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 吸い殻が三本溜まった灰皿の上にきれいな灰皿を積んで目隠しし、また別のきれいな灰皿を客の前に差し出す。グラスに水滴がつきはじめたらハンカチで拭き、お酒はなくなる前に注ぐ。水割りの酒の量は指二本分。お客が自由に飲めるハウスボトルは焼酎とウイスキーがあるので、客がどちらを飲むのか把握して注ぎ分ける。大体は水割りだが、たまにロックやソーダ割りもいるので注意。客がお手洗いに行きたがれば、先客がいないことを黒服と呼ばれるホール業務を担当するスタッフに確認してもらった上で、客とともに席を抜け、客がトイレから出てきたら、おしぼりを手渡す。


 覚えることが思いのほか多く、真琴は面食らったが、記憶することに関してはさほど苦労することはなかった。

 会話をすることの方が真琴には胃が痛む業務だったが、お客に気に入られない限りは一度の接客は大体十五分程度なので、挨拶して、適当に相鎚を打っていればなんとかその場はしのげた。

 その日は、目当ての女の子がいないフリー客を三人、複数の客からの指名が被った女の子のヘルプを五件こなした。

 送りの車は同じ方面の女の子の複数の家を経由し、真琴が家に着いたときには午前三時になろうとしていた。シャワーを浴び、布団に入ってもなかなか眠れず、ようやくまぶたが閉じきったときには外はもう明るくなっていた。


 翌週金曜日の夜、二回目の勤務を終え、真琴はまたしても眠れず、ベッドの上でキャバクラドレス専門店の通販サイトを眺めていた。

 店で着るドレスのレンタル代は一回千円。これから先、どれほど働き続けるかはわからないにしても、買えば安いものだと三千円しないものもある。

 まずは一着買ってみよう……そう思ったのは、レンタル代の事情はもとより、他の女の子たちはみな、自分に合ったものを着こなしていると感じたからだ。ドレス、バッグ、ハイヒール、アクセサリー、すべて抜かりなく自分に似合ったものを身に着けていた。その場で自分だけが異物であるような気がして居心地が悪かった。

 真琴は店のレンタル用ドレスを毎回借りていた。借り物のドレスは、サテンのような薄ピンク色の生地で、首元にはビジューが並んでいる。スカート部分はフレアになっている上、ふとした瞬間に下着が見えてしまいそうなほど短い。サイズも何もかも、真琴には合っていなかった。

 バッグは黒のシンプルなクラッチバッグ、ハイヒールはドレスと同じ薄ピンク。あまりの地味さで、キラキラした店内で見失うと二度と見つけられなくなりそうだ。ゲームなら初期装備どころか、村人Aだと真琴は自嘲する。


 一時間ほど悩んだ末選んだのは、鮮やかなブルーのタイトドレスだった。全体的にシンプルなデザインだが、ウエストの一部がレースになって透けている。

 ドレスに合わせてハイヒールとバッグも選択し、購入画面に進んだ。しめて一万五千円。一つずつはそう高くないものを選んだが、それでも本日分の給料のほとんどが消し飛んだ。


 三回目の勤務の日は翌日、土曜日だった。

 昨日連絡先を交換した客から、同伴してあげると申し出があった。そのため、想定よりも早く家を出る必要があり、本日の夕方頃に届く予定だったドレス一式を受け取れない。いたしかたなしと、店長に同伴出勤をする旨と、今日もドレスを貸してほしいことを連絡すると、すぐに返信が来た。

『初同伴、おめでとうございます。未経験なのによく頑張りましたね。本日アヤさんは午後八時半の出勤ですが、同伴でお客さんと一緒に入店していただける場合は九時入店で大丈夫です。それでは本日もよろしくおねがいします』

 確実に客を連れてくることができる同伴は、出勤時間を三十分後ろ倒しにしてもらえるということだった。しかもインセンティブがつく。ただでさえ高い時給にプラスしてもらえるのはありがたい。


 客は四十代の経営者だった。同伴をすると決して安くはないセット料金に加えて更にお金がかかるのに、お金持ちはすごいなあ、と真琴はのんきに構えていた。


 午後六時五十分、客が待ち合わせの時刻に二十分ほど遅れて来る。

「ごめんね遅くなって。打ち合わせ、引いちゃってさ……さあ、お店は予約してるんだ。行こうか」


 午後七時、男の行きつけだという店に招き入れられる。

 控えめな看板の、いかにも人を選んで客を取っていそうな店。

 天ぷらが特にお勧めだと男は言う。勧められるままに出てきた皿を箸で突くが、最近の食欲不振に緊張が拍車をかけている。ほとんど何も食べていないのに、胃はまるで空気でパンパンになっているみたいに食が進まない。

 男は「細い子はやっぱり少食だね。かわいい」と嬉しそうに、甘ったるい声を出した。


 午後八時、男が会計を済ませる。店に行くにはかなり早いが、真琴にとっては早くふたりきりの状態が終わるので、ありがたいと思った。

 店までは歩いて十分ちょっとの距離だが、男はタクシーを呼ぶよう店員に伝えた。なるほどお金持ちは歩かない距離なのだなと、真琴は羨ましくなる。


 タクシーの後部座席にて、男は真琴の手を掴み指を絡めた。真琴は一瞬眉をひそめたが、奥歯を噛み締めて嫌悪感を隠した。

 信号に引っかかったりしながら車で走って三分のところで、キャバクラがある通りを過ぎた。

「あれ、お店過ぎちゃいましたよ?」

 男は静かに、「そうだね」とだけ答えた。

「すみません運転手さん、引き返してください」

「引き返さなくていいです」

 男が被せるように、今度は大きな声で言うものだから、真琴は肩をびくつかせた。

「このまま目的地向かいますね」

 こともなげに言う運転手に、真琴は、でも、と言ってその先の言葉を見失う。男は嫌な笑みを浮かべながら真琴を見つめた。

 ふたりきりじゃないのに、ここに味方はいない。


 午後八時二十分、店から二キロほど離れたホテル街で、タクシーから降ろされた。

「アヤちゃんの好きなホテルを選んでいいよ」

「どういうことですか?」

「そういうのはいいから。早くしないと九時の出勤に遅れてしまうよ」

「私はそういうのじゃないです。早くお店に」

「わかってないねえ。きみは今までに夜の仕事の経験がないから知らなかっただろうけど、キャバ嬢はみんなこうして稼ぐんだよ」

 恐怖で全身が震えた。比喩表現でなく、真琴の体は実際震えていた。

「そんなことするなら、最初からそういうお店で働きますよ」

 後ずさりしながら真琴は声を振り絞った。何かあったら店長に電話しよう、と携帯を握り締める。

「あら、そんなこと言うの?ここは流れに任せたほうが賢いんじゃない?君はそんなに馬鹿な子じゃないと思ったんだけど」

 男は真琴の腰に手を回して耳元で囁いた。

「で、どうするの?」

 背筋がぞわりとして吐き気すら覚えたが、体が固まってしまって拒絶の姿勢も取れなかった。

「ほら」

 誘う甘い声が耐え難く、力を振り絞って腰に回された手を払い除け、男と対峙した。

「そう。じゃ帰るね」  

「け、結構、です!」


 午後八時五十分、なんとかタクシーを捕まえて出勤したが、客を伴ってはいないため遅刻だ。

 店長に事情を説明するため、入店する前に入り口のすぐ隣りにある事務所のドアを叩いた。

「店長、すみません、澤田です」

「え? ああ、アヤさん……はいどうぞ」

「同伴、お客さんに一緒に来てもらえなくなってしまって……ごめんなさい」

「どうして一緒に来てもらえなかったんですか?」

「その……ホテルに、誘われてしまって……すみません……」

「そうですか。うち、遅刻のときは罰金かかるんですよね。一時間以内の罰金は三千円になります」

 怒られないとは思っていなかったにしても、多少なりとも心配をされると思っていた真琴は面食らった。

 真琴の目にごく薄っすらと涙が浮かぶ。そんな様子を見た店長は、ため息をつくような、投げやりな言い方で真琴をたしなめた。

「 枕をするなとは言いません。しろとも言いません。ただ他の女の子や楽しく飲んでいるお客様に迷惑はかけないでくださいね」


 深夜十二時半、真琴は事務所に呼ばれた。まだ営業は終了していないが、客が少ない場合、指名がついていない女の子から早く帰される。露骨な「さっさと帰れ」だ。

「今日はお疲れさまでした。本日分の日払いです」

「ありがとうございます。今日は、すみませんでした…」

 机においてある「アヤさん」と書かれた茶封筒を手に取る。店長のアーモンド形の目が真琴に向けられることはなかった。

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