手に取って立ち上がる。

「当家では木刀を使っているがよろしいか」

「こちらも木刀を持参したゆえ

 髭の男はにやけた男に顔を向けた。

 にやけた男が木刀を取り出した。

「して名前と流派は?」

「一刀流、織田草太」

 と髭の男。

「同じく、新発田しばた庄助」

 にやけた男が名乗った。

「念流、浜田圭太郎」

 小柄な男がつぶやくように言った。

 宗祐と男達は稽古場の真ん中で向き合った。


 宗祐が青眼に構えた。

 織田も青眼に構える。

 宗祐と織田はじりじりと間を詰めていった。

 弟子達は息を飲んで見詰めている。

 あいつも結構つかえるようだが若先生の敵じゃねぇな……。

 光夜は織田の力量を見て取った。


 相手の力がどれくらいかを正確に見極める。

 それが生き残る秘訣ひけつだ。

 相手の強さを見誤みあやまると死につながる。

 光夜は辻斬りを斬っていた経験から身をもって知っていた。

 みな光夜を子供と見縊みくびって死んでいった。


 二人の間が一足一刀の間境の半歩手前まで迫る。

 織田の額から汗が伝った。

「いやぁ!」

 織田が裂帛れっぱくの気合いを発すると、斬撃の間境まざかいを踏み越え木刀を打ち下ろした。

 宗祐がはじいた。

 二人はすかさず二の太刀を放った。

 宗祐が突きを、織田が小手を。

 織田の木刀は宗祐の手から離れたところで止まった。

 宗祐の木刀が織田の喉元に突き付けられていた。

 固唾かたずを飲んで見詰みつめていた弟子達が一斉いっせいに息をいた。


 次は新発田だった。

 宗祐は男の木刀を左足を引いただけでかわし、そのまま振り下ろされた腕を狙って小手を打つ。

 骨がくだけるにぶい男がした。

 床に木刀が転がる。

「うあああああ!」

 男が腕を抱えて倒れる。


 小柄な男が無言で背後から打ち掛かった。

「若先生!」

 新入りの弟子が声を上げた。

 宗祐はわずかにたいを開いて木刀をけると振り返りざま胴を払った。

「ぐっ!」

 男が木刀を落としてうずくまる。

「ちっ!」

 舌打ちをして織田が掛かってきた。

 逆袈裟に振り上げられた木刀をけた宗祐は男の肩に木刀を振り下ろした。

 肩の骨が砕ける音がした。

「ぐあああああ!」

 男が肩を押さえて転げ回った。


「放り出せ」

 弦之丞が静かに言うと弟子達が男をかついで稽古場の外に連れ出した。

「あの程度の腕で道場破りなど」

 弟子の一人が鼻で笑った。

「あいつら、結構つかえたぜ」

 光夜が言った。


 花月がと言った意味がよく分かった。

 宗祐はあれでも殺さないように大分手加減していた。

 宗祐の実力はあんなものではない。

「その通り。若先生が強かったから弱く見えただけ。他の者だったら負けていたかもしれない」

 花月が光夜の言葉を肯定した。

 弟子がばつの悪そうな顔になる。

慢心まんしんしないで精進すること。剣の道にてはないのだから」

「はい」

 弟子はそう返事をすると稽古に戻った。

 稽古が再開されると光夜の頭から道場破りのことは消えてしまった。


       四


 ある日、光夜が雑巾がけの用意をしていると、

「稽古場での剣術なんて赤子の児戯じぎに等しいよな。人を斬って度胸を付けた者とは腕の差が違うんだよ」

 この前、嫌がらせをしてきた麻生が聞こえよがしに言った。

 先日の宗祐と道場破りの手合わせを見て刺激されたのだろう。


 何を当たり前のことを……。

 あまりの馬鹿馬鹿しさに光夜は麻生を無視して雑巾がけを始めた。

 子供じゃあるまいし、あんな当然のことを自慢げに言ってるようではたかが知れてる。

 中伝も怪しいわけだ。


 光夜は今までに散々人を斬ってきた。

 それを自慢する気はない。

 斬らなければ死んでいた。

 だから生きるために斬った。

 しかし斬られる者にも親しい者がいる。

 人を斬るという事はその人達の仇になるということだ。

 実際、仇討ちに来た者もいた。

 そいつらも斬った。

 そして仇が更に増えた。

 武士は人を殺すのが仕事だし剣術も人を斬るためのものだ。

 しかし、だからといってそれが人を殺して良い理由になるわけではない。

 武士とは戦闘要員であって無法者むほうものではない。

 正当な理由の無い暴力は許されない。

 それは相手も同じだ。

 正当な理由があっての攻撃であり、そして相手にも大切な人達がいるから斬れば残された人達の仇という事になる。

 斬るからには斬られる覚悟がなければならない。

 覚悟のない者に斬る資格はない。

 光夜はそれをもって知っていた。


「この前、すごかったもんな」

 一緒にいた武田が興奮気味に言った。

 この前?

 誰かを斬ったのか?

 光夜が何も言わないのをくやしくて言い返せないのだとでも思ったらしい。

 麻生は満足げな表情で仲間を引き連れて出ていった。

 光夜はそのまま雑巾がけを始め、それきり麻生のことは忘れた。


 ある日、稽古場に来た信之介が浮かない顔をしていた。

 稽古が終わるといつものように練習試合を始めたが、全く気合いが入ってないのが分かって光夜は木刀を下ろした。

「光夜殿、どうされた」

 信之介が訊ねた。

「お前、なんか悩みでもあんだろ」

「確かに太刀筋たちすじが乱れてるわね」

 光夜の言葉を花月が肯定する。

 信之介には既に花月のの話し方を知られているので他の者がいない時はいつも通りの口調で話していた。

 信之介が黙り込む。

「話したくないなら無理には聞かないけど、今日は稽古にはならないからこれで終わりにしましょう」

 花月がそう言うと、

「実は……」

 信之介が口を開いた。

「あ、待って、ゆっくり聞きたいから母屋へ行きましょう」

 花月はそう言うと、光夜と信之介を連れて母屋へ向かった。


「今、お茶入れるからちょっと待ってね」

「いえ、お構いなく」

 信之介はそう言ったが、花月は台所へ向かった。

「お加代さん、お茶入れてくれる? 三人分」

「お嬢様、申し訳ありません、今茶葉ちゃばを切らしてまして」

 お加代がまなそうに謝った。


「村瀬さん、ごめんなさい。お茶っ葉切らしてて」

 そう言いながら白湯さゆの入った湯飲みを信之介の前に出した。

 花月と光夜は並んで信之介の向かいに座った。

 信之介は改めて「実は」と切り出した。


 ある大店おおだなから信之介を婿養子むこようしに欲しいという話が来たのだという。

 信之介は算術さんじゅつが趣味で湯屋ゆやの二階でよくご隠居衆いんきょしゅうなどと一緒にっていたらしい。

 その算術の才を見込まれ娘の婿になって欲しいと言われたそうだ。


「お前、部屋住へやずみなんだろ。何が嫌なんだよ」


 部屋住みとは跡継あとつぎ以外の息子の事で飯食めしぐいともいう。

 跡継ぎ以外の息子は運良く仕官しかんかなうか養子にでももらわれない限り、実家で厄介やっかいになる。

 と言われるように、ただでさえ生活の苦しい武家にとって養わなければならない人間が多いほど家計の負担になる。

 信之介の家は御役目おやくめいているとはいえ貧しい御家人ごけにんだ。

 信之介をこの稽古場に通わせるのも苦労していると言っていた。

 村瀬家は番方ばんかたの家だ。

 番方というのは武官ぶかんである。

 万に一つでも御役目に付ける機会があるとすればそれは番方だ。

 当然剣の腕が立てば立つほど御役目にける可能性が高くなる。

 だから無理をして稽古場に通わせているのだ。

 だが、この泰平たいへいの世で新しく番方の御役目にける見込みは薄い。


「拙者は商人になどなりたくない。飯食めしぐいでも武士でいたいのだ」

「剣術を続けたいって言うのなら、うちは身分に関係なく受け入れてるけど」

 花月が信之介の顔色をうかがうように言った。

 とは言え武家から商家に婿入りするのでは覚える事が山程あって剣術どころではないだろう。

 いくら算術の才があっても商売の事は知らないのだ。

「いいえ、商家に養子になど……婿養子になど行きたくありません」

 なるほどな……。

 光夜は信之介が嫌がってる理由を悟った。

 花月に気があるから婿になりたくないのだ。


 冷や飯食いでは嫁をもらう事は出来ない。

 しかし、それは婿になっても同じだ。

 所帯しょたいを持ってしまったらもう嫁はもらえない。

 ただの養子なら商家でも花月を嫁にもらう方法が無いわけではない。

 武家の娘が庶民にとつぐことは出来ないのだが、娘を一旦いったん庶民に養子に出してしまえば武家の娘ではなくなるから嫁に行くことが可能なのだ。


 しかし婿養子ではどうしようもない。

 いくら花月の母親が町人とは言っても旗本の娘ではめかけにも出来ない。

 嫁げないくらいだから妾などとんでもない話ではあるが、嫁と同様に一度養子に出して庶民にしてしまえばいいのだ。

 桜井家の内証が苦しいならまだ望みもあっただろう。

 しかし桜井家は経済的支援での皆伝を伝授しなくてもいい程度には余裕がある。

 金目当てで花月を妾に出す必要がない。

 婿養子の立場で妾をかこえるのかは別として。


「拙者は武士でいたいのです」

 信之介はうつむく。膝の上で握った拳に涙が落ちた。

 しかし、こればかりは他人がどうこう出来る問題ではない。

 旗本にしろ御家人にしろ、どこも内証は苦しい。

 村瀬家も信之介を裕福な商家にやる事で援助を期待しているに違いない。

 この話を断るのは大身たいしんの旗本か大名の養子の話でも来ない限り無理だ。

 だが、そんなうまい話がそうそう転がってるわけがない。

 武家の子が親の言うことを聞かないわけにはいかないから信之介は商家へ婿養子にいくことになるだろう。

 武士が安易に算盤そろばんなんか弾くもんじゃねぇな。

 算術をやっていなければ今回の婿養子の話は来なかったのだから。


「花月、どこ行くんだ?」

 出掛けようとしていた花月に、庭で素振りをしていた光夜が声を掛けた。

「お茶っ葉切らしてるから買いに行くのよ」

「俺も行く」

 光夜は木刀を稽古場に戻してくると花月と共に家を出た。

「なぁ、俺がいて本当に大丈夫なのか?」

 光夜は前から気になっていた事を訊ねた。

「何が?」

「あんま内証が良くねぇんじゃねぇか。弟子も多くねぇし家計が苦しいんじゃねぇの?」


 桜井家の稽古場は小規模だ。

 弟子も二十数人ほどしかいない。

 茶葉を切らしていたのは買えないからなのではないのか。

 伍助のうちでは茶葉が切れるなんて事はなかった。

 経済的支援による皆伝を伝授するほどではないといっても、それはなんとか食べていける程度なのではないのだろうか。


「言ったでしょ。うちは知行取りだって。お米には困らないし、知行地から野菜も届くから束脩が少なくてもっていけるのよ」

 そういやめしは食い放題って言ってたな……。


 知行取りというのは領地(知行地)を持っていてそこからの年貢ねんぐとして米を受け取っている旗本の事である。

 領地が近い場合、領民から野菜が届けられることもある。

 年貢がせられるのは米だけなのと幕府直轄領の中でも特に江戸近郊は将軍直々じきじきに野菜の栽培を奨励しょうれいしているので作っている農家は多い。

 桜井家も時折ときおり領地から野菜が届いている。

 だから食事には必ず野菜のおかずが一品ついていた。

小普請組こぶしんぐみだけどね」

 小普請組というのは三千石以下の御役目にいていない旗本と御家人が配属される組である。

 つまり桜井家は領地を持っているが御役目にはいていないのだ。

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