キャッチボール
口羽龍
1
ここは兵庫にある聖水学園高等学校。私立の高校で、勉学に力を入れているが、スポーツの面でもいい成績を残している部活が多い。特に野球部は甲子園の常連校で、プロになりたい中学生が全国から集まってくる。
そんな高校の東門の近くに、ある定食屋がある。名前は『サウスポー』。店主は大久保達馬(おおくぼたつま)。この高校の卒業生だ。卒業生であるがゆえに、高校生からは『店長』ではなく『先輩』と言われている。また、教え子からは『大久保くん』と言われている。まるで高校生の頼れる兄のような人だ。
1月下旬、3年生は受験シーズン真っただ中だ。そして高校は、春のセンバツ高校野球の出場が決まった。その日は野球部とコーチ、監督らを招いて祝勝会を開いた。その日は彼らの貸切で、臨時休業したという。
今日も定食屋には店員や客の声がこだまする。彼らの中には部活帰りの子もいる。彼らは疲れてお腹がすいている。ここで晩ごはんを食べて、宿舎に帰ろうとしている。
午後7時過ぎになって、大きなバッグを抱えた2人の高校生がやって来た。彼らは野球部のようだ。
「いらっしゃいませ、何にしますか?」
「生姜焼き定食で」
2人はテーブル席に座った。店内には何人かの人がいるが、そのほとんどは高校生だ。彼らは楽しそうに定食を食べている。
「じゃあ、僕はチキンカツ定食で」
「かしこまりました」
彼らはこの定食屋の常連らしく、メニューを見ずに定食を注文している。
「生姜焼きワン、チキンカツワン!」
「あいよっ!」
達馬が大声で叫ぶと、店員が答え、調理を始めた。この時間は比較的すいているためか、店主はキッチンではなく客室にいる。
それから間もなくして、中年の男性がやって来た。加藤だ。加藤も野球部のOBで、達馬の同期だ。彼はプロに入らず、大学を経て会社員になった。
「達馬、久しぶりだよな」
「ああ」
達馬は笑みを浮かべた。まさか会えるとは。久しぶりに再会できて、嬉しいようだ。
「元気にしてた?」
「うん」
加藤も笑みを浮かべた。達馬の頑張りを見て、嬉しそうだ。
「定食屋を開業したって聞いてやって来た」
「どうだ、いいだろう」
達馬は今の生活を誇りに思っている。かわいい後輩に囲まれて、幸せな日々を送っているようだ。
「うん。かわいい後輩に囲まれて、素晴らしい第2の生活を送っているようで、ほほえましいよ。けがで引退したって聞いた時はびっくりしたけど」
「うん。だけど、僕を育ててくれた高校のために働きたいと思って定食屋を開いたんだ」
達馬は高校が夏の甲子園で準優勝した時のエースだった。ドラフト1位でプロ入りし、ゆくゆくはエースに、そして侍ジャパンになると思われていた。だが、プロ入りしてからはけがの連続で、なかなか登板機会に恵まれず、わずか3年で戦力外通告、引退となってしまった。その後、自分を育ててくれた高校の力になりたいという思いから、この定食屋を開こうと思ったという。最初は定食屋で働き、その腕を磨き、ようやく10年前、、この店を開く事ができた。ようやく第2の人生を見つける事ができたようで、本当に嬉しい。
「そっか。あっと、来たんだったら注文しなくっちゃ。えーっと、肉野菜炒め定食で」
「はい、かしこまりました。肉野菜炒めワンです!」
加藤はキッチンの様子を見ている。幸せそうだ。第2の人生をようやく見つける事が出来て、一安心だ。戦力外になり、毎日苦悩している事をテレビで知った時には不安になった。だが、後輩に囲まれて幸せな日々を送っていると、自分も嬉しくなる。
しばらくすると、店員がお盆をもってやって来た。お盆にはメニューが載っている。
「お待たせしました。生姜焼き定食と、チキンカツ定食です」
「ありがとうございます」
2人の野球部員は定食を食べ始めた。ここの定食はボリュームがあって、スタミナが出る。練習の疲れが吹っ飛ぶ。また明日、頑張ろうという気持ちになれる。
それから間もなくして、私服の男がやって来た。その男は猪野孝之(いのたかゆき)といい、去年のエースだ。卒業後はプロ入りする事が決まり、来月からキャンプで沖縄に向かう。しばらくこの定食屋に来ないだろうと思い、食べ納めに来たようだ。
「先輩!」
その声に反応して、達馬は入口を向いた。そこには猪野がいる。テレビで見ていて、本当にいい投手だなと思っていた。プロ入りした時には、共にドラフト指名を受けた部員と共に宴会をして、喜んだ。
「猪野くんじゃないか!」
「はい。プロ野球選手になって、もうすぐキャンプに行ってきます」
達馬は気づいた。もうこんな季節なのか。自分なんかキャンプインして間もなくけがをしてしまい、それ以後もけがの連続だったな。
「そうか。僕みたいに全く活躍できなかったって事になるなよ」
忠告すると、猪野は笑みを浮かべた。そんな事にはならない。自分は体がタフだ。大丈夫だ。
「わかってるよ。あっ、注文は唐揚げ定食で」
「はい、わかりました。唐揚げワン!」
達馬は去年の夏の甲子園を思い出した。みんなで応援して熱くなった。だけど、負けて選手が涙を流しているのを見ると、自分も悲しくなりそうだった。もう3年生と一緒に野球ができないと感じると泣けてくる。そして、土を持ち帰るのを見て、また心打たれる。
「今年の夏、けっこう頑張ったよな」
「うん。ベスト8だっけ?」
今年の聖水学園高校はプロ注目の右腕、猪野孝之に注目が集まっていた。優勝候補と言う評論家も少なくなかった。だが、準々決勝で強豪校に敗れてしまった。
「ああ。大久保先輩は準優勝した時のエースだったんだよな」
「うん」
達馬は聖水学園高校が今までで最高の準優勝をした時のエースで、プロ注目のサウスポーだった。将来を期待されたのに、すぐにプロではダメになった。まるで今、定食屋をやっているのが嘘のようだ。
「将来、エースになりたい、侍ジャパンになりたいと言ってたのに、けがでこんな事になるなんて」
達馬は少し泣きそうになった。だが、加藤が肩を撫でたので、泣かなかった。こうして、先輩に囲まれて第2の人生を送っているのが、何よりも嬉しい。プロで通用しなかった悲しみが一気に吹っ飛ぶ。
「それはそうと、春の選抜、出場が決まったんだって?」
聖水学園高校は今年の3月に行われる、選抜高校野球への出場が決まった。一足早い春の便りに、練習場で練習をしていた野球部員は喜んだ。そして、出場決定を知ったOBの達馬もとても喜んだ。
「そうだよそうだよ」
達馬は願っていた。自分がエースの時の最高成績、準優勝を越え、優勝旗を持ち帰ってくれる事を。彼らならきっとやってくれるはずだ。だって先輩思いのかわいい後輩だから。
「頑張ってほしいね」
「もちろんだよ! 僕も野球部の先輩として、応援するよ!」
達馬は笑みを浮かべてキッチンに戻った。野球部の様子を加藤はじっと見ている。春が待ち遠しい。彼らが選抜で一生懸命プレーして優勝してほしい。
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