第9話 ケアマネ、【ケアプラン】を立てる


 ケアマネは無力だ。


 介護サービスが充実している日本ですら、自分の無力さに何度も何度も打ちのめされた。

 どれだけ介入しても、一向に生活状況が改善されない家庭はごまんとあった。日に日に悪化していく認知症の親を前に、涙を流す家族の愚痴を聞いたことも一度や二度ではない。


 それだけではない。


 独居で困っているはずなのにあらゆるサービスの利用を拒否した結果、自宅で孤独死した男性がいた。『自分で介護をしなければ』と思いつめて母親を殴って怪我をさせ、結果として母親と離れて暮らさざるを得なくなった息子がいた。家族の生活を守るために、泣く泣く父親を老人ホームに入れた娘がいた。認知症の夫に毎日のように罵声をあびせられ、とうとう我慢できずに夫とともに首を吊った妻がいた。


ケアマネにできることなど、たかが知れている)


 そんなことは、百も承知だ。


「我々にできることは、それほど多くはありません。助けたいと思ったところで、彼らを本当の意味で救うことなどできないのです」


 ケアマネが介入したところで、動かなくなった身体が動くようになるわけではない。物忘れが治るわけではない。彼らの苦しみを本当の意味でなくすことなど、できはしないのだ。


「……それでも、できることはあります」


 ネルは改めてノートを広げた。そこには、最初の日に書き出したアクトン夫妻とその周囲に関する情報がある。あれからも、毎日のように書き足し続けてきた。


(できないことばかりに目を向けるのは、三流のケアマネ)


 かつて、彼女が先輩ケアマネに言われたことだ。


「できることを探しましょう」


 ネルの言葉に、レイラが頷いた。


「まずは、アクトン夫妻のところに行きましょう」

「え、ここで考えるんじゃないんですか?」

「介護の基本ですわ。本人とその家族を、置き去りにしてはいけません」


(【利用者本位】……。この世界でも、その理念だけは絶対に忘れてはいけませんわ)



===Tips9===


【利用者本位】とは

介護保険制度に掲げられている理念の一つ。利用者主体、当事者主権とも言う。

あくまでも介護の主体は介護を受ける高齢者本人であり、あらゆるサービスは高齢者本人の選択に基づいて提供される。高齢者自身の自己決定を保障しなければならないという、原則だ。


=========



 ネルはレイラを連れて、アクトン夫妻の家を訪ねた。初めての出会いから、既に2週間が経とうとしている。





 * * *





 アクトン夫妻の家は、相変わらずの状況だった。以前よりも家の中は荒れてはいるが、夫人のベッドの周囲だけは清潔に保たれている。


「今日も授業ですか?」


 疲れた顔で訪ねたアクトン氏に、ネルは微笑みを返した。


「いいえ。今日は仕事で参りましたの」

「仕事、ですかい?」

「ええ。国王陛下から特別職を任されて、この街のお年寄りの皆様のお手伝いをすることになりました」

「はあ」


 アクトン氏はよく分からないということを隠しもせずに首を傾げた。ネル貴族令嬢を前にして表情を繕うことができないほど、疲れているらしい。


「まずは、この街に住むお年寄りの方の、困りごとをお伺いしたいのです」

「困りごと、ですかい……」


 ネルは貴族なので無碍にすれば不敬罪に問われることもある。アクトン氏はううんとうなりながら、慎重に言葉を選んでいるらしい。


「失礼ですが、奥様のお世話をお一人でなさるのは大変ではありませんか?」

「そりゃあ、大変だけど」


 アクトン氏がパッと夫人の方を見た。こんな話を聞かせたくないと思ったのかもしれない。それでもネルは畳み掛けた。


「これからも、お一人でお世話を続けられるのですか?」


 これには、隣に座っていたレイラが顔色を青くした。夫人が声を上げて泣き出したからだ。


「ネルさん……」

「大丈夫よ」


 二人が小声で話す間にアクトン氏がベッドに駆け寄った。


「ごめんなさい、ごめんなさい。私がこんな身体になったばっかりに……」

「お前さんが気に病むことじゃないよ」

「でも、あんたに慣れないことばかりさせて」


 ネルもベッドの脇に歩み寄った。


「失礼なことを言って申し訳ありません。それでも、とても大切なことなのです」


 できる限り柔らかく聞こえる声音で、ネルは呼びかけた。


「今のままの生活をずっと続けることは難しい。お二人にも、それがお分かりですね?」


 老夫婦が押し黙った。その沈黙が答えだ。




「……ばあさんを、どこかへ連れて行くのか?」




 静まり返った部屋の中、小さな声が響いた。

 それこそが、彼が最も恐れていることなのだ。


 ネルはできるだけゆっくりとした動作で床にひざまずき、アクトン氏の顔を覗き込んだ。


「そんなことは、絶対にいたしません。お二人がここで暮らし続けたいと願うなら、それを助けるのがわたくしの仕事ですわ」


 アクトン氏の瞳から、ポロリと涙がこぼれた。


「ばあさんは、ずっとわしを支えてくれたんじゃ。ばあさんの作った飯を食べて、わしは生きてきた。わしは、わしは……!」


 それ以上は言葉にならなかったが、ネルには彼の気持ちがよくわかった。


「奥様は、いかがですか?」

「わ、私は……」


 夫人が嗚咽を漏らしながらも、それでも必死で言葉を紡いだ。


「こ、ここにおっては、じいさんに面倒をかけるばかりだから、山に捨ててくれと言ったんです! それでも、じいさんが一緒にいたいと言ってくれるから」


 アクトン氏が夫人の手を握りしめた。


「死ぬまでじいさんと一緒にいたいです……!」


 ネルは、その言葉を確かに心のノートに書き留めた。彼らの希望は、死ぬまで共に生きることだ。


 それを叶えるのが、ネルケアマネの仕事だ。


「確かに、承りましたわ」

「なんとか、なるんですかい?」

「お約束はできませんが……。それでも、全力でお手伝いをいたしますわ」

「手伝い?」

「ええ。ここで暮らすのはお二人です。わたくしができるのは、ほんの少しのお手伝いだけですわ」


 大したことはできない。できることは、ほんの小さな手助けだけだ。

 それでも。

 その小さな手助けが、何かを変えると信じるのだ。



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