第2話 トモダチ計画

「咲久弥、おい、大丈夫か!」

 少年の青い瞳は真剣そのものだった。彼は、咲久弥が眠るカプセルの傍らにあるモニターを覗いたせいで、のっぴきならない危機的状況を、その映像をがっつりと目撃してしまった。カプセルを開くための正式な手順など知ったことではなかったので、ガコボコと筐体を殴り付けるというドラスティックな手段に訴え、強制終了という大勝利へと持ち込んだのである。


 蓋の開いたカプセルの中で、咲久弥は、翡翠色の瞳をゆっくりと見開いた。

 まるで、夢から覚めたかのような奇妙な感覚に襲われる。

 辺りはなんだか白く滑らか過ぎて、長者宅で、土間の筵の上で目覚めた時よりもずっと明るかった。それでも目が眩むことが無かったのは、目が晴天を思わせるほど青く、髪は黒く短くツンツンとした少年が、視野の大半を塞いでいたからだった。

「誰だ、おまえは……私の名を知っているのか?」

「あたぼーよ! ほら、俺だよ、素晴すばるだよ! リアルで顔を合わせるのは初めてだろうが、メタバースの高校で一緒だったじゃんか! アバターもリアル準拠だったわけだし、この顔に見覚えあるだろ? 俺たち友達だろ? な? な?」

「知らない」

 素晴と名乗った少年が、必死に自分の顔を指差し訴えているところへ悪いのだが、咲久弥は、率直に答えたのである。

「咲久弥が俺を知らないなんて……

 ダンスバトルじゃ無双の、学園のアイドル咲久弥が……

 MMOなら、バディの俺を頼ってくれる可愛い咲久弥が……」

 素晴は、えらく打ちひしがれた様子で、咲久弥から後退あとじさると、白い部屋の一隅にいじけたようにうずくまったのだった。

 ついさっきまで夜中で、修羅場だったはずなのに、咲久弥が今、床に降り立ったこの部屋は、白く明るい。そして、なぜか彼が浸かっていた、妙ちきりんでぬるい湯船のような物の他にも、様々な仕掛けが設けてあるが、それらは、翡翠色の瞳に映っても意味を成さないのだ。

 咲久弥は、夢から覚めたというより、異世界にでも飛ばされてしまったように感じていた。

「おい……素晴と言ったね? 私はおまえを知らないのだが、この部屋が何なのかは是非とも知りたいし、そのためにはおまえと話をしたいのだ。

 だから……何かちょっとでいいから……衣を着ておくれ」

 素晴はおそらく、長者夫婦のような厄介者ではない。しかし、いじけて座り込んで咲久弥に背を向けた彼は、どうやら素っ裸のようなのである。尻から床へは、ふさふさとした黒い尻尾が流れており……


 え……尻尾?


「その尻尾……おまえ、まさか……」

「おーよ! 思い出してくれたのか? 俺はこーゆーモンだあっ!」

 素晴は、尻尾をパタパタと振るや、勇んで立ち上がり、ボディビルダーのごとくポーズを決める。笑ったついでにその口は大きく裂け、体は黒々と膨張したのである。

 彼は、紛うことなき人狼だった!


「甘酸っぱい茶か……悪くないね」

 咲久弥は、缶入りのレモンティーに口を付け、はにかんだように素晴へと微笑みかけた。しかし、素晴が人狼という正体を開陳してから、その麗しの笑顔を目にするまでには、実に三十分ほどの時間を要したのである。なかなか壮絶な三十分間だった。


 咲久弥は、人狼を視認した次の刹那、条件反射で「風刃!」と叫んだのである。

 謎の白い部屋は、たちまち妖術の暴風域へと突入した。

「おいおいおい! 俺のことを思い出してくれたんじゃねーのかよーっ!」

 素晴は、咄嗟に物陰へと隠れたが、妖術の風は、しなやかな鞭のごとく回り込んでくる。

「痛い痛い痛い! 当たると痛い!」

 素晴は、咲久弥が眠っていたカプセルの蓋に目を付けた。それに駆け寄り腕尽くでもぎ取るという瞬殺のDIYによって、透明で丈夫な盾を得ることに成功したのである。

「咲久弥くん! きみのおとぼけのせいで、お友達の素晴くんは泣いてるぞ!」

 漆黒の人狼は、盾越しに必死に訴えたのだった。

「おまえ……なぜ反撃せぬ? 人狼のくせに」

 咲久弥は、風を放つ両の掌を抜かり無く構えながらも、訝しげに目を細めた。

「だってーっ、咲久弥とは友達だし、俺のほうがちょっとばかし先に目を覚ましたけど、なんだか俺たち二人きりみたいだしーっ」

 妙ちきりんな湯船のような代物が、この白い部屋に二つ置かれているのは事実である。

「そーだ! 咲久弥、おまえ、服がどーたら言ってたよな。実は、この部屋のすぐ隣に倉庫みたいな所があって、そこに行けば服もある! ちょうどおまえもスッポンポンだし、一緒に見に行こうぜ! な? な?」

 はたと、妖術の風が凪いだ。翡翠色の瞳が、人狼の放った衝撃の一言の真偽を確かめるべく下転する。

 咲久弥は、長者宅での修羅場から、ここでこうして人狼との交戦に至るという状況の激動に翻弄されつつも、自分は当然、寝衣と首飾りを身に付けているものと思い込んでいた。

 しかし果たして、素晴は真実を言い当てていたのである。

「首飾りが……無い!?」

 実は全裸であったこと以上に、咲久弥にとっては、勾玉や管玉を連ねた大切な首飾りが消えて無くなっていることのほうが遥かに衝撃的だった。それは、孤児みなしごだった咲久弥が、猿楽一座のお頭に拾われ、何年もの厳しい修業の果てにようやく獲得した、ましら拍子としての魂のごとき宝物だったのだから。

「私は、ましら拍子の咲久弥なのだ! たとえ、妖の血を引いているのだとしても……

 けれど、あの首飾りを失くしてしまったら……ああ! 私はいったい、何者なのだ!」

 咲久弥の呼吸がみるみる荒くなり、彼は、胸を掻き毟りながら倒れ伏す。

 パニック発作のような状態に陥ってしまったのだ。

 そして、白く明るい部屋は、またもや暴風域と化したのである。


 発作は時間が解決した。妖術の風も次第に凪いだ。咲久弥は、随分と消耗したものの、一応の落ち着きを取り戻した時、素晴が傍らに留まって手を握ってくれており、自分もまたその手を握り返していたことに気付いて、翡翠色の眼を見張ったのである。

「おまえ……私の風を、いくらかは浴びたろ? 無傷じゃ済まなかったろうに……」

「まーな! けど、俺ぁやたらと傷の治りが早いんだ。気にすんな!」

 素晴は、黒髪と晴天色の瞳の少年の姿へと戻っており、白い歯を見せて笑いながら、尻尾をパタパタと振ったのだった。


「色々あるぞー……って、俺もさっき一回来ただけなんだけどな!」

 素晴は、咲久弥を倉庫へと案内した。咲久弥よりもものの数時間早く目覚めて、辺りを軽く探検した彼によると、大きな建物の中にいくつもの部屋が並んでいるのだが、誰とも出会わず、倉庫の扉だけが簡単に開いたらしい。特に殴り付ける必要すら無かったのだそうだ。

「これは……一座の旅の荷よりもよっぽど多い」

 咲久弥は、その中にうずたかく積み上げられた箱の量に目を丸くした。

「服は……実は、まだこれしか見付けてねーんだ。なんか、入院したら着せられそうなやつだけど」

 素晴は、咲久弥に一着、手渡した。

「ああ、ありがとうよ。作務衣を簡単にしたような衣だね」

 差し当たりは充分だろう。素晴はまだ他の誰とも出会っていないらしいが、いつかきちんと服を着た人間と遭遇してしまったら、裸のこっちが変に思われるだろう。それに、裸の付き合いは揉め事に繋がりかねないため、そもそも咲久弥は苦手なのである。

 素晴にも着衣を勧めようとしたが、その間も無く、彼は変身を遂げた。

「あっちのほうは食いモンだと思うから、ちょっくら潜ってくるわー」

 一頭の漆黒の狼が、人狼ですらなく四つ足の全くの狼が、そう言って箱の山に潜り込んだのだった。


「咲久弥には、とりまこれがおすすめ。レモンティーだよ、飲みやすいと思う」

「金物の筒? ああ、竹筒に水を入れておくようなものか」

「なんか時代劇みてえな例えだなー! ジワるよ」

「……それはどうも」

 咲久弥が仕掛けた着衣に関する交渉は決裂した。素晴は、手渡された衣服を身に纏うのではなく、風呂敷のように使って、二人が元いた白い部屋へと飲食物を運んだのだった。

 俺が服を着たって、変身するたび破けて無駄になっちまう。マッパ・イズ・フリーダムだ!——という素晴の言い分の前半には一理あると、咲久弥も思うのだ。

 私はおまえのように、剛毛を気儘にわっさわっさと生やせるわけじゃあない。布一枚で身を守ることにも意味があるんだよ——という咲久弥の言い分にも納得してくれた素晴である。

 ここに、裸族と嫌裸族は、歩み寄らぬまでも認め合い、共存することとなったのである。

「甘酸っぱい茶か……悪くないね」

 咲久弥は微笑んだ。

 二人は、始まりの白い部屋で、食卓にできそうなものと椅子にできそうなものを適当に並べて、腹拵えに取り掛かった。

「この干し肉……うますぎる!」

「本当だ! こんなに香り高いのは、私も初めてのような気がするよ」

 備蓄食料は豊富だったため、少年たちは、遠慮無く欲を満たした。

「ところでさ……俺のかっこいいとこ、バンバン思い出したりしてない?」

 素晴は、上目遣いに咲久弥を見た。

「いや、今のところ、ハードル走で失格になったあの一件だけさ」

 咲久弥は至って率直に応じたため、今は少年の姿をしている素晴は、がっくりと肩を落としたのである。

 実は、倉庫で漆黒の狼と化した素晴を目撃した刹那、咲久弥は記憶の稲妻に撃たれたのである。

 それは、素晴が言及していた、高校生活での一場面らしかった。

 素晴は、まさに漆黒の狼の姿でハードル走に参加して、抜群の先頭でゴールへと身を躍らせたのだが、上でのことだったため、ルール違反であっさり失格となったのである。

「あの一件、悪く言われ飽きたんじゃないのかい? ただ、おまえのあの姿は、災害救助なんかには向いてるんじゃないかと……そういう目で見れば、ちょっとは格好良かったかもしれない」

 すると素晴は、晴天色の瞳を輝かせて、千切れんばかりに尻尾を振ったのだった。


 咲久弥にとって、猿楽一座で過ごした記憶は、未だ確固たるものだった。しかしその一方で、メタバース上の高校に在籍して、容姿も能力も現実を反映したアバターと一体化して学び、そこで素晴と出会っていたことも、朧月のごとく薄ぼんやりとだが思い出されてきたのだった。


「俺たちは、『トモダチ計画』ってやつのせいで生み出されたらしい」

 語り始めた素晴に、咲久弥は頷いた。

「人口が減る一方の時代がやって来て、労働力を補う必要が出てきた。まずはロボットを作ったけど、まだまだ足りない。

 そこで、妖の遺伝子を元にクローンを生産して、人間社会の労働力となるを造ろうとした——そのプロトタイプのはずなんだけどなー、俺たちって」

 人間と共存可能な社会性と、それ相応の知性を身に付けるべく、メタバース上の高校に集められていたというわけだ。

 古来、ひっそりと人間に紛れて棲息してきた妖だが、近年、その存在を確認されたばかりか、遺伝子まで解析されクローンを製造されて、圧倒的に数で勝る人間との関係性にも変化が生じているのだった。

「素晴、おまえは間違い無く人狼だろうけど、私は、どういった妖のクローンなのだろう? そこが思い出せないんだよ……」

 翡翠色の瞳が、不安気に揺らめく。

「んー……おまえ自身の口から、ハイブリッドだって聞いたことはあるけど、それ以上は知らねーんだ。わりぃな」

 咲久弥は、自虐的にクツクツと笑った。

 ハイブリッドとは、要は雑種だ。猿楽一座にいた当時は、人と妖の混血ではないかと気に病んでいたものだが、どうやら、当たらずと言えども遠からずだったらしい。まあ、「人か妖か」と問われる機会でもあったなら、今後は、妖の雑種らしいと答えることにしようか……

 素晴は、咲久弥の手を握ってくれたが、彼は彼で、憂いを帯びた表情を浮かべていた。

「俺たちは、人間のトモダチだー、希望の星だーつって、それなりに大事にされてたはずなんだ。それが、いつの間にやら、高校じゃなくて個別のシミュレーションに閉じ込められちゃってさー……

 俺とおまえは、高校じゃバディだったけど、別々の研究所ラボ出身のはずなんだ。それが、こんな放棄されたような施設で、気が付けば二人っきりだなんて、もう、わけわかんねー……」

 咲久弥は、素晴の手を握り返した。

「私は、その辺りのことなら、少し思い出せるよ。

 ある時突然、人の世で、厄介なやまいが流行したんだ。新型のウイルスがパンデミックを起こして、人間がそれに感染するとひとたまりも無かったらしい。それで、トモダチ計画も一時中断されることになったんだ。研究者たちも人の子だからね。そして、大切な成果物を廃棄するのは忍びないと、計画を中断する間、私は隔離されることになった……はずなんだよ」

 咲久弥の物言いがいささか尻窄みになったのは、彼が、生みの親たる研究者の女性の顔や名前を思い出そうとしても、なぜか、猿楽一座の頭目だった白拍子の姿が、でんとした存在感を持って蘇るばかりだったからである。

「そうだ……妖は、人間とは違って、まず感染しないはずだから、大丈夫だからって……あの人は、泣き笑いしていたっけ……」

 咲久弥の脳裏では、白衣の女性が、背中を震わせているのだが……彼の胸中のど真ん中では、お頭がカラカラと笑い声を立てているのだった。咲久弥が一座と共に過ごした日々が、もしもシミュレーションに過ぎなかったとしたら、彼女もまた架空の人物に過ぎないはずだろうに……


「そうだ、素晴は、どんなシミュレーションを経験していたんだい? 時代劇じゃあなかったのか?」

 素朴な好奇心から、咲久弥は尋ねてみた。

「おーよ! 俺は劇じゃなくてバトル三昧だったぜ。一人っきりで、碌な装備も無いまま、色んなフィールドで戦わされてたよ。敵の中にはゾンビまでいたからさ、これはシミュレーションなんだろうって自覚もあったな」

「ゾンビかい!? それは流石に、実在したところで、人間のトモダチにはなれそうもないね。クローン技術を使わずとも、どんどん増やせそうではあるが」

 サバイバルゲームの定番の敵キャラだよなと、少年二人は笑い合ったのだった。

「だよなー! ただ、俺のシミュレーションは、なんで終わったんだろう? 切っ掛けがわかんねえ」

 素晴は首を捻る。少なくとも、彼のシミュレータのカプセルをガコボコと殴った者など、誰も存在しないのだ。

「元からタイムリミットが設定されていたのかもしれないねえ」

 咲久弥は、思慮を巡らせた。

「私には、一つ気になることがあるんだ。私たちがシミュレータのカプセルに隔離されていた間に、実際にはどのくらいの時間が流れたんだろうね?」

 素晴は、まじまじと咲久弥を見詰めた。

「おまえは、高校で会った時と比べて、べつに老けてないぜ」

「おまえも特段、禿げ上がっちゃいないさ。けれど、肉体的な加齢を抑制する技術を使われていたのかもしれない」

 咲久弥は、高校時代と容姿に変化が無いからといって、大して時間が流れていないという証拠にはならないと言いたかったのだ。

「よっしゃ! 外に出てみようぜ!」

 素晴は、両の掌を、バンと食卓に打ち付けた。

「結局は、そうするしか無いだろうね。私たちが、備蓄食料をちゃんと賞味期限の内に腹に収められたのかどうかを確かめるためにも」

 咲久弥は、少々悪戯っぽく応じた。

「おー、このレモンティーは、俺たちが高校に行ってた時分から数えて、十年後が賞味期限だな。おい、この干し肉はなんだ! SAMPLEとか書いてあるけど、賞味期限も消費期限もどこにもねーぞ!」

「期限切れからそれこそ百年以上も経ってたりしたら、半日後の腹具合が楽しみだねえ」

 さんざん食い散らかしておいて慌てふためく素晴に、咲久弥は声を立てて笑ったのだった。

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