1-3
時間軸を冒頭に戻す。
宮部は普段よりも出張や残業が多かったらしく、三週間前からこの日までの期間で二人が一緒に過ごしたのは僅か二日間、それも二日間とも泊まりではなかった。
「手紙」を秘密の場所に戻したあとの真琴の頭脳はやけに明晰で、色々なことに合点がいった。
自分などが誰かにとっての唯一の存在になることはできないのだということを思いがけず改めて、痛感した。自分は替えが利く存在で、自分ではない誰かこそがかけがえのない存在らしい。
投げかけられたことのない「永遠」という言葉が脳に焼きついて離れない。
しかし真琴には、宮部の裏切りと言い切ることはできなかった。恋人の心を繋ぎ止めきることのできない、自身の能力不足に、真琴は不甲斐なさを感じていた。
しかし一方で納得しているわけでもなく。「千冬様」を「お嫁さん」にしたいのであれば、自分のことはどうするつもりか。考えても腹落ちする理由をこじつけることができなかったので、やはり本人に聞くのが一番だと真琴は考えた。
もし捨てるのが早いか遅いかという問題であれば、さっさと捨ててもらったほうがありがたい。
「遅くなってごめんね。ただいま」
「おかえり。遅くまでおつかれさま。ご飯、どれくらい食べる?」
「たくさん食べる。真琴の料理大好きだよ」
今までなら、恋人にじゃれつきたくなっていたような甘い恋人の言葉が、まさか中身を伴わない虚無だったとは、真琴は夢にも思わなかった。誠実だと思っていた恋人に対して怒りがこみあげてくる、つとめて冷静に、取り繕おうとすると、今度は涙が溢れてきた。
「このツナのやつ、おいしいね」
「ありがと。手抜きだけどね」
手が込んだポテトサラダよりも、レンジにかけシーチキンを和えただけのもやしを褒められる、なんてことは日常茶飯事だ。隣で恋人が涙を堪えているのにも気付かない人間には、そんな些末への気付きを求めるほうが理不尽かもしれない。
今まで愛おしいと感じていた、恋人のぶっきらぼうなところや、いかにも女心をわかっていないウブだと思っていた点が、自分という存在相手に取り繕う必要がなかったことに起因する振る舞いだったことに気が付いた。
とかく、真琴の頭は冴え渡っていた。
「一樹にとっての絶対って、なに?」
「絶対なんてそう簡単にないよ。あ、でも……強いて言うなら、自分が感覚的に『そう』だと信じられるときに使う言葉かな」
「永遠も?」
「そうだね。多分客観的にみると、『めっちゃ』とか『超』とかいう言葉の、ただの上位互換なんだろうけどね」
「そっか。そうだよね」
「どうしたの? 面白い本でも読んだの?」
こんなタイミングで白々しく沈黙してしまうなんて文化祭の出し物の劇かよ、と真琴は心の中で毒づいた。
「一樹にとって、絶対的な存在は私じゃない人なんだよね」
宮部はようやく、ゆっくりと真琴の方を向いた。重たい一重まぶたの中で眼球がせわしなく動く。けれども、真琴の顔を見ようとはしない。
「ご飯食べたら、私、出てくね」
すでに涙は止まらなかったが、声を上げて泣くのだけは避けたかった。真琴はつとめて冷静に、残りカスみたいなプライドで、溢れる色々を堰き止めた。
「別れるってこと?」
この期に及んで認識合わせをする間抜けな恋人を、真琴はやはり愛おしいと思った。
「そうだね」
「嫌だよ、別れたくない。もう少し待ってほしい。お願いだから」
必死な宮部の姿は、真琴の目には今までと変わらない愛おしい恋人の焦る姿と何ら変わらない。
ああ、やっぱり錯覚だったのかもしれない、否、錯覚じゃなかったとしても、自分さえ何も見なかった知らなかったふりをしていたほうが、やっぱりよかったのかもしれないと、話を切り出したこと自体を後悔すらした。
「真琴と離れたくないよ」
真琴の気持ちはグラグラと揺れたが、つい数時間前まで手の上に乗っていた、何やら書かれた謎の文章が、頭をひグルグルと巡る。
「千冬さんの気持ちが変わるまで?」
しかしそれまでの真琴の当惑は、「チフユサン」という音を聞いた瞬間の宮部の表情を見て吹き飛ぶ。その顔は、切なげな、苦しげな、今まで自分に向けられたことのないものだった。
真琴は、涙と一緒に揺れる気持ちを押し込めて、辛うじて一言、「しばらく距離を置こう」と絞り出した。
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