第142話 不興


6日目―――2



『起きて……』


知らない誰かの囁き声が聞こえた気がして、僕はふと目を覚ました。

まだ周囲は暗く、夜明けまでは少し時間がありそうだ。

しばらく耳を澄ませてみたけれど、他の客の寝息やいびきが聞こえて来るのみ。


空耳か、或いは他の客の寝言だったのかも。


二度寝をしようとして、僕は隣の布団が空なのに気が付いた。


セリエ、トイレか何かに行っているのかな?


そのまましばらく待ってみたけれど、セリエが帰ってくる気配は無い。

嫌な胸騒ぎを覚えた僕は布団から起き出して、階下の酒場へと降りてみた。

夜明け前にも関わらず、数人の客がのんびり座っていた。

僕は彼等に声を掛けた。


「すみません、獣人の女の子、見かけなかったですか?」


僕からセリエの特徴を聞いた客の一人が言葉を返してくれた。


「ああ、その子なら、少し前に出て行ったよ?」


こんな夜明け前にどこへ?


胸騒ぎが次第に強くなってきた。

僕は一度2階に戻り、ヨーデの街で買い揃えた鎧と剣を身に着けた。

そして急いで外に飛び出した。

しかし見える範囲に、セリエの姿は無い。

右腕にめている腕輪に意識を集中しながら、霊力の展開を試みた。

そしてセリエがどこにいるのか、探ってみた。

すると朧気おぼろげながらも、セリエの向かった方向が、何となく感じ取れた。

それはこの街の中心部にそびえ立つ、神様が住んでいるという……


「聖空の塔?」


僕は今“視えた”情景に首をひねった。


彼女はこんな早朝に、なぜそんな場所に向かったのだろうか?

昨日話したキガルという名の魔族の女性は、聖空の塔の直下は立ち入り禁止になっていると教えてくれた。

ともかく、何か妙な事に巻き込まれる前に、セリエを見つけないと……


僕は人気の無い大通りを、街の中心部へと走り出した。



走る事30分。

息がすっかり上がってしまった頃、ようやく聖空の塔が、正面に大きく見えてきた。

空は既に白みかけているけれど、通りにはまだ人影は見られない。

聖空の塔の周囲は、白い柵で囲まれた庭園になっていた。

しかし出入り口のような場所は見当たらない。

少しためらった後、僕は柵を乗り越え、中に入った。

眼前に、見る者に畏敬の念を抱かせる巨大な塔と、その周囲で、美しい花々が咲き乱れる幻想的な情景が広がっていた。

そしてその一角に、うずくまるようにしてセリエの姿があった。

かたわらに、こちらに背を向けた一人の女性が立っている。


「セリエ!」


僕の上げた叫びに、セリエと『彼女』とが同時に振り向いた。


「!!」


腰まで届くきらめくような黒髪。

その瞳は星を映し出すかの如く輝き、その肌は透き通るかの如く白い。

そして不可思議なきらめきに包まれた、薄紫色の軽装鎧を身にまとっていた。


その姿はまぎれもなく……


「サツキ……?」


その場で呆然と立ち尽くしてしまった僕に、『彼女』が右の手の平を向けてきた。

次の瞬間、僕は身体の自由を奪われた。


これは……霊力による拘束!


その時、突然天空から“声”が響いた。



―――よくやった、アルファよ。さあ、まずは、そこの獣人の少女から処刑するのじゃ



この声……!?


この声、僕は確かにどこかで耳にした。

しかしそれがいつどこでといった記憶は、何故か曖昧だ。


僕の視界の中、やはり“声”を耳にしたらしい『彼女』の顔に戸惑いの色が浮かぶのが見えた。


「お待ち下さい、しゅよ! 禁足地への侵入は、説諭の上、神都からの永久追放と定められております」



―――その規則を策定したのは、私じゃ。その私が裁きを下した。その少女を殺し、魂を浄化するのじゃ



「ですがしゅよ。災厄は私がこうして拘束しました。浄化はこの災厄だけで良いのでは?」



―――アルファよ、私がくだした裁きに異を唱えるか? 不遜であるぞ!



次の瞬間、天空より凄まじい霊力が放たれた。

その力はセリエを直撃した。

セリエの胸に大きな穴が開き、その身体がゆっくりと横倒しになった。

そしてひとしきり痙攣した後、血だまりの中で動かなくなった……!


「セリエ!」


僕は絶叫していた。


何事も神様のおかげで、神様がする事に間違いは無いと信じて……

そのセリエが、神様が住んでいるはずの場所で、なぜ理不尽に死なないといけない!?


心の中で、得体の知れないどす黒い感情が爆発した。

そしてその感情は、霊力による拘束を容易に打ち破った。


そのまま僕はセリエのもとに駆け寄った。

そして彼女の身体を抱き上げた。

涙が止めどもなくあふれ出してくる。


「ごめん、セリエ……僕が……神都への道案内を頼んだばっかりに……」


僕はセリエの身体をそっと地面に横たえると、ゆっくりと立ち上がった。


目の前の『彼女』。

声も姿もサツキそのものだが、絶対にこの『彼女』は、サツキではない。

サツキであって良いはずがない!

この女もあの“声”も絶対に許さない……!




アルファは事態の急展開に理解が追い付かず、一瞬固まった。

命まで奪う予定の無かったはずの獣人の少女は、しゅによって処断された。

自分の方はと言えば、わずかな憐憫の情に流されて、しゅの不興を買ってしまったばかりか、“災厄”が拘束を振りほどき、自由を取り戻してしまっている。

慌ててアルファは、再び霊力で“災厄”を拘束しようと試みた。

しかし“災厄”の瞳に宿る、燃えるような増悪に気圧けおされてしまったのか、うまく霊力を展開出来ない。




心の奥底から湯水のように沸き上がって来る黒い感情に突き動かされるまま、目の前の『彼女』を殺すための霊力を練成しようとした僕の耳に、知らない誰かの囁き声が届いた。


『そんな形で力を使わないで。正しい使い方をすれば、セリエを助けられる。だからそれまでは……』

「誰!?」


次の瞬間、セリエの身体が忽然こつぜんと消え去った。


「何が……起こって……?」



―――どうやら、ネズミがまぎれ込んだようじゃ



天空から苛立ちがこもった“声”が響いた。



―――アルファよ、お前は罪を犯した。私に逆らい、今また、ネズミに聖域をけがさせた



しゅよ、お赦し下さい」


『彼女』がひざまいた。

その『彼女』に冷酷な“声”が浴びせられた。



―――お前は罪を償わねばならない。お前をしばし、神都から追放とする。そこの災厄を自ら処断し、自力でここまで帰ってくる事が出来れば、お前に赦しを与えよう



次の瞬間、僕は壁や天井がほのかに燐光を発する、天然洞窟のような場所にいた。


「ここは、一体?」


一瞬にして、どこかへ転移させられたのであろうか?

周囲の状況を確認しようとした矢先、僕は尋常では無い殺気を感じてった。

顔のすれすれを、剣が通過した。


「冥府の災厄め、覚悟!」


『彼女』が再び剣を振り上げ、襲い掛かってきた。

しかし僕の目には、『彼女』の剣の描く軌跡が良く“見えた”。

闇雲に振り下ろされてくる剣を、そう苦労も無くかわしながら、僕は少し疑問を感じた。

先程、『彼女』は僕を拘束した時、霊力を使っていた。

ならば霊力を操れるはずの『彼女』は、何故ここで“殲滅の力”を使わないのだろうか?




アルファは気持ちに余裕が無くなっていた。

一刻も早くこの“災厄”を殺し、神都に戻らないと、しゅから完全に見放されてしまうかもしれない。

それはしゅにより創造された『彼女』にとっては、あってはならない未来であった。

なのにこの“災厄”は、まるであざ笑うかのように、自分の攻撃を楽々とかわし続けている。

おまけに、反撃もしてこない。

なぜなのか?

自分の無力さを思い知らせてから、なぶり殺そうとでも思っているのか?




『彼女』の攻撃をかわしながら、僕は霊力の展開を試みた。

しかし、やはり極めて微弱な霊力しか感じられない。

この程度の霊力では、目の前の『彼女』の拘束すら難しいだろう。

さて、どうするべきか?


その時、僕は視線の先、『彼女』の背中越しに、5mはありそうな巨大な蟻の化け物が音も無く忍び寄って来るのを見た。

頭に血が上っているのだろう。

『彼女』が背後に迫る危険に気付いた様子は見られない。

そして蟻の化け物は、その槍のような脚を振り上げ、『彼女』目掛けて振り下ろしてきた!


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